満州・シベリア出兵


 日露戦争後にロシア帝国初代首相に就任したウィッテは、満洲の地に諸外国からの投資を呼び込むことで、疲弊したロシアの経済・財政を立て直す起爆剤としようとした。中でも積極的に進出したのが日本とイギリス、それに合衆国であった。

 ロシア革命勃発当時、ロシアを除けば満洲にもっとも大きな権益を有していたのは、もちろん地理的にも近い日本である。日露戦争で辛うじて遼東半島を守り切ったことを認められ、その租借権をロシアから継承していたから、旅順・大連の港から石炭や鉄鉱石などの資源、あるいは満洲の工場で安価に製造した繊維製品や雑貨を日本に輸出することが可能であった。

 満洲には多数の日系企業が進出し、駐在員とその家族を始めとする数千から一万の邦人が居住し、そのコミュニティの規模は江蘇省から広東省にかけての中国沿岸部、長江流域に次いだ。また、イギリスと合衆国も規模こそ違えど、多数の自国民が居住していることに代わりはなかった。ロシア革命はそのような状況の中で起こった。

 一九一七年の二月革命によってニコライ二世が退位し、ロマノフ朝は滅亡した。その後に成立した臨時政府も同年に再び起こった一〇月革命によって倒されると、その混乱の余波は満洲の地にも及んだ。東清鉄道とその付属地では守備隊の一部が革命勢力に同調して叛乱。ロシア軍同士で相撃つ事態となった。さらにボリシェビキ政権を恐れて満洲に逃れて来た者、あるいは満洲を経由して、反ボリシェビキ派や臨時政府の残党が新政権を樹立していた、ロシア領アメリカへ渡る者などが入り乱れ満洲は混乱の極みとなった。

 もはやロシア軍に外国人居留民の生命・財産の保護を期待することは難しく、満洲に多くの自国民が居住している日・英・米の三国は出兵してそれを保護する以外にないように思われた。しかし、三国の内のいずれかが自国民の保護を口実に大兵力をもって出兵し、満洲をそのまま占領してしまうのではないか、という疑念は互いにぬぐい難く、三国は互いに牽制し合い、事態は膠着したのである(特に日英と合衆国の間の不信は深刻であった)。

 ちなみに日本では出兵に対し、大別して積極論と消極論の二つが対立していた。すなわち積極論とは合衆国(あるいはイギリスも)の意向に関係なく、居留民保護のために日本単独でも出兵すべしという意見であり、当時の与党であった大隈重信率いる憲政党を中心としていた。対して消極論とは、出兵は必要であるとしてもそのためにイギリスや合衆国との関係を悪化させるべきではなく、両国と協定を結んだうえでの出兵を唱えていた。こちらは野党の原敬率いる国民自由党が主であった。一九一八年五月の総選挙で国民自由党が勝利し、第一次原敬内閣が発足したことで日本政府の方針は英米と協定した上での出兵となった。

 事態が動いたのは同年五月、チェコ軍団の蜂起がきっかけであった。チェコ軍団はロシア帝国がオーストリア・ハンガリー軍のチェコ人捕虜を集めて編成した義勇軍で、ロシア帝国崩壊後はフランス軍の指揮下に置かれていた。チェコ軍団は当初、武装解除の上欧州からウラジオストクに送られるはずであったが、西部シベリアのチェリャンビンスク駅で起きた、チェコ軍団兵とハンガリー兵の乱闘をきっかけにチェコ軍団が蜂起したのである。

 革命の波及を恐れ、ロシア革命に干渉する機をうかがっていた欧州各国はこれを奇貨とし、「チェコ軍団の救出」を名目に西部シベリアへの出兵を相次いで決めた。後に「シベリア出兵」と呼ばれる干渉戦争の始まりである。シベリアへの共同出兵の流れができたことで、日・英・米の各政府は共同で東部シベリアおよび満洲への出兵を決定した。兵力は東部シベリア・満洲あわせて一万人以内とし、協定を締結したのである。ゆえに日本ではこの出兵のことを「満洲・シベリア出兵」と呼んでいる。

 韓国駐留軍から派遣された日本軍の第一陣が鴨緑江を越え、満洲へ入ったのは一九一八年八月のことである。日・英・米の派遣軍は奉天、長春、哈爾浜などの満洲の主要都市を次々占領していった。


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