第一次普通選挙運動
近代日本における選挙は府県会など地方レベルでは実施されていたが、全国的なものとしては明治一三 (一八八〇)年に発付された大日本帝国憲法により、帝国議会が設置されたことに始まる。しかしそれは、現代のような一定年齢以上の国民が無条件で選挙権を持つのではなく、様々な制約が付された制限選挙であった。
明治一二年に施行された初の衆議院代議士総選挙で選挙権を付与されていたのは、直接税一五円以上を納める二五歳以上の男子に加え、勅任官である官吏、少尉以上の陸海軍軍人、巡査以上の警察官に限られており、全人口の二パーセント程度でしかなかった。
ちなみにこの選挙は府県単位で一人ないし複数の代議士を選出する、大選挙区制限連記制であった(大阪市と江戸市は独立の選挙区とされた)。制度の立案段階では、選挙区ごとに1人の代議士を選ぶ小選挙区制も検討されていたが、大久保利通、伊藤博文らの反対によって、大選挙区制制限連記制が採られることになった。小選挙区制では大政党が出現しやすく、議会勢力の分断を狙う意図があったと言われている。もっとも開設後の議会では民党が多数派となり、いくつもの内閣が議会との対立が原因で退陣を余儀なくされたから、この思惑は大きく外れたことになるが。
さて、選挙権に加えられた制限を撤廃しようとする動きは議会政治の開始当初からあった(さらに言えば議会開設準備段階の時点で、選挙権に少なくとも財産的な制限を加えないようにする案はあった)が、その担い手は一部の政治家や知識人、ジャーナリストに限られた。それが大衆的な運動に盛り上がったことは二度あった。一度目は日露戦争直後、二度目は第一次世界大戦後の大正一三年の普通選挙法成立に直接的につながった運動であった(この二度の普通選挙権運動を歴史的にはそれぞれ、第一次・第二次普通選挙運動と呼んでいる)。
第一次普通選挙運動のきっかけとなったのは、日露戦争講和条約への不満であった。日露戦争は海上において日本はロシアの海軍戦力を壊滅させたものの、陸上では奉天の戦いでの敗北から鴨緑江まで押し戻される形で停戦を迎えていた。それもあり、合衆国・ポーツマスで調印された講和条約で日本が得たものは、樺太の北半分の割譲と遼東半島の租借権だけであった。陸上での敗北と賠償金が取れなかったことは、戦争中重税に耐えてきた国民の不満を爆発させることになった。
都市部を中心に講和反対を訴えるデモや集会が行われ、その一部は暴動に転化した。特に明治三八 (一九〇五)年九月に帝都・京都で起こった「円山騒擾」は、当時の第一次伊藤博文内閣を退陣させ、憲政党の第二次大隈重信内閣への政権交代を招いたのであった。
講和条約への不満はやがて、戦争において(財産的にも人名的にも)最大の犠牲を払いながら自分たちには政治参加の権利さえ与えられていないことを、多くの国民に思い出させた(ちなみに明治三三年の選挙法改正で財産要件は直接税一〇円以上の納付に引き下げられてはいた)。二度目の首相職に就いた大隈の内閣は、まずこの国民の「怒り」に向き合わねばならなかった。大隈内閣は選挙権付与の直接国税納付要件を一〇円から三円に引き下げることや、現在兵役に就いている、もしくは兵役に就いたことのある男子に選挙権を拡大する選挙法の改正案を議会に提出した。
特に兵役経験のある男子に選挙権を拡大することは、事実上の普通選挙にかなり近づける改正案であったが、貴族院と野党・国民自由党(国自党)、さらに憲政党内部から反対の声があり、一時は成立を危ぶまれたが。国民の不満をそらす必要に迫られていたため、原案の「直接国税三円以上の納付」を「五円」に、「兵役経験者に選挙権付与」を、「現在兵役を務めている者」に修正した上で可決・成立した。
明治三八年一一月、選挙法改正案の成立直後、大隈内閣は衆議院を解散。総選挙でそれまで少数与党であった憲政党は単独過半数を大きく上回る勝利を収め、大隈内閣は安定した政治基盤を手に入れた。
これを潮に第一次普選運動は収束することとなった。
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