選挙干渉事件と黒田内閣の崩壊
第二回衆院議員総選挙における選挙干渉は、中等学校の国史教科書にも載るほど著名な事件である。
内務省と警察省、それに政務部が結託し、買収、言論統制、民党系候補の不当摘発、警官による演説妨害、開票不正などの手法などが駆使された、我が国憲政史上最大のスキャンダルの一つとも言われる。
この選挙干渉は「川路干渉」の別名もあるとおり、内相と警相、政務部長を兼務していた川路利良が主導したというのが通説だが、実態としては三島通庸内務次官と大迫清貞警察次官を中心に内務・警察両省の薩摩系官僚が行ったもので、川路はそれを黙認した形であったらしい。
選挙干渉は主に薩摩出身者が知事を務めていた府県で行われ、政府の調べによれば全国で死者二五名、負傷者三八八名が出た。
とりわけ自由党のお膝元である高知県では激しい弾圧が行われ、死者一〇名、負傷者六六名を出す事態となった(『日本警察史』)。
また、政府による弾圧は、黒田首相が提携を模索していた改進党に対しても行われたことから、選挙干渉が内務省―警察省ラインによる暴走であったことがよく分かる。
投開票は明治一五(一八八二)年二月一五日に行われた。
選挙結果は自由党九四、中央交渉会八一、改進党三八、大成会三一、諸派・無所属五六議席であった。
「中央交渉会」は選挙直前に親政府系の諸派・議員を糾合して結成された会派で政府からの資金提供を受けており、自由党・改進党・大成会から寝返った議員も多くいた。
選挙干渉は政府系会派を衆院における第二勢力に押し上げる「成果」を挙げたが、一方で自由党は第一党を維持し、自由党・改進党・大成会の三党派を合わせれば過半数を超えていた。
干渉によってこれらの三党派の政府への態度は硬化することが確実で、政府の議会運営はより一層厳しくなるものと思われた。
選挙干渉の結果はトータルで見れば、政府にとってマイナスであったことは間違いない。
第三議会は明治一五年五月六日に招集された。
通常会ではなく憲法五五条に基づく、初の特別会であった。
議場には選挙活動に負傷した議員も多く、包帯の白い色が目立った。
議会の冒頭、自由党・改進党・大成会および民党寄りの諸派、無所属議員が合同で黒田内閣に対する問責決議案を提出した。
政府は無所属議員を切り崩すなどしたが、一四六対一四三で可決された。
これに勢いを得た民党側は「川路内相兼警相辞任要求決議」や「選挙干渉の真相究明決議」などの決議案を立て続けに提出した。
これらはいずれも法的根拠のないもので、政府としても黙殺する構えであった。
しかし、民党側は明治一五年度予算を人質に取る戦法に出る。
第二議会は予算成立前に解散したため、憲法一〇七条の規定(予算が年度内にせざるときは前年度予算を臨時予算とすることができる)を利用し、明治一四年度予算を臨時予算としていた。
政府としては軍備拡張費や鉄道整備費などを盛り込んだ一五年度予算を一刻も早く成立させたいところであったが、民党側は「川路内相兼警相の辞任」及び「選挙干渉に関係した政府高官・知事・地方警察部長の罷免」が実現されない限り予算審議に応じないことを宣言。
第三議会は遂に予算を成立させぬまま、六月一四日に閉会した。
もはや政府の統治能力が疑われる段になり、大統領・慶喜は黒田首相・榎本外相・勝枢密院議長・大久保副議長の四人を招集。
善後策を協議した。
会合は六月三日を初めに複数回行われたが、勝は選挙干渉について「薩摩による不始末が国を危機に陥れている」と断じ、「川路を始めとする薩摩の高官たちの粛清」を行うよう黒田と大久保に迫ったという(『氷川清談』)。
選挙干渉には薩摩出身者が多く関わっており、民党の要求に応じれば薩摩閥が壊滅的打撃を蒙る恐れがあった。
さりとて民党の協力なしに予算を成立させる見通しは立たなかった。
薩摩閥か予算かの二者択一を迫られた黒田は、自身の内閣の総辞職を条件に予算成立に協力することを民党に申し入れたが、民党側は選挙干渉の実行部隊となった知事ら辞職を譲らなかった。
予算が通らないことは政府にとって苦境であったが、同時に民党にとっても重要な減税、地方振興、産業振興などの予算が通らないことを意味していた。
そうすれば民党支持層から不満を民党も無視できなくなる。
そのタイミングを狙って、民党との手打ちに持ち込む、との計算が黒田や榎本にあったものと思われる。
しかし、そうした思惑は意外なところから破綻する。
七月二三日、隣国の朝鮮の首都・漢城で兵士と民衆による叛乱が勃発。
政庁や外戚の閔氏の邸宅、日本公使館などを襲撃した。
日本公使館員にも死者が出、公使館員は日本軍の軍艦で避難を余儀なくされた。
当時の朝鮮では外戚の閔氏を中心とする一派が日本の支援の元に開化政策を進めており、国王の父・大院君を中心とする一派と政争を繰り広げていた。
事件を引き起こしたのは、待遇に不満を抱く兵士と重税に喘ぐ民衆たちであったが、その背景には大院君派の扇動があったとされる。
また、大院君派の背後には朝鮮にとって伝統的な宗主国である清朝があり、事件は朝鮮をめぐる日清対立の縮図の様相を呈していた。
公使館員に犠牲者が出たことで日本の国内世論は激昂した。
政府も清朝との緊張がにわかに高まったことで、可及的速やかな軍備増強を迫られた。
明治一五年八月、政府は突如として府県知事と地方警察部長の大異動を実行した。
異動させられた知事や警察部長の多くは選挙干渉を実行した薩摩系であり、事実上の更迭であると見られた。
さらに同月二五日、黒田内閣は総辞職した。
予算成立の目途も経たない混乱の中、突然の辞任劇だった。
この辞任の背景には選挙干渉、予算不成立、さらには地方官の大更迭を行い、薩摩閥を事実上壊滅させたことなど、複雑な背景があったと見られるが、当時の政府幹部らの関係史料は皆沈黙しており、詳細は明らかではない。
ただ、総辞職の三日後、大久保利通邸へ黒田が泥酔し、日本刀を携えて乱入するという椿事があった。
当時大久保は、黒田内閣の後継である第二次勝義邦内閣に内閣へ内相として入閣し、本格的な中央政界への復帰を果たしていた。
黒田が薩摩系地方官の大粛清を行った背景として、一説には大久保の圧力があったともされ、結果的に自身の出身郷党の壊滅に手を染めさせられ、失脚へと追い込まれた自分と、復権を果たした大久保との差に強い不満を抱いての行動であったともされる。
ちなみに黒田は以前から酒乱として有名であった。
薩摩藩士時代に酔った勢いで民家に大砲を打ち込むなど、その手の話には事欠かかず、亡くなった前妻も黒田が酔って斬殺したとの噂が立つほどであった。
いずれにせよ、黒田はこの醜聞により完全に政界の主流からは外れ、以後首相や閣僚を務めることはなかった。
黒田がもたらした薩摩閥の壊滅は、政治的地殻変動をもたらした。
黒田の地方官粛清を止めなかったことで、大久保もまた薩摩閥総領としての地位を失った。
重要な政治的資源を失った大久保は以後、伊藤博文や伊東巳代治、金子堅太郎、林董といった有望な中堅・若手官僚たちとの結びつきを強め、政府内に本格的に「大久保派」を形成していく。
また、薩摩閥が壊滅する中で、旧幕閥もその存在意義を失い、解体していく。
元々旧幕臣たちが薩摩閥への対抗上便宜的に結びついていただけの存在に過ぎなかった。
解体した旧幕閥は、勝派と榎本派に再編されていった。
こうして、明治初期の特徴である旧幕時代からの地縁によって結びついた藩閥が政治を動かす「藩閥政治」の時代は終わりを告げた。
以降は有力政治家の個人的信望と人脈、あるいは利権によって結合した「派閥」が主要な政治的プレイヤーとなる、現代にも続く「派閥政治」へと移行していく。
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