満洲自治政府の成立


 もはや革命政権の優位が動かし難いことやチェコ軍団の救出という、当初の目的を達成したことで列国は一九二〇(大正九)年までには相次いで撤兵していった。日・英・米の三国もロシア領内からは兵を引いていたが、満洲には駐留を続けていた。満洲の情勢も張作霖の奉天軍閥が全域に勢力を伸ばしたこともあり、平穏を取り戻していたのだが、三ヶ国は互いに牽制し合い、撤兵をしていなかったのである。一九二二年までの間に日・英・米、それに中華民国、ロシア領アメリカに成立した露米政権との間で、二度の協議が持たれていたが、いずれも不調に終わっている。

 交渉の焦点は撤兵後の満洲の管理にあった。もちろん満洲の主権は少なくとも形式的には中華民国にあったが、袁世凱死去後の軍閥内戦のただ中にあり、実際問題として管理能力はなかった。

 また、旧ロシア帝国が満洲に有していた利権をだれが継承するのかというのも問題であった。新たに成立したソビエト連邦、露米政権ともに自らがロシア帝国の後継国家であるとし、その権利を主張した。ソ連に権利を継承させることは日英米、中華民国ともに肯じ得ず、少なくとも形式的には露米政権に継がせるとしても、同政権はこの時点では北辺に成立した弱小政権に過ぎず、その前途ははなはだ心もとなかった。

 そこで日英は国際連盟の管理下に置くことを主張した。しかし、合衆国としてはそもそも連盟に加盟しておらず、日英が常任理事国を務める国際連盟の管理下に置くことは結局、日英の実質的な管理を認めることになるのを懸念し、当事国による共同の管理委員会の設置を主張した。もちろん中華民国は自身の主権を主張し、三者三様の主張が平行線をたどった。もはや意義のない出兵に各国の国内世論も批判的になっていたが、事態は膠着状態に陥っていた。

 変化は結果的にみれば一人の外交官がもたらした。まだ四〇代だというのに薄くなった頭髪、ふくよかな体躯にわけもなく不機嫌そうに口元が歪んでいるが、イギリス製の瀟洒な背広を粋に着こなしているその姿は、外交官というよりマフィアのボスといった風貌であった。一九二二(大正一一)年三月、後に外相となり日本外交史に名を残す吉田茂が、奉天総領事に着任したのである。

 奉天赴任前、吉田の上司である外相・幣原喜重郎は「満洲撤兵の交渉をまとめるよう」訓令した(撤兵交渉の日本全権は奉天総領事が務めていた)。奉天に着任した吉田は、まず張作霖への会見を申し入れた。数回に渡る会談の詳細は今に伝わっていないが、この過程で両者は一定の合意に達したものと思われる。その上で吉田は英米露、中華民国の交渉責任者に撤兵交渉の再開を呼びかけ、会議に奉天軍閥の代表を加えることを主張した。その際に彼はこう付け加えた「自分に事態を解決する腹案がある」と。

 再開された交渉の席上で吉田が提示した案は次のようなものであった。「中華民国の主権の下で奉天・吉林・黒竜江の三省を統治する自治政府をつくり、その首班は張作霖氏が務める」と。その上で満洲の治安・防衛の責任はこの自治政府が負い、いかなる外国軍も満洲に駐留しないことを協定する、とつけくわえた。それまでの交渉をがらりと変えるような案であったが、考えてみれば現実に即した考えでもあった。現在、満洲の実質的な支配者は張作霖であり、治安もそれによって維持されている面が大きい。吉田案はいわば現状を追認し、それに関係国の承認する自治政府という公式の枠組みを与えるものであった。満洲域内に外国軍の駐留を認めないとすることで、外国の干渉の可能性を排除でき、自治政府は中華民国の主権下に置くとすることで、中華民国の面子も立つのである。英米露中の各国はこの案を少なくとも消極的に支持した。各国ともこの不毛な交渉を終わらせるきっかけを探していたのである。

 こうして一九二二年七月七日、日本・イギリス・合衆国・ロシア・中華民国、そして奉天軍閥改め満洲自治政府の各代表が「奉天条約」に調印した。そこには満洲に自治政府を設立すること、満洲自治政府は独自の軍と警察を有するが山海関を越えて進軍しないこと、外国軍は日・英・米・露・中・満洲自治政府の同意なく満洲域内に立ち入らないことなどが定められた。ちなみに東清鉄道の利権は維持されるが、沿線の治外法権は撤廃され、ロシアの守備軍も廃止されることになった。

 こうして張作霖の満洲支配は列強からも事実上の公認を得、現在も存続する満洲自治政府が成立した。それは歴史的、民族的正統性を欠く、帝国主義と各国の妥協の間に生まれた私生児という一面があったが、とにかくも張作霖はこれから一七年後に訪れるその死まで、満洲の支配者として君臨し続けることになるのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る