初期議会の地殻変動

 「痛み分けの産物」であった明治一六年度予算は、同時に政府と民党、両者にとって重要な教訓を遺した。

 即ち政府は、政策によっては民党と提携し得るということと、民党との政策に応じた「部分連合」を組むことで、衆議院の掌握が一定程度可能であるという学びを得た。

 また、政党にとっても教条的な反対ではなく、政府に対して柔軟な態度を示すことで自分たちの政策が実現し得るという成功体験を積ませることになった。

 

 このことが「超然主義」の形骸化を急速に進め、同時に「初期議会の地殻変動」を引き起こしていく。

 

 来るべき第五議会に向けて、政府は民党との提携強化を模索する。

 改進党とは大隈が内相か外相のポストを頑として要求したため、折り合わなかった。

 最終的に自由党から板垣(農商相)、陸奥宗光(逓相)、後藤象二郎(文相)の三人が自由党員としてではなく、個人の資格で入党した。

 

 陸奥宗光は元和歌山藩士で幕末に坂本龍馬の海援隊結成に参加。

 明治以降も坂本が設立した坂本商会の幹部として働いていたが、第一回総選挙に立候補して政界に転じていた。

 当初は無所属であったが、商用でイギリスに滞在した経験と、英語能力を見込まれて板垣の三顧の礼で自由党に迎え入れられ、短期間で幹部となっていた。

 

 政党員ではなく、個人の資格での入党とすることで形式的には超然主義を守っていたが、実質的には自由党との連立政権に等しかった。

 なお、これは失政や首相との対立によらずして、閣僚を入れ替えた最初の例であり、以後首相が政治的思惑で「内閣改造」を行うことが慣例化していく。

 

 第五議会は明治一六(一八九三)年一一月二八日に開会した。

 会期の冒頭、政府は海軍拡張費を盛り込んだ明治一七年度予算案と、鉄道国有化法案を提出した。

 かつて第二議会で挫折した鉄道国有化であったが、幹線だけではなく地方の支線も含めた全国的な鉄道網の構築は、大陸情勢の緊迫化に伴い、清朝との戦争の可能性が高まるにつれ、喫緊の課題となっていた。

 

 今までの議会とはちがい、自由党を事実上の与党としたことで、今議会では原案通りの予算可決と鉄道公債法案可決が期待された。

 

 だが、自由党は予算案に対して、地租軽減と海軍拡張費の削減などの修正案を提示する。

 またも議会空転が繰り返されるかと思われたが、今回は板垣ら自由党出身の閣僚が調停に乗り出し、海軍の軍制改革を行い、海軍予算を圧縮することを条件に海軍拡張費を呑ませることに成功する。

 

 この合意に基づいて海軍では軍制改革が行われ、軍令部の設置に代表される軍政と軍令の分離など、組織の近代化が行われる。

 また、旧幕時代の旧幕府海軍や諸藩の海軍からの古い人材が淘汰され、代わって幕末・明治以降に欧米に留学して近代海軍を学んできた人材が海軍の中核を担うようになった。

 その中には、後の日露戦争で連合艦隊司令長官を務めることになる東郷平八郎もいた。

 

 地租軽減については、一八年度以降の予算で「段階的に検討する《・・・》」という覚書が政府と自由党の間で取り交わされた。

 玉虫色の文言に自民党内には不満の声もあったが、板垣ら執行部はこれを抑えた。

 政権に手がかかった今、教条主義的な態度は自らの首を絞めかねなかった。

 

 鉄道国有化法案は、政府は赤字路線の買収を行い、黒字路線については政府の許可の元、民営で行うこととし、戦時などの非常時には民間鉄道事業者の政府への協力義務を明記することで決着した。

 この民間事業者にとって有利な決着は民党の議員たちに広く受け入れられ、衆議院はほぼ全会一致で鉄道国有化法案を可決した。

 

 赤字路線を背負うことになった政府は、短期的には大きな負担を強いられたが、中長期的には悲願であった全国的な鉄道網の建設へと繋げ、約一〇年後の日清戦争前には官営鉄道事業全体での黒字化を達成する。

 

 また、この鉄道国有化法案の決着が「地域間を繋ぐ広域鉄道を国鉄(及びその後身のJR)が担い、地域鉄道は私鉄が担う」という現在にも残る日本の鉄道体制を形成する端緒となった。

 

 このように第五議会は政府にとってまずまず満足すべき結果を残して明治一七(一八八四)年三月に閉会した。

 このまま自由党は与党化し、議会政治はようやく安定するかに思われた。

 

 しかし、その安定の兆しは海の向こうからもたらされた知らせにより、儚くも崩れ去ることになる。

 

 第六議会の開会を間近に控えた明治一七年一一月、ロンドンの浜田彦蔵駐英公使から一通の電報が届いた。

 それはイギリス政府から条約改正交渉の申し入れがあったとの知らせだった。

 旧幕時代以来の悲願への前進に政府内部はにわかに沸き立った。

 

 日本国内で政局の混乱が続く中でも現場の外交官が続けていた地道な努力が奏功した形であったが、この時期にイギリスが条約改正に前向きになったのには二つの理由があったといわれる。

 

 第一に日本が憲法をはじめとする近代的法体系、司法機関の整備などを急ピッチで実現させたこと。

 第二に経済成長著しい日本市場での商機拡大であった。

 当時日本が列国と結んでいた条約では、旧幕府が設定していた遊歩範囲が維持され、外国人は開港地に設けられた居留地と、その周辺の一定範囲にしか居住・移動が認められていなかった。

 そのため、外国人商人は日本でのビジネスにおいては、日本人の代理人を介さざるを得ず、割高な手数料によって利益を圧迫されたり、悪徳な代理人による詐欺行為に悩まされたりしていた。

 そのため、イギリス財界では日本との条約改正を求める声が高まっていた。

 

 英国政府との条約改正交渉が始まり、外国人雑居の解禁が検討されていることが知られると、議会や民間で反対論が巻き起こることになる。

 

 外国人雑居に反対する人々は、有力な欧米資本に国内資本の駆逐(これは清国で現実のものとなっていた)、清国からの安価な労働力流入による労働市場の混乱、あるいは外国の文化や宗教が流入することによる、日本の伝統・慣習の破戒など、様々な理由があったが、華族や政府高官、企業家から貧しい都市労働者まで、幅広い階層に及んでいた。

 また、その論調も外国人雑居絶対反対から、将来的には認めざるを得ないとしても今はまだ早いという、「時期尚早派」まで様々であった。

 

 第六議会は明治一七年一二月に開会していたが、条約改正をめぐって紛糾した。

 政府は自由党と中央交渉会との協力で条約案がまとまった場合、可決を目指す腹積もりであったが、自由党、中央交渉会ともに条約改正をめぐって分裂寸前の様相を呈していた。

 

 もともと親政府系議員が緩やかに連帯した院内会派である中央交渉会は、この条約改正問題をきっかけに雲散霧消することになる。

 

 また、自由党も板垣や後藤など主流派は条約改正に賛成する方針であったが、非主流派は反対の姿勢を示す。

 元々自由党の主流派は土佐派を中心に固められ、関東派や九州派はこれに不満を抱いていた。

 さらに前年の議会で主流派が党の金看板である地租軽減を大幅に妥協して政府予算案に賛成の方針を採ったことで、フラストレーションが高まっていたところに条約改正問題が起こった。

 非主流派はこれを利用して板垣を突き上げることで、党運営の主導権を奪う狙いがあった。

 

 明治一八(一八八五)年一月の年明け早々に、非主流派は自由党本部が入っている坂本商会京都館の一室を自派の議員で固め、板垣を事実上軟禁状態に置いた上で、板垣に条約改正への反対を迫った。

 計画は年末からあり、主流派議員が正月に地元に帰って手薄になっていたところを狙ったものだったらしい。

 

 軟禁状態は半日に及んだが、板垣はついに首を縦に振らなかった。

 最終的には中岡慎太郎と後藤に率いられた主流派の議員たちが非主流派のピケを突破したが、これで両者の溝は修復不可能になった。

 

 非主流派は「大日本同志会」を結成し、自由党は分裂する。板垣も混乱の責任を取って党総裁と農商相を辞任した(後任は臨時で中岡慎太郎が就いた)。

 

 自由党は引き続き政府への協力を約したが、議会の多数派を失って政権運営の目途が就かなくなったことで、勝首相は辞表を提出。第二次勝内閣は総辞職した。

 

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ジパング伝記 三浦淡路守 @awaji-no-kami

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