北洋軍閥の分裂と安直戦争
一九一六年六月、中華民国大総統にして北洋軍閥の首領であった袁世凱が死去した。
前年一二月に皇帝即位を宣言し国号を「中華帝国」と改めたものの、華南では粱啓超ら護国派が蜂起。
その鎮圧にも失敗し北洋軍閥内部からも反対の声が相次ぎ、一六年三月に入って撤回を余儀なくされたという状況下での失意の中の死だった。
袁の死後、北洋軍閥を掌握できるものはおらず、紆余曲折を経てその勢力は段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂した。
さらに華南には唐継堯の雲南軍閥と陸栄廷の広西軍閥などの勢力があった。
また、東北では張作霖の奉天軍閥が割拠しており、中華の統一はいまだ遠くあった。
安徽派の段祺瑞は国務院総理(首相)と陸軍総長(陸相)の座にあり、直属の兵力こそ乏しかったものの、軍権を掌握していることが強みであった。
対する直隷派の馮国璋は大総統代理の地位にあり(袁世凱死去後の大総統であった黎元洪は段との政争に敗れて解任されていた)兵力こそ段に劣っていたが、彼に忠誠を誓う直轄軍を持っていることが強みであった。
一九一七年九月、孫文らが唐継堯、陸栄廷と連立して広東政府を樹立すると、その対応をめぐって両者の対立はついに表面化した。
武力による討伐を主張する段祺瑞と平和的解決を唱える馮国璋に国論は分裂したのである。段は国会で多数派工作を行い、馮を大総統代理から解任した。
これにより両者の対立は決定的なものとなったのである。
直隷派と合衆国が接近したのは一九一八年三月、ヴェルサイユ条約の締結が契機であったといわれる。
一九一七年に中華民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。
参戦国の一つとしてパリ講和会議にも代表を送り込み、ドイツが租借していた膠州湾の返還を求めたが容れられず、膠州湾租借地は日本の引き継ぐところとなった。
これに対し中国では学生を中心に講和会議を主導したイギリス、膠州湾を領有した日本、そして講和条件を受諾した段祺瑞政権への不満が高まり、それは抗議デモ、日本やイギリス製品・企業へのボイコット、あるいはストライキや暴動として現れた(この一連の動きは、一八年五月四日に北京の天安門広場で行われた大規模なデモにちなんで「五・四運動」と後に呼ばれることになる)。
当時の中国大陸における主流は袁世凱政権とその後継たる段祺瑞政権であり、日英はこれを支援していた。
しかし五・四運動でその権威は傷つき、世論の支持は低下した。
合衆国はこれを好機として、雌伏していた馮国璋に接近し支援したのである。
馮国璋は翌年病死したが、直隷派は部下の曹錕と呉佩孚に引き継がれた。
そして一九二〇年、安徽派と直隷派はついに武力をもって激突した(安直戦争)。
二週間にわたった戦闘は最初、兵力に勝る安徽派の優位で進んだ。
しかし、馮国璋の遺した精鋭軍が盛り返したことで、段祺瑞陣営からは離反が相次いだ。
もともと段の独裁的な振舞いに不満を持っていた軍の高官も多く、その忠誠と結束は決して強いものではなかったが、土壇場でその脆さが現れた形となった。
敗れた段は北京を逃亡し、天津の日本租界に逃げ込んだ。
こうして黎元洪を大総統に据えた上で、実権は曹錕と呉佩孚を中心とした集団指導体制が成立した(直隷派政権)。
こうして合衆国が支援する勢力が政権を掌握し、少なくともこの時点では合衆国が日英に対し勝利をおさめた。
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