全党派参加内閣の形成と挫折

 黒田は組閣にあたり、前首相の榎本を参謀役とした。

 首相と閣僚の関係でともに第一議会で民党に対峙した二人は、政党を完全に排除した状態での政権運営の限界を痛感していた。

 一方で「不偏不党」という建前を守る必要もあったため、衆院の主要会派から閣僚を取る「全党参加型内閣」を構想する。

 

 ただし、政党から閣僚を登用することに慶喜が難色を示したため、組閣は難航。

 とりあえず黒田が全閣僚を兼務する形で内閣を発足させた。

 調整の結果、「政党員ではなく個人の刺客で入閣する」という形でまとまり、一〇月一五日に改めて閣僚を任命した。

 

 自由党からは林有造(法相)、改進党からは河野敏鎌とがま(農商相)、大成会からは増田繁幸(蔵相)がそれぞれ入閣した。

 その他の閣僚人事は外相に榎本、内相兼警相に川路利良(薩摩)、陸相に大鳥圭介(旧幕)、海相に樺山資紀(薩摩)が入閣。

 また、大久保側近の伊東巳代治(肥前)を逓相として初入閣させ、勝の子飼いの藤堂盛隆海軍中将を文相に登用するなど、藩閥大物たちへの配慮も示した。

 一口に言って「全方位型内閣」と評することができるだろう。 

 


 


 当初の構想では政党からは党首、もしくはそれに準ずる人材が入閣する予定であったが、当時の凝集性の低い政党では党首が党を離れることは難しかった。

 

 それまで継続して閣僚の地位にあった松方や西郷が閣外に出、前首相の榎本が外相に起用された他は初入閣組が目立ったため、「軽量内閣」や「緞帳内閣」(舞台裏にうる大物たちに操られるの意)などと揶揄されたが、首相・黒田の若さと相まって、刷新感があり、民党系の新聞の中にも閣僚人事を好意的に取り上げるものもあった。

 

 こうして見ると、黒田内閣は民党に宥和的であったかのように思われるが、それは一面に過ぎない。

 黒田は内閣発足直後に首相直属の部署「内閣政務部」を創設した。

 その任務は新聞社の買収、民党系議員の切り崩し、世論工作などであり、活動資金の出所は内閣機密費、一部の藩閥系高官しか存在を知らないという秘密部署であった。

 当初、政務部長には内閣書記官長の林董が擬されていたが、新聞行政を所管する内務省、それに言論取締りを担当する警察省が強硬に反対したため、内相兼警相の川路利良が兼務することとなった。

 

 準閣僚級の内閣書記官長が兼務するより、閣僚が兼務することで格上げにはなったが、実態は自らの縄張りを侵されそうになった内務省と警察省が協同して骨抜きにかかったのであった。実際、政務部はほとんど見るべき成果を挙げることなく、黒田内閣退陣とともにひっそりと廃止された。

 

 ざっくばらんな性格を活かして、政治的に対立する相手に対してもいつの間にか懐に入り込むのが黒田の強みであった。

 と同時に政党の懐柔を図りながらその力を削ごうとした政務部の試みは、黒田という政治家のもう一つの面を表しているようで興味深い。




 第二議会は明治一四(一八八一)年一一月二六日に開会した。

 衆院の三大有力会派を閣内に取り込んだことで、第一議会とちがって平穏な議会になるかと思われたが、その期待は早々に裏切られる。

 

 黒田は第二議会にかねてより懸案であった「鉄道国有化法案」の提出を試みる。

 日本の鉄道は江戸時代の弘化四(一八四七)年に江戸の商人有志が幕府の許可を得て、江戸の新橋と横浜を結ぶ路線を開業したことに始まる。

 

 その後、日本経済の発展と一八五〇年代から六〇年代にかけての産業革命の訪れに伴い、各地の有力商人が幕府や大名家の許可を得て、鉄道を敷設する例が相次いだ。

 以上のような経緯があり、明治に入っても日本の鉄道の多くは民営であった。

 

 しかし、こうした民営鉄道(私鉄)の中には中小事業者も多く、倒産も珍しくなかった。

 また、江戸時代にそれぞれの事業者が、めいめいに領主の許可を得て敷設した名残で、ブツ切りの短小路線が全国に散らばっている有様であった。

 これらを整備して、国全体としての一つの交通網とすることは、明治政府始まって以来の課題であったが、私鉄の経営権を握る資本家の反対や、政府の資金不足などもあり、明治一四年段階では、政府系鉄道会社「日本鉄道」によって、大阪―江戸間の幹線を開業させたのを除き、ほとんど進んでいなかったといってよい。

 

 黒田が成立させようとした、「鉄道国有化法」はその長年の課題を一挙に解決することをねらった野心的な法案であった。

 「鉄道国有化法案」とは、「私鉄買収法案」と「鉄道公債法案」の二法案の通称であり、前者が鉄道の原則国有化と、その代償として私鉄路線の一定の距離につき定額の補償を支払うことを定め、後者がその補償と政府による鉄道敷設の資金調達のための公債発行を許可する内容であった。

 

 民党の議員や支持者には、私鉄経営権を握る資本家が多くいたが、民党を閣内に取り込んだことで、その支持を得やすくなり、法案成立に向けた環境が整った、というのが黒田の計算であった。

 

 しかし、この思惑は出だしから躓く。法案の概要が明らかになると、私鉄の株主である資本家と地主を主な支持層とする自由党と大成会が反対を表明した(同じく都市部資本家を支持基盤としていても、官僚層の支持も強い改進党は党としては態度を明確にしなかった)。

 

 閣僚の中でも増田蔵相と林法相が出身党の意を体して反対の立場をとった。

 民党との対立を懸念した黒田は、榎本の助言を容れてより妥協的な法案を検討するように、鉄道行政を所管する伊東巳代治逓相に命じたが、伊東はこれを拒否。

 さらに藩閥出身閣僚の中に伊東に同調する動きが出たため、「藩閥対政党」の図式が閣内で再現される様相となった。

 

 首相の人事権を行使し、閣僚を罷免することはできたが、民党出身の閣僚の首を切れば民党の、藩閥出身閣僚の首を切れば藩閥の支持を失うことになる。

 窮した黒田は大久保や榎本ら重鎮に助言を求めた。

 榎本は改進党や無党派議員との提携を、大久保は議会を解散し、民党の力を削ぐことを助言した。

 結局、黒田は大久保の強い勧めに従い、初の衆院解散を決断した。

 

 挑戦的な試みであった「全党派参加型内閣」は、わずか二カ月で挫折した。

 議会政治の開始当初、「政府の与党」となることが期待された大成会であったが、ここに至って完全に政府と対立することとなった。

 

 黒田の見通しとしては、鉄道国有化法案にも明確に反対しなかった改進党と提携した上で、総選挙で自由党と大成会の力を削ぐつもりであったと見られる。

 現に解散の直前、黒田の周辺から大隈に対し、解散が洩らされた形跡がある。

 超然主義の原則はなし崩し的に形骸化されようとしていた。

 

 明治一四年一二月二日、憲政史上初めて衆議院は解散された。

 そしてこれが、日本憲政史上に残るスキャンダル「選挙干渉事件」の幕開けでもあった。


 


  

  


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