普通選挙法と治安維持法の成立

 大正一〇年六月、憲政党を与党とする加藤高明内閣が成立した。しかし、この時の憲政党は衆議院三八一議席中一〇一議席を有するに過ぎない少数与党であったので、組閣後間もなく解散総選挙に踏み切った。これには高橋総裁の辞任で混乱している国自党に体制を立て直す暇を与えないためでもあった。

 高橋退陣後の後継総裁を選出できていなかった国自党では野田卯一郎幹事長を臨時総裁に指名して選挙を戦うことになった。また、解散に際して横田を中心とする党風刷新連盟の五一名の議員が離党を表明。「国民自由本党」を結成して選挙戦に臨んだ。なお、この際に党風刷新連盟に属していながら離党しなかった八名の議員は、「裏切者」、「日和見」として世論の不興を買ったが、この中に後に国自党総裁、首相となる鳩山一郎がいた。

 八月に実施された総選挙の結果、憲政党は一九三議席(選挙前一〇一。以下同様)を獲得。以下、国自党は一二三(一九一)、国民自由本党三〇(五一)、国民党二五(二四)、諸派・無所属一〇(一五)という結果に終わった。憲政党の一人勝ちと言ってよい状況で、有権者は分裂した国自党に厳しい審判を下したことになる。また、普選法案で憲政党と協力した国民党もほとんど議席は伸びず、単独での党勢拡大を難しいと判断した同党の犬養総裁は、後に国自本党と合流し「革新倶楽部」の結党に動くことになる。

 加藤内閣は選挙公約でもある普選法案の成立を目指す。しかし、先の議会で普選法案は衆議院では可決したものの、貴族院では否決されていた。普選法案の否決は貴族院内の最大会派・研究会の反対によるところが大きかったが、その背景のひとつが当時の対外情勢と社会情勢であった。

 大正六(一九一七)年、ロシアで一〇月革命によって史上初の社会主義国家が誕生したことで、日本においても社会主義政党・政治団体の動きが活発になっていた。また、好景気による物価騰貴は労働争議や小作争議の増加を招き、民主主義の進展による民衆の権利意識の高まりは、普選運動や婦人参政権運動、部落解放運動などの政治・社会運動の高揚という形で現れた。この内外の情勢は必ずしも連動していたわけではなかったが、とりわけ貴族や資本家の間で「日本でも社会主義革命が起こる」という懸念は、かなりの現実性をもって共有されていたといえる。そんな彼らにとって、中間層はともかく下層の労働者や農民にまで政治的権利を拡大させる普選法案は、長い目で見れば自らの財産のみならず生命さえも危うくしかねない、危険思想と映っても不思議ではなかった(一〇月革命後にロシアの皇族や貴族、資本家、地主階層がたどった運命をみれば彼らの恐怖感も多少は理解できよう)。普選法案を貴族院で通過させるにはこの懸念を払拭する必要があった。

 そこで加藤内閣が注目したのが、原内閣時代に提出された「過激社会運動取締法案」であった。これは大正八(一九一九)年に提出された法案で、第一条の「無政府主義、共産主義其ノ他ノニ関シ朝憲ヲ紊乱スル事項ヲ宣伝シ又ハ宣伝セムトシタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」が示すとおり、「宣伝取締法」であった(ちなみに第二条は宣伝を目的として結社をすること、それを知りながら結社に加入することを禁じている)。原内閣はソ連の成立を受けて、急進的な共産主義思想の流入と国内での広がりを防止すべく同法案を提出したが、「言論の自由を侵害しかねない」として知識人やジャーナリストから反対運動が起こり、さらには与野党の議員からも反対意見が相次いだことで廃案になったという経緯があった。

 この時期、反体制運動を取り締まるための新法が警察省と司法省で検討されていたが、過激社会運動取締法案は、警察省案に近かった。ちなみに警察省案は柔軟に取り締まりを行えるようにするために、法案の文言に曖昧さを持たせており、司法省案は法の厳格な適用を重んじて文言を限定的な内容にしているという特徴があったが、いずれも「宣伝」を取り締まるところは共通していた。

 加藤首相は原内閣時代に廃案となった過激社会運動取締法を修正することで、共産主義思想の流入に対抗し、以って貴族院の懸念を払拭しようとした。折しも前年(大正九年)五月に上海でコミンテルンから多額の工作資金を受け取った日本共産党員の男が、帰国後下関で遊興していたところを警察により逮捕されたが、取り締まるだけの根拠法がなく釈放せざるを得なかった事件(下関遊興事件)があり、国内で共産党の活動が活発化していることや、それを取り締まる法律が存在しないことが露呈したため(結社を規制する治安警察法が存在し秘密結社の禁止などが定められてはいたが最高でも禁固一年であったため、抑止力として弱かった)、共産主義に対する新たな取締法の制定の声は、衆議院でも高まっていた。

 加藤首相は大正一〇年一〇月頃から濱口雄幸警相(内相兼任)と斎藤隆夫法相に命じ、法案の策定作業を始めさせていた。法案の提出は万全を期すために翌年一月開会の議会とし、過激社会運動取締法案の元となった警察省案ではなく、司法省案を骨子とすることにした。

 新法の成立のためのネックは以下の三点であったといえる。①共産主義思想の防止のために実効性のあること、②取締対象を明確化すること。③言論の自由を侵害しないこと。しかし、「思想」の蔓延を防止しようとすれば宣伝の取り締まりにならざるを得ず、それは言論の自由を制限することにならずにはいられなかった。法案の草案作成にあたって憲政党政務調査会司法部会の面々も参加していたが、その中の一人の清瀬一郎議員は、「社会主義を取り締まろうとすれば、社会改良主義のようなことも取り締まりの対象に含めなければならなくなる」と述べて、思想や宣伝を取り締まることを批判した。

 そこで法案作成の実務にあたっていた司法省刑事局保安課は、従来の司法省案の第一条「違法ナ手段ヲ以テ国体ヲ変革シ又ハ私有財産制ヲ否認スルコトヲ宣伝シタ」を「違法ナ手段ヲ以テ国体ヲ変革シ又ハ私有財産制ヲ否認スルコトヲ実行又ハ着手シタ」にし、宣伝ではなく、暴力等の違法な手段での変革自体をしようとした個人を取り締まることとし、第二条でそうした行為を「扇動」した者を処罰の対象にするという、取り締まり範囲を明確化し、同時に狭める修正を行った。司法省主導で法案作成が進むことに警察省から反発があったが、濱口警察大臣は新法成立後の取り締まり実施のために警察省に新部局を設立し、予算を増額する確約を取り付けることでこれを抑えた。

 こうして司法省と憲政党によって作成された法案は「治安維持法案」と名付けられ、大正一一(一九二二)年一月に開会した議会に普選法案とともに提出された。最大野党・国自党では療養から復帰した原敬が再び総裁に就任していた。普選法案については、党の分裂や前年の総選挙の大敗を受けて、国自党内でも「容認論」が広まっており、追い風が吹いていた。

 治安維持法案については、国自党から「国体ヲ変革」が何を指すのか不明瞭であるとして、「憲法二定メラレタル政体ヲ変革」に、革新倶楽部からの要求で「違法ナ手段」を「暴力等ノ法ノ認メザル手段」に変更。結社禁止の可否を審議するために与野党の議員と司法官からなる委員会を設けるという修正を経て、主要三党(憲政党・国自党・革新倶楽部)などの賛成多数を以って衆議院を通過。普選法案も国自党が賛成に回ったことで可決された。

 三月、普選法案および治安維持法案は貴族院で審議入りした。予想通り普選法案に対しては研究会を中心に保守派から共産主義思想の流入や労働争議などとからめて否定的な意見が相次いだ。しかし、普選法案の主管大臣である濱口内相は、むしろ下層の臣民を過激化させぬためにも、穏当な手段で意見を表明させることが必要」と説き、経済成長を背景に国民の生活水準が向上すれば自ずと穏健化すると答弁した。

 また、斎藤法相は「治安維持法を以って警察と連携して、過激な運動は取り締まる」ことを確約し、普選法案と合わせることで帝国の政治的安定はむしろ強化されるとして、理解を求めた。五月、貴族院で最高刑の懲役一〇年から懲役二〇年への引き上げ、「憲法ニ定メラレタル政体」を「皇室其ノ他憲法ニ定メラレタル政体」に変更するなどの修正が行われた後治安維持法案は、普選法案とともに貴族院を可決し成立した。両法案とも審議は異例の長期にわたった。

 普通選挙法、治安維持法ともに即日施行された。治安維持法の成立を受けて警察省では新たに「公安局」が設置され、全国の地方警察局に順次置かれていった公安部門を束ねて治安維持法に基づく過激結社等の摘発を行うことになる。

 また、司法省には結社禁止の可否など治安維持法の適切な執行を監視するため、与野党の議員と判事、検事(後に弁護士も加えられる)からなる「公安審査会」が置かれた。これは中立性や公平性の担保が特に要求される事項を審査するため、行政から独立性を持つ「行政委員会」のさきがけとなった。それ以前にも諮問委員が各大臣などの下に置かれることはあったが、多くの場合任意であり、その議決に法的拘束力はなかった。その点必置であり、その議決に法的拘束力のある公安審査会の創設は画期的であった。

 治安維持法は、端的に言えば「皇室」、「憲政」、「私有財産制」を暴力的な手段での体制変革を志向する勢力から擁護しようとする法律であったが、逆に言えばその三つを尊重しつつ穏当な手段で政治を変革することは認められたのであった。治安維持法の施行後、社会民主主義的な政党を結成する動きはむしろ活発化し、それは後に五大政党の一角を占めることになる「社会大衆党(社大党)」と「労働者農民党(労農党)」という二つの社会民主主義政党へと結実していく。

 また、普通選挙法の成立は、女性参政権が実現されていないなどの問題は残してはいたが、日本議会政治開始以来の大きな課題に一段落をつけるものであった。加藤内閣は一年後の大正一二(一九二三)年六月に衆議院を解散。翌月に初めての男子普通選挙による総選挙を実施。有権者数の増大に伴い、四六八議席にまで定数が増やされた衆議院の安定多数を確保した。以後、憲政党は一九三〇年代までほぼ政権を独占する黄金時代を築くことになる。その安定した政治基盤を背景に、女性参政権導入や労働三法の制定、健康保険制度の確立などを実現。今日の民主国家、福祉国家の基礎を築いていくことになる。その意味で普通選挙法の成立は、単なる選挙制度以上の意味を持っていたといえよう。

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