開拓使官有物払下げ事件

 第一議会を乗り切り、しばらくは安泰と思われた榎本内閣であったが、その前途に暗雲が立ち込める。

 明治一四年七月頃に発生した「開拓使官有物払下げ事件」である。

 

 資源や農地開発、それにロシア帝国からの防衛を目的として、当時は「蝦夷地」、「北蝦夷地」と呼ばれていた北海道および樺太に本格的な入植が開始されたのは、一八世紀末、田沼時代のことである。

 江戸幕府によって進められた開拓政策は、明治政府に引き継がれ、明治四(一八七一)年に北海道および南樺太の司法、立法、行政を担う「開拓使」が設置され(初代長官は黒田清隆)、その下に平時は開拓に従事し、有事には防衛にあたる「屯田兵」が置かれた。

 ただし、これらの制度はいずれ本土と同様の制度が布かれるまでの暫定措置で、設置期限は明治一五(一八八二)年とされた。

 

 当初の予定通りに明治一五年六月を以て開拓使の廃止が決まり、屯田兵は「第七師団」へと改編されることとなった。

 開拓使傘下で経営されていた農場や牧場、乳製品製造などの事業は民間企業に売却されることとなった。

 ただし、売却先の選定は公募ではなく、政府内で非公開に行われた。

 最終的に北海道・樺太を中心に海運・商社・銀行・炭鉱などを経営する高田屋財閥と、江戸で貿易業を営む元薩摩藩士の実業家・五大友厚の二者に絞り込まれ、より高い価格を提示した五代への払下げが内定した。

 

 明治一四年七月、この件を「大江戸日日新聞」が報じた。

 「大江戸日日新聞」は、明治五(一八七二)年に浮世絵師の落合幾次郎らによって創刊された我が国でもっとも初期の近代新聞の一つであり、現存最古の日刊紙であるが、この頃は比較的政治色が薄く中立的、絵を多用した記事や娯楽小説の連載などで、知識人から庶民まで読者も多かった。

 大江戸日日新聞での取り上げ方はさほど大きなものではなかったが、この報道が京都・大阪に伝わり、郵便報知新聞や都新聞などの主要民党系新聞が取り上げたことで、開拓使官有物払下げは政治問題化する。

 

 

 民党系新聞の論調は似通っていたが、以下の三点に要約できる。

①官有物の払下げ価格は不当に安価である、②元薩摩藩士の五代友厚に払い下げるのは癒着である、③故に払下げは不当である。

 民党系新聞の主張には確たる根拠はなかった。

 実は払下げ予定の官有資産には旧幕時代の老朽化したものも多く、官有事業についても赤字のものが含まれており、五代の提示した価格はむしろ割高であった。

 

 また、確かに五代は元薩摩藩士であり、同郷の大久保利光や黒田清隆とも親しく、そのことが払下げに有利に作用したことは否めない。

 一方で五代は当時、政治的機能を失い、人口の多くを占めていた武士が去ることで衰退の兆しを見せていた江戸で、「江戸商法会議所」(現在の江戸商工会議所の前身)をつくり、江戸と関東の商工業振興に尽くすなど、単なる商業的な枠組みを超えた行動を示す実業家であった。

 その五代が、あえて高値で開拓使の資産を買い取るということは、自身の利得のために大久保や黒田との関係を利用したというよりも、北方の産業振興のために身銭を切ったという側面が強いというべきであろう(そもそも、この頃、大久保は枢密院審議官、黒田は内相で直接払下げに関与できる立場でなかった)。

 

 そうした事情を知ってか知らでか、民党はこの「スキャンダル」を政府揺さぶりのために利用しようとした。

 ちなみに内密に進められていた払下げを新聞にリークしたのは、開拓使廃止に反対する開拓使官僚、政府内の反薩摩派、あるいは払下げで競合した高田屋財閥など諸説あるが、現在でも明かではない。

 

 自由党、改進党、それに大成会などの諸党派は連名で政府に臨時議会の招集を申し入れた。

 ただし、議会や議員の要求によって議会を招集する規定は憲法にも議院法にもなく、政府は当初これを無視し、払下げも予定通り行う強硬姿勢を示したが、次第に批判の声が世論に広まるにつれて、態度を変えざるを得なくなってくる。

 

 九月末、徳川慶喜邸に榎本首相、大久保枢密院顧問官、この頃は無役の勝義邦が招集され、善後策が話し合われた(徳川慶喜、松平慶永宛書簡)。その会合で払下げの中止と榎本内閣の総辞職が合意された。

 

 払下げの中止だけでなく、内閣総辞職までが合意されたのは、一応「責任を取った」という形をつくることで、翌年の第二議会での追及を和らげる狙いがあったと思われる。

 また、榎本があっさり辞職を承知したのには、「第一議会を乗り切った」という実績をつくった今、無理に政権にしがみつく動機が薄かったという理由があろう。

 

 後継首班は榎本の強い推薦で黒田が選ばれた。

 それまでの慣例に沿えば、次は薩摩から首相が選ばれるべきではあったが、ここで榎本があえて大久保ではなく、黒田を推したのには主に二つの理由があったと思われる。

 

 第一に榎本は黒田を自身の内閣の内相として使ううちに、意気投合し、二人は個人的に親密になっていたこと。

 薩摩閥の中でも個人的に近しい黒田を後継首班に据えることで次期内閣に対する自身の影響力を確保しようとしたこと。

 第二に薩摩閥の次期領袖候補最右翼の黒田を取り込むことで、薩摩閥の分断を図ろうとしたこと。

 

 大久保としては、榎本の意図を察知していたとしも薩摩閥の後輩を後継首班に推薦されては反対し辛かった(あまり強く反対すれば、黒田の反感を買う恐れがある)。

 榎本は前任首相としての立場を最大限利用して、大久保、さらには勝や慶喜といった有力政治家たちの機先を制したのである。 

 第一次勝内閣外相としての挫折、そして首班として第一議会を乗り切った経験は、榎本を急速に老獪な政治家として成長させていた。

 また、これ以降後継首班の選定にあたっては前任首相の意向が尊重される慣習ができるようになる。

 

 一〇月八日、榎本内閣は総辞職し、黒田清隆内閣が成立した。

 四二歳、現在でも破られていない最年少記録である。

 この若き首相が年明けに控える第二議会をいかに乗り切るのか、世間の耳目が集まっていた。

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