議事堂の三人 ―立憲政治の草創と政党政治の確立―

議事堂の三人

 帝都・京都――その烏丸・堀川界隈には御所を中心にして二条城(大統領官邸)、首相官邸、大審院、枢密院、それに各省庁などが立ち並ぶ。

 その中でもひときわ存在感を発揮するのが帝国議会議事堂であろう。

 明治四一(一九〇八)年に竣工したその建物は、「日本西洋建築の父」とも称されるイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルによって設計された。

 

 コンドルは日本人の弟子たちに近代西洋建築の技法を教授していたが、彼自身は(後に日本に帰化したことも示しているように)日本文化に傾倒しており、その生涯をかけて日本建築と西洋建築の融合を追求していた。

 西洋建築に日本の寺院建築を取り入れた議事堂のデザインは、同じくコンドルによって設計された首相官邸と並んで、彼の集大成ともいえる作品の一つであった。

 

 正面講堂を向かって右に貴族院、左に衆議院の建物があり、美しいシンメトリーをなしている。

 また、正面講堂二つの大扉があり、両方を開ければ風の通り道ができる。

 この二つの大扉を始め、議事堂の各所に扉や窓が意識的に多く設けられ、高温多湿の日本の気候への配慮が窺がえる。

 

 議会の会期中、議員たちは各議院の玄関から出入りするが、会期の初日に限り正面講堂の正門が解放され、議員はそこから登院する習わしである。

 

 正門から登院した議員たちをまず出迎えるのが、ホールにある三体の銅像である。

 即ち、大久保利通、大隈重信、伊藤博文の銅像である。

 三体の銅像はそれぞれ内側を向く形で設置されているから、ベテラン議員から一年生議員まで憲政史上に名を刻む偉大な先輩たちに見守られながら議場に入ることになる。

 さて、エントランスの四隅に配置されている銅像たちであるが、台座は四つあるので、主なき台座が一つあることになる。

 この「空白の台座」の意味については様々な説がある。

 有名なのは「将来他の三人に比肩する政治家が現れたとき、その銅像を置くために空けてある」や、「政治は永遠に未完成であることを示す」というものである。

 他にも興味深いものとして「本当は板垣退助の銅像を置く予定であったが、そうすると四人中三人が国民自由党(国自党)系の政治家になるため、憲政党の議員が反発したため台座だけのまま放置した」というものがあるが、いずれの説も確たる根拠はなく「空白の台座」の真意は今となっては確かめようもない。

 

 大久保、大隈、伊藤。この三人に共通する点はいずれも大日本帝国憲法の制定に深く携わり、立憲政治の草創期から政党政治の確立期にかけて活躍した政治家であり、いずれも複数回首相を務めたということである。

 

 最後の徳川将軍・慶喜が政権を朝廷に返上するという形で始まった明治政府にとっての課題は、突き詰めれば「西欧列強による帝国主義の時代にいかに独立を維持するか」ということに集約されるだろう。

 しかも単なる形式的な独立ではなく、列強諸国のそれと等しい完全なる独立。

 同時代人の言葉を借りれば「不羈独立」を達成すること、これこそが明治日本の国家目標であったといえよう。


 明治政府が産声を上げた頃、世界に存在していた非白人・非キリスト教国の独立国家は、日本以外では清(中国)、シャム(タイ)、オスマン帝国(トルコ)、エチオピアなどがあったが、それらの国々の中で列強の中に数えられたのは日本のみであった。

 

 近代日本の歩みについて様々な議論があるとしても、第二次大戦以前の弱肉強食の帝国主義の時代、国際社会の中で不羈独立を達成するには、西欧諸国のような法律と制度を採り入れ、彼らの文化や学問、利器を受け容れること。

 即ち「近代化(≒西洋化)」しか事実上方法がなかった。

 

 ドイツ諸邦と同時期、一九世紀半ばに産業革命を経験し、ハード面での近代化をほぼ完了していた日本も、ソフト面での近代化は嘉永六(一八五二)年の「東インド戦争(四ヶ国戦争)」の敗北をきっかけとする一連の国内改革とその先に存在した明治維新を待たねばならなかった。

 明治維新によって幕藩制度は解体され、日本はキリスト教以外のほぼすべての西欧の法や制度を取り入れ、ソフト・ハード両面における近代化を完了した。

 

 本稿は、ソフト面における近代の象徴ともいうべき「立憲政体の樹立とその安定および確立」までの時代を、国内政治史中心に記述。適宜国外情勢や社会・文化史的視点を織り交ぜて、読者諸氏に分かりやすく叙述することを目的とする。

 時期的には明治八(一八七五)年の内閣制度の発足から大正七(一九一八)年の第三次大隈内閣の退陣までである。

 この期間中には日清・日露戦争、それに第一次世界大戦があり、ちょうど日本が植民地化の危機を脱し、列強の一角を占めるようになっていく時期とも重なる。

 

 日本の立憲政治はイギリスをひとつの理想として出発したが、その道のりは決して平坦ではなかった。

 初期の議会において、「超然主義」を掲げる政府と議会の多数をしめる「民党」は激しく対立し、議会のとの対立を原因とした内閣の退陣が相次いだ。

 やがて「超然主義」の限界を覚った政府は民党との提携、融合を志向し、それは政党政治の確立として結実する。

 初期議会の混沌から政党政治による安定までの過程の間で「議事堂の三人」を始め、明治日本の指導者たちはいかに苦闘し、いかなる役割を果たしたのか――。

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