普通選挙法案提出と国自党の亀裂

 大正九 (一九二〇)年九月、野党・憲政党と国民党が合同で選挙法改正案を提出した。これは選挙権の財産要件を撤廃し、二五歳以上の男子に選挙権を付与することを骨子とする男子普通選挙法案であった。普選運動は一時下火になったものの、大正七年にイギリスで男子普通選挙が実現したのを受けて再び活発になっていた(さらに欧州の婦人参政権運動の影響を受けて、日本でも婦人参政権運動が盛り上がっていた)。

 憲政党が普通選挙実現推進に舵を切ったのは、こうした世論の動きを受けたのも理由であったが、もう一つとしては斎藤隆夫や町田忠治ら、地方の農村部選出代議士の強い要請があった。大正八年の改正と経済成長による中間層増加を背景に都市部では有権者が大幅に増加したが、比較的所得水準の低い農村部で参政権を手にしているのは依然として地主層か比較的裕福な自作農に限られていた。そしてそれらの人々は主に国自党を支持していた。

 農村部選出の憲政党代議士はそうした背景もあって選挙のたびに苦戦を強いられていたが、普通選挙を実現し、有権者となった小作農を取り込むことでこの状況の打破を図ったのである。

 こうした世論の流れと党内の動きを受けて、普選慎重派であった総裁の加藤高明も普選容認、普選推進へと舵を切った。また、制限選挙のもとでは国自党の支持基盤である起業家や地方名望家の票の比重が大きくなり、憲政党には不利に働いた。大正七年の総選挙での敗北後、憲政党は党を挙げて新たに誕生した都市中間層の取り込みを進めていたが、ここに低所得者層も加えることで国自党に対して逆転するという思惑もあった。加藤高明といえば当時から「剛直」、「謹厳」を代名詞とする保守的な官僚派政治家というイメージがあったが、実際は時に臨んで柔軟な対応をなし得る政治家であった。実際、この思惑は成功し、普通選挙実現後に憲政党内閣は社会保障政策を推進し、中間層・低所得者層からの広範な支持を得ることに成功する。そしてそれは、二〇年代から三〇年代に至る憲政党の黄金時代を築くことになるのである。

 だがこの時点では憲政党の人々にとっては遠い未来の繁栄よりも目の前の政争の方がはるかに重要であったことは言うまでもない。憲政党・国民党による共同法案は提出されたものの、可決の見込みはなかった。したがってこの時の野党共同案は実際の成立を狙ったものというよりも、次の選挙に向けた世論向けのデモストレーションという意味の方が大きかった。しかし、この野党共同案が当事者たちさえも予想しなかった方向に作用し、歴史を動かしていくことになる。

 国自党は地方名望家と都市部企業家という安定した支持基盤を持つ反面、ライバルの憲政党に比べ、都市部中間層という新しい有権者への浸透は遅れていた。また、普選運動や労働運動などの新しい政治潮流への対応もよくいえば慎重、悪くいえば鈍いところがあった。これは同党が結党以来、「日本政治の保守本流」を担っているという自負の裏返しでもあったが、こうした状況に危機感を抱く人々が内部にもいた。

 その代表ともいえるのが原内閣に司法大臣として入閣していた横田千之助を中心とするグループであった。横田は明治三 (一八七〇)年、下野国(栃木県)の織物商を営む両親の元に生まれたが、実家が没落したため丁稚奉公に出、その後学問の志を抱き、上京して京都法学校(後の立命館大学)の夜学に働きながら通い、弁護士になったという苦労人であった。

 国自党には結党時から参加していた古参組であったが、大正九年時点で五〇歳の少壮政治家であった。原の次、もしくは次の次を狙う有力者で同じく原の後継者候補と目されていた床次竹二郎とはライバル関係にあった。横田はこの時期、党内に「新政策研究会」という、「新時代にふさわしい新しい政策を研究する」目的の勉強会を立ち上げていた。しかし周囲は、これを単なる勉強会以上の、原の後継争いを見込んだ多数派工作の一環であると見ており、床次内相などは特に警戒をしていた。選挙法改正の野党共同案が出されたのはそんな時期であった。

 当時の議席の内訳は全三八一議席中、国自党二四一、憲政党一〇一、国民党二四、諸派・無所属一五であったから、仮に諸派・無所属の全てが賛成に回ったところで野党共同案の可決は不可能であった。憲政党と国民党とてそんなことは百も承知であり、それでもあえて提出したのは次の選挙をにらんで、世論の「普選熱」を保つという意図があったし、逆にいえばその程度のものであった。

 しかし、ここで野党にとっても計算外の事態が起きた。国自党の一部、特に中堅若手代議士を中心に野党案に同調する動きが出たのである。その中には「新政策研究会」に属する代議士が多かった。ベテラン代議士と比べ地盤の弱い若手代議士は、新たに有権者となった中間層への浸透を行っている者が多く、それらの者は有権者の変化を肌で感じていた。憲政党のように政策の修正を行わなければいずれ国自党が時代の潮流に取り残されるという危機感があった。

 新政策研究会に属する代議士の多数が野党案に同調したことを好機と見た床次内相は、横田を「党の分裂を扇動している」として攻撃した。また、野田卯太郎幹事長ら党執行部も野党案への同調に対し苦言を呈している。

 野党案同調組の中で、もっとも先鋭的な代議士からは「離党・分裂やむなし」との主張も出る中、板挟みになったのが横田であった。個人的には普通選挙の実施に前向きではあったが、現職閣僚として、あるいは次期総裁候補として党の分裂に加担することもできなかった。一方、ここで若手代議士たちの動きにあからさまに反対すれば、彼らからの声望を失い、横田派の瓦解にもつながりかねなかった。

 横田は若手代議士グループをなだめたり、自派の党総務をつかって党総務会の引き延ばしをはかったりと時間を稼ぎながら、原首相と会談するなどして党の方針を普通選挙実施へと変えるべく努力を続けた。実は原自身は普通選挙の実施にやぶさかではなかったが、自身の地元東北への鉄道誘致をめぐる疑獄や好景気によるインフレとそれにともなう労働争議の増加などの対応に苦慮しており。党内の求心力が低下しつつあったため、党の方針を変えることが難しくなっていた。

 大正九年一〇月、野党共同の選挙法改正案は衆議院本会議で否決された。票の内訳は賛成一四〇、反対一九七、棄権四四であった。棄権票のうち、四三票は国自党から出たものであった。結局党の方針を変えることができなかった横田は、党の分裂を首の皮一枚で防ぐべく、野党案に同調した代議士たちに当日の本会議に欠席するという、反対票を投じるより幾分か穏当な方法を呼びかけたのである(それでも八名の代議士が賛成票を投じ、彼らは後に党を除名された)。

 野党の選挙法改正案は国自党内に深刻な亀裂が生じていることを浮き彫りにした。以後、国自党内で保守派と改革派による抗争が激化していくこととなる。そしてそれは、遂に党の分裂と長期低迷という事態を引き起こすことになる。

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