甲申政変

 勝が辞表を提出した当時、日本は条約改正問題に加え、隣国の朝鮮に関連して対外危機を抱えていた。

 

 当時の朝鮮では外戚の閔氏を中心に宗主国の清への従属路線を採ろうとする保守派(事大党)と、日本をモデルとした近代国家樹立を目指す金玉均や朴泳考ら若手官僚を中心とする改革派(独立党)が路線対立を繰り広げていた。

 

 明治一七(一八八四)年一二月四日、独立党は駐朝日本公使・竹添進一郎ら日本人有志の協力を得て、朝鮮王宮を占拠。

 国王・高宗の身柄を押さえ、政権を掌握した。  

 しかし、その三日後に朝鮮に駐留していた清国軍が王宮に突入してきたため、クーデターは呆気なく失敗した(甲申政変)。

 

 この事件は当然日朝・日清関係に緊張をもたらした。このような情勢下で勝が敢えて辞任に踏み切った理由は、議会の多数を失い、政権運営の目途がつかなくなったことに加え、第一次政権で無理に政権に固執したことで状況が悪化したことへの反省があったとも言われる。

 

 大統領・慶喜は、かなり強く勝を慰留したとされるが、勝の意思は変わらなかった。勝の後継として指名されたのは、大久保であった。

 

 明治一八(一八八五)年一月一一日、慶喜の推薦に基づき大久保に組閣の大命が下された。大久保は「非常時」を名目に蔵相、内相の二つのポストを兼摂するという異例の体制でその日のうちに組閣を終えた。

 また、農商相に伊東巳代治、外相には初入閣の伊藤博文を抜擢するなど、自身の側近で固め、主導権を確立した。

 

 先述のとおり朝鮮における独立党のクーデターには、竹添駐朝鮮公使が協力していたが、公使館警備の陸軍部隊もクーデターの兵力として参加していた。

 朝鮮と宗主国の清はこの点を取り上げて日本政府を非難したが、日本政府は関与を否定した。

 

 日本国内では清国軍の反撃の際に日本公使館職員とその家族、日本人居留民に被害が出ていたことで朝鮮、清に対する強硬論がにわかに台頭した(日本の新聞で日本軍がクーデターに協力していたことを報じたものは少なかった)。

 

 世論には日清開戦を主張する声もあったが、政府首脳部は「清との戦争は時期尚早。

 早期に事態を収拾すべし」という意見で一致していた。

 

 大鳥圭介駐清公使が朝鮮、清政府との交渉にあたっていたが、平行線をたどっていた。

 事態を打開するため、伊藤博文外相が全権代表として、二個大隊の陸軍兵力とともに漢城に派遣された。

 

 まず朝鮮との交渉に臨んだ伊藤全権は日本政府によるクーデターの関与を改めて否定。

 一方、独断でクーデターに協力した竹添公使以下の公使館幹部、および警備隊、さらにその他の日本人有志に対する処分を約束した。

 最終的に上記の内容と引き換えに朝鮮政府による日本側の人的・物的損害の補償を盛り込んだ「漢城条約」を締結した。

 

 一方、清には前外相の榎本武揚が派遣された。

 清国との交渉の争点は「清国の朝鮮撤兵」と「清国兵によって生じた日本側の損害の補償」であった。

 榎本全権は清国による謝罪および補償を執拗に要求したが、清側の全権である北洋大臣・李鴻章は日本軍がクーデターに協力した事実を衝き、これを拒んだ。

 最終的に日本側は謝罪と補償の要求を取り下げざるを得なかった。

 

 朝鮮からの撤兵については双方異存なかったが、「朝鮮において変事が起きた際に日清両国が共同出兵する」という合意なされ、「天津条約」が結ばれた。

 しかし、出兵すべき「変事」とは具体的に何か、出兵する際の手続き、などの点は必ずしも明確にされなかった。

 このことが、約十年後の日清戦争の遠因の一つとなる。

 

 甲申政変後、朝鮮をめぐる形勢はさらに日本が不利になった。

 しかし、それと引き換えに日本は眼前の対外危機を切り抜けることに成功した。

 あるいは、この事件でもっとも得をしたのは、朝鮮から有利な条件での妥結を引き出し、外交デビューを飾った伊藤であったかもしれない。

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