選挙法改正と原内閣の蹉跌

 第二次普選運動は先述したように第一次世界大戦後に起こった。これも直接の引き金となったのは、第一次普選運動の際と同じく、戦争の講和条約への不満であった。第一次世界大戦において日本は陸海軍あわせて延べ四〇万人以上の将兵を欧州に派遣し、その戦費を賄うための増税とインフレが銃後の国民を襲った。しかし、大戦は連合国、同盟国陣営ともに決定的な勝利を得る前に双方が力尽きる形で終結したから、その講和条約たるストックホルム条約で日本が得たのは旧ドイツ領の南洋諸島の赤道以北の部分と、ドイツが中国に有していた膠州湾の租借権のみであった。

 講和条約への不満、重税と物価高騰への抗議が普通選挙権運動という政治的権利の要求に結びついていったという一連の流れは第一次普通選挙運動と奇妙な相似形をなしていた。さらに講和条約締結後に行われた総選挙(大正七年九月実施)で与党・憲政党が敗北し、第三次大隈内閣の退陣と、国自党による第一次原敬内閣の成立を招いたということを見れば、これはもうデジャヴめいたものがあった。

 第二次普選運動でも都市部を中心にデモが起きたが、第一次普選運動の際と違っていたのは、京都・大阪・神戸や江戸・横浜といった京阪神、江浜圏の主要都市だけでなく、地方都市、さらには都市近郊の比較的豊かな農村部などでも同様の動きが見られたことである。また、大戦中から好景気にともなう物価高騰や労働時間の増大を背景として、労働争議が増加していたが、こうした労働運動との連携も第一次普選運動の際には見られなかった特徴であった。

 一〇年の間の経済成長がもたらした所得向上や政党政治の定着による政治の民主化が、国民の広い層に政治意識の高まりをもたらしていたと見ることができるだろう。

 さて、第二次大隈内閣と似たような過程をたどって成立した原敬内閣であるが、発足早々に普選運動への対応を迫られたことも同様であった。内閣成立から一か月経った大正 七(一九一八)年一〇月、原内閣は選挙法の改正案を議会に提出した

  原内閣案は選挙権付与の財産要件を「直接国税三円以上の納付」に引き下げることと、選挙制度を現行の大選挙区制から小選挙区制に変更することを骨子としていた。当時の選挙制度は各道府県を市部と郡部に分け、それぞれ複数の代議士を選出する仕組みであったが(選挙区が分けられなかった県も存在する)、国民所得の増大による有権者の増加と都市部への人口流入などの要因で、一つの選挙区の規模が大きくなり過ぎるなどの不具合を生じていた。これを解決するための小選挙区制導入であったが、もう一つの思惑として大政党に有利な制度を導入し、かつ自党に有利な選挙区割りをすることで国自党の権力基盤を盤石にする狙いがあった(むしろこちらが本命であった)。

 しかし、この案は公表されるや否や党内外からの反発に遭った。財産要件の引き下げ以上に大きな反対があったのは、小選挙区制の導入であった。まず、一つの選挙区から一人の代議士が選出されるという小選挙区制の特徴上必然的に不利になる中小政党が反発した。また、選挙区の区割りが明らかに恣意的であるとして、野党第一党の憲政党が「選挙制度を私物化するものである」として激しく攻撃をした。

 野党の反対は当然であるとして原にとって計算外であったのは、国自党内にも反対の声が大きかったことであった。同じ党の候補者同士が競合する中選挙区制の選挙では、候補者主体の選挙となりやすく、候補者個人の「ジバン(政治基盤)・カンバン(知名度)・カバン(資金力)」が物をいうことになる。いきおい当選した代議士の主体性、党からの自立性は高くなる傾向がある(当選回数を重ねるほどにそれは顕著になる)。対して小選挙区制では各党一人に候補者が絞られるため、必然的に公認権を握る党執行部の統制が強くなる可能性があった。

 小選挙区制導入に反対したのは元田肇、杉田定一など、党人派のベテラン代議士が多かったが、選挙制度を所管する床次竹二郎内相が「重要な問題であるので拙速な導入は避けたい」と慎重論とも取れる発言をしたため、党内での反対論・慎重論がさらに勢いた。これは原首相に近い床次内相が反対派との妥協の糸口とをつくることを意図した発言であったともされているが、その思惑とはむしろ逆方向に作用したのである。

 党内で反対論・慎重論が広まった結果、党総務会で法案への賛成方針が否決されかねない事態となった。強行すれば党の分裂さえあり得る事態となったため、原首相としても小選挙区制の導入を断念せざるを得なかった。結局、選挙法改正案は小選挙区制の導入を削除した修正案が、与党・国自党の賛成多数で衆院を通過、貴院でも可決され成立した。

 選挙法改正案を何とか成立させたものの、原首相としては党内から思わぬ形で足元をすくわれた、苦い結末となった。

 不本意な形ながらも選挙法改正という大仕事をやり終えた原内閣は、外交面においては「欧州復興支援計画(内田プラン)」の表明が象徴するように、国力伸長もあいまって日本の国際的地位を向上させた。しかし、首相の地元でもある奥羽地方での鉄道整備計画が恣意的であるとして野党に攻撃され、経済成長の副作用としてのインフレとそれに伴う労働争議の増加、労働組合法制定問題など内政では苦戦が目立った(これらについては章を改めて詳述する)。


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