原敬遭難事件と国自党の下野

 普通選挙法案の決議に欠席した四三名の国自党代議士たちへの処分は、周囲の予想と違い、譴責という比較的軽いもので済まされた。特に現職閣僚でありながら、欠席した横田への処分としては軽すぎるようにさえ思われた(ただし、横田は司法相を辞任した)。実質的にこの処分を決めたのは、原総裁に一任された野田幹事長であったが、あまりに厳しい処分を下すと大量離党を招きかねず、最悪の場合衆院での過半数を失うことになりかねないという判断があったと思われる。

 さらに意外であったのは、横田の最大の政敵である床次内相がこれを積極的に支持したことであった。床次は今回の騒動で横田が次期総裁になる可能性は潰えたと考えていた。自分が次の総理・総裁となることをにらんで、横田とその一派に恩を売り、あわよくば彼らを取り込むか、そこまで行かずとも中立を保ってくれることを期待したと思われる。

 差し当っての難題を片づけた原は、大正九年一一月三日、その年は奈良で開かれることになっていた国民民主党の党大会に出席すべく、京都駅から汽車に乗る予定であった。ホームにはその日が明治節の祝日にあたることもあって、首相の姿を一目見ようと多くの人が詰めかけていた。警備にあたる警視庁下京署は安全のため、一般大衆のホーム立ち入りを禁止すべきと主張したが、首相サイドはこれを拒否していた。

 原首相一行が改札を抜けてすぐ、大衆の中から一人の人間が飛び出し、まっすぐ首相に向けて突進した。警護の警官が取り押さえようとするも間に合わず、男は首相の胸部を刃物で刺した。「原首相遭難事件」である。 


 原を刺した犯人の名は中岡艮一。江戸市の省線大塚駅に勤務する一七歳の少年転轍手であった。原は胸部を刺されていたが、その傷は肺や心臓に達しておらず、一命を取り留めた。後の取り調べから、中岡は当初短刀を凶器として用いるつもりであったが、購入できずに断念。代わりに包丁を使っていた。刃物の刃渡りが足りなかったことと、当日は寒さのため原が厚着をしていたことが、彼の命を救った。

 その場で警官に逮捕された中岡は、一旦下京署に連行された後、本庁に身柄を移された。警察は中岡を使嗾したものがいると見て厳しく追及したが、結局背後関係を示す証拠は出ず、中岡の単独犯であると結論した。また、動機については「国自党が普通選挙法案に反対したのが許せなかった」、「ロンドン条約阻止」、「政治腐敗への義憤」など、中岡の供述は一定せず、漠然と原内閣の政治への怒りを募らせたものと思われた。

 ちなみに京都地裁検事局によって起訴された中岡は、後に大審院刑事部法廷にて無期徒刑の刑が確定したが、一九四四(昭和一九)年に模範囚として仮釈放され、期間工や土木作業者などとして働いた後、養老院で昭和五五 (一九八〇)年に七七歳の生涯をひっそりと終えた。引き取り手のなかった遺骨は無縁仏として葬られたという。

 さて、現役総理を刺した男が意外に穏やかな最期を迎えるのは、この時点では遥か先の話であったが、いつの世にも存在する、差し当って目の前の現実に対処せねばならない人々は、そのような空想的な未来に思いを馳せるような贅沢は許されなかった。彼らがまず対処せねばならなかったのは、唐突に主不在となった首相の椅子にだれが座るのかという問題であった。

 原は一命こそとり留めたものの、当面首相の激務に耐えることができないというのが医師団の見解であった。原の周辺は当初、宮中席次第二位の高橋是清大蔵大臣に臨時代理をつとめてもらい(第一位の内田康哉外相は非政党員であったので党内の納得を得られそうになかった。それ以前に彼はこの時ロンドン会議に次席全権として出席していた)、その間に原の回復を待つという方針で行こうと考えていた。しかし、それに待ったをかけたのが黒田長成大統領であった。ロンドン会議という重大な国際会議の最中に首相不在は許されないとし、国自党側に速やかに後継総裁を選出するように通告した。

 そこで野田幹事長、高橋臨時代理、元田肇総務会長、床次内相らが協議し、病床の原の承諾を得た上で、非常の際であるので総裁選挙を省略し、高橋臨時代理を国自党の新総裁とすることを内定した。それを黒田大統領に伝え、大統領は大正天皇に高橋を後継首班として推薦。天皇から高橋に組閣の大命が下った。ただし、首相任命にあたっては今までの選挙を経ない首相交代がそうであったように、一年以内の総選挙実施という条件がついていた。

 高橋是清は嘉永七(一八五四)年、幕府御用絵師をつとめる父・川村庄右衛門と、母・きんの元に生まれたが、庄右衛門が奉公に来ていたきんに手を出して生まれた子どもという事情もあって、生後間もなく仙台藩の足軽の家に養子に出された。

 その後、藩命によって国内留学し、神奈川の外国人居留地で英語を学んだ。さらに諸大名に外国留学生派遣が解禁されたことに伴い、仙台藩派遣の留学生として渡米した。しかし、寄宿先のアメリカ人貿易商に騙され、奴隷契約書にサインさせられ、農場などで働かされることになる(この頃の高橋の語学力は未熟で、自身が奴隷として売られたことに気づいたのはずっと後になってからだったという)。高橋はストライキを起こすなどして抵抗しつつ、重労働に耐え忍んだ。その後、隙を見て脱走。明治元(一八六八)年、何とか帰国している。

 滞米中、サンフランシスコで森有礼の知遇を得たことが、高橋の人生を変えた。帰国後、森の紹介で文部省に入った。文部省で働く傍ら、大学予備門などで英語教師としても活躍した。京都府が設置した京都共立学校(現・京都府立堀川中学校)では副校長兼英語科長として招聘されたが、この頃の教え子に俳人の正岡子規や日露戦争時の連合艦隊参謀で、日本海海戦で戦死する秋山真之がいた。さらに草創国家の官僚らしく農商務省でも勤務。初代の特許局長となり、日本の特許制度の整備に尽力した。

 明治二二 (一八八九)年、官僚を辞職して南米に渡り、京都共立学校時代の同僚とペルーで銀鉱開発の事業を始めた。しかし、それは廃坑同然の鉱山をつかまされたものであったため、あえなく失敗した。二五年に帰国したときには全財産を失っていたが、日銀総裁の川田小一郎に誘われて、日本銀行に入った。

 日銀入行後の高橋の活躍についてはここで記すまでもない。日露戦争の際には副総裁として欧米での戦時外債募集にあたった。明治四四 (一九一一)年、日銀総裁。四六年に当時の首相・伊藤博文に請われて大蔵大臣として入閣した。大正三(一九一四)年の総選挙では国自党が大敗する中、江戸市選挙区で同党から初当選を飾っている。七年の原内閣で再び大蔵大臣に就任し、積極財政を推進して第一次高度成長の波に乗る日本経済を支えつつ、日銀と協同しながら過度なインフレを抑えるという難しいミッションにあたっていた。高橋が原の後継首相として擁立されたのはそんな頃であった。

 高橋が後継とされたのは単に臨時代理であったからというだけでなく、そうした蔵相としての実務・政治経験に期待されたということと、彼が党内で比較的中立の立場であり、だれからも反対され難かったという理由があったものと思われる。しかし、降ってわいたように就任した新首相の前途は多難であった。まず、普通選挙法案をめぐって分裂寸前までいった党内の亀裂は修復されていなかった。また、高橋首相は党内派閥的にはいちおう原派に属していたが、実質的に無派閥に近く、党内基盤は弱かった。そして、党内の内輪もめをみた有権者の支持は、国自党から離れつつあった。

 高橋首相としては、こうした状況を打開するためのカンフル剤を打ちたいところであった。その一つは原内閣時代から進められていた、国内インフラの拡充事業の継続と拡大であり、それによる需要の喚起であった。そしてもう一つが選挙法改正であった。

 内務省関係史料によると高橋はこの時期、床次内相にも極秘で内務省選挙管理局総務課に命じて、選挙法改正のための予備研究を行うように命じている。名目こそ研究であったが、その実態は改正法案の策定作業であった。今回の改正の内容は、再三にわたる改正のたびに議論され、見送られてきた「兵役経験者への選挙権解禁」であった。しかし、実質的な男子普通選挙実現に限りなく近づくため、党内の普選反対、慎重派の反発を招く可能性が高く、事を慎重に運ぶ必要があった。

 高橋首相としてはロンドン会議で一定の成果を挙げ、それを追い風にして内閣改造を行い、選挙法改正と総選挙をにらんだ布陣のつもりであった(高橋内閣は、原内閣の閣僚をだれひとり交代させない、完全な居抜き内閣として発足していた)。ロンドン会議は翌一〇年二月に終了し、日本はロンドン海軍軍縮条約で懸案であった海軍軍縮を実現したり、日英同盟を強化したりするなどの成果を得た。とりわけ海軍軍縮を実現したことは、世論の高橋内閣への支持を回復させ、党内の求心力を高めることになった。

 思惑どおりに事が運んだことで、高橋首相は本格的に内閣改造に着手した。今回の改造は閣僚をほぼ全員入れ替える大規模なものにするつもりであったが、最大の目的は内相の交代であった。高橋首相は床次内相に代わって、横田前司法相を新たに内相に据えるつもりであった。しかしこれは、明らかに国自党政権の政策方針の変更を表明するものであったので、党内の保守派の反発を呼ぶことは必至であった。

 内閣改造自体は、自前の内閣をつくるという意味から必要であったとしても、ここまで挑戦的な人事を高橋首相が志向した理由は何だったのか。それを考える手がかりになりそうなのが、高橋が二一年の年頭の新聞のインタビューに答えた記事である。高橋は国自党の今後の方針として以下のように語っている。


吾党ハ吾国ノ保守第一党デアルトイフ立場ヲ踏マエル事ガ肝要デアル事ハ論ヲ俟タナイガ、一方デ時代ノ趨勢ニ合ワセテ漸進的ナ改革ノ精神モ亦重要デアルト思フ(「京都朝日新聞」大正一〇年一月五日付、第一面)


 高橋首相は先の普通選挙法案をめぐる党内抗争の結果、改革派の影響力が退潮したことに危機感を覚えていたのではないか。党内で保守派の影響力が過剰に強まれば結果的に国自党が変革性の乏しい硬直化した政党となり、政権担当能力を失うことを危惧していたのではないだろうか。内閣改造を通じて改革派を復権させることで、過剰な保守化から引き戻すことを意図していたと考える。

 しかし、高橋首相の思惑は思わぬところから頓挫することになる。大正一〇年三月、高橋首相が内相を交替させようとしていることが、新聞にスクープされたのである。このような重要な案件が外部に漏れるということが、高橋首相に信頼できる側近がいかに少ないかということを端的に示していた。

 それはさておき、この報道に色めきたったのは、交替させられようとしている床次内相以上にその周囲にいる党内の保守派であった(床次には内相にかわって幹事長のポストが提示されていたという説もある)。また、横田派も横田当人以上にその周囲の人間たちが「横田内相」実現のために気勢を上げた。普選法案問題の経緯から党内に感情的なしこりがあったことも相まって、横田内相問題は当事者も差し置いてエスカレートしていき、中橋徳五郎文相などは抗議の辞任を考え、床次によって思いとどまるように説得される始末であった。高橋は緊急的に消極的支持を受けて擁立された総裁に過ぎず、四月に入って内閣改造の断念を表明せざるを得なかった。解散権並ぶ首相の大権ともいうべき人事権を事実上行使できないことを露呈したことは、高橋首相とその内閣にとって大きな挫折なであった。

 さて、この事件に高橋首相と同等以上の衝撃を受けたのが横田派の面々であった。内相就任を党内改革と復権の好機と見ていた横田にとって、それが頓挫したことは党内部からの改革の限界を感じさせるものであったと思われる。同月、横田を座長として国自党内部に「党風刷新連盟」が結成された。参加議員は先年の普通選挙法案の採決を棄権した議員を中心に五九名に上った。昨年来の党内の混乱と、政権支持率の低下に危機感を覚える議員が増えていることの証左であった。党風刷新連盟は設立にあたり、労働組合法の制定、地方改良の推進、普通選挙の実現など、党の方針とも対立しかねない綱領を掲げた。

 こうした状況を見て憲政党と国民党は、国自党の分裂を狙って普通選挙法案を再度議会に提出した。この法案への賛否を決する国自党の総務会は紛糾。保守派は全会一致の慣例を破って総務会長一任で否決の党議拘束をかけようとしたが、結局高橋総裁の裁定で党議拘束をかけず自由投票とした。

 自由投票になった結果、党風刷新連盟の議員が賛成に回ったため普通選挙法案は賛成多数で衆議院を可決した(貴族院では否決)。六月になり法案が貴族院で否決されたのを見届けた高橋総裁は党内混乱の責任を取って辞任。同時に内閣も総辞職した。今回は失政による辞任であったため、黒田大統領は第二党の憲政党総裁・加藤高明を後継首相として推薦。加藤に大命が降下した。

 さて、本節の最後に原内閣と高橋内閣について、普選法案との関係を中心に総括しておこう。原内閣は普選法案に慎重姿勢を取ったが、少なくとも原自身は頑迷な保守主義者というわけではなかった。むしろ選挙権の要件緩和や、選挙法以外にも地方改良や高等教育機関の充実、軍縮、さらに鉄道省と逓信省の一部を統合して運輸省を設立したり、内務省土木局を建設省として独立させたりするなど、時代の変化に穏健かつ積極的に対処しようとしていたといえる。

 ただ、ロシアで史上初の社会主義革命が成功するという情勢の中で、低所得者層にまで早急に選挙権を与えることは危険が大きいと判断していた。それよりはむしろ、経済成長による所得水準の向上を背景に要件を段階的に緩和していけば、事実上の普通選挙が実現できると考えていた。

 しかし、世論はその先を行き、普通選挙の早期実現を支持した。また、インフラや教育機関の整備が生み出した利権は、腐敗の温床にもなり、内閣は批判にさらされた。そのことは原の命さえも危うくし、国自党に大きな亀裂を生んだのである。

 原の遭難を受けて、青天の霹靂のごとく首相になった高橋は、党内の亀裂を修復しようとしたが、それをするには党内基盤が弱すぎた。高橋が財政家として辣腕を振るえたのは、まさに原の支持によっていたからである。彼は時代の要請に積極的に対応しようとしたが、党内対立に苦しんだ挙句、その政権は約七カ月で崩壊した。

 「保守本流」を自任し、革新的な政策には慎重姿勢を取ってきた国自党ではあったが、第一次高度成長による急速な変化を前にその漸進主義的な姿勢の修正を迫られる。しかし、そのためにはまだ、いくらかの時間と痛みが必要であった。


 




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