日英通商航海条約

 漢城条約と天津条約については議会の同意を得ることができるかどうか危ぶまれていたが、政府は自由党、改進党、それに穏健諸派などの票を糾合して何とか衆院を可決させた。

 

 対外危機をひとまず回避したことで、大久保内閣は史上二度目となる解散を行い、総選挙へと踏み切った。

 選挙前に大久保は、自由党の板垣、中岡、改進党の大隈らと会談。

 「条約改正に限り協力する」旨の協定を結んだ。

 

 政府は、自由党・改進党と内地雑居容認派の諸派や議員を支援した。

 黒田内閣時代のような露骨な干渉こそ行われなかったが、政府の機密費から選挙資金が提供された。

 

 一方、反対派は自由党を脱党した議員を中心に結成された国民協会、それに改進党を脱党した議員によりつくられた同盟倶楽部などが主要党派であった。

 

 翌月に行われた選挙結果は、自由党一〇〇、改進党八〇、国民協会三五、同盟倶楽部二四、諸派・無所属六一であった。

 

 予想外に対外硬派が伸びなかった背景には、新条約案に領事裁判権の撤廃が含まれていたことが大きいと言われている。

 領事裁判権の下、外国人が関係する刑事事件で外国人有利の判決が連発されることに対する、世論の反発が大きなものであったことをうかがわせる。

 

 また、対外硬派の中にはかなり極端な排外主義を主張する者もおり、そうしたことも有権者に嫌気された一因であるとされる。

 議会政治の開始から一〇年、有権者も穏健化し、非現実的な主張は支持されなくなっていた。

 

 政府は少なくとも条約改正に関する限りにおいて議会の多数を掌握した。

 総選挙後の特別会が招集されるまでの間に大久保内閣は、内閣改造を実施。

 自らが兼摂していた蔵相と内相にそれぞれ大隈と板垣を起用した。


 日本で総選挙があったのと同じ頃、イギリスでも首相が自由党のグラッドストンから保守党のソールズベリー侯に交代していた。

 両国の政変で事実上中断されていた条約改正交渉が再開された。

 交渉の争点は内地雑居の開始時期と協定関税率の廃止(≒関税自主権の回復)についてだった。

 イギリス側は可能な限り早期の内地雑居解禁を求め、協定関税率の廃止には否定的であった。

 

 内地雑居が解禁されればイギリス人が日本国内でより自由に商売をできるようになる。

 日本国内では不利な関税率の下でイギリスとの激しい競争にさらされることへの懸念が強かった。

 また、低関税率は日本の財政を圧迫する一因にもなっていた。

 

 伊藤外相は交渉全権の浜田駐英公使に対して「内地雑居の開始は条約発効後五年の猶予を設けること」、「協定関税率の撤廃」をイギリス側に打診するよう訓令した。  

 これに対しイギリス側は、「条約発効後即時の内地雑居開始」、「協定関税率維持」を返答し、双方の溝が浮き彫りになった。

 

 日本国内では、対外硬派が相変らず議院外での宣伝を続けており、議会でも政府・自由党・改進党と対外硬派の多数派工作が展開されていた。

 また、閣内でも大隈蔵相が関税自主権回復にこだわる一方、関税自主権については妥協してでも、内地雑居の可能な限りの後ろ倒しを優先すべきと主張する閣僚もあり、一枚岩ではなかった。

 

 内外で厳しい局面に立たされる大久保首相であったが、大久保と伊藤には一つの成算があった。

 ロンドンの浜田公使からは「ソールズベリ―内閣は政権基盤が弱く、日本での商機拡大を求める財界の意見を無視することは難しい」という見通しが届いていた。

 大久保-伊藤ラインはこの情報を元に日本がその主張を堅持すればイギリス側が折れると読んでいた。

 

 双方の主張の隔たりは埋まらず、決裂が現実味を帯びつつある中、イギリス側が妥協案を提示してきた。

 それは内地雑居に関する日本側の主張を認め、協定関税率については「原則として撤廃」するというものだった。

 伊藤はこの妥協案の受諾を指示した。

 

 明治一八(一八八五)年八月、「日英通商航海条約」が調印された。

 発効は調印の五年後とされた。

 これにより幕末に結ばれた日英和親条約は失効し、領事裁判権の撤廃が決まった。

 協定関税率は原則として廃止されたが、「重要品目」については両国の協議によってその例外とすることとされており、実際にはイギリスからの輸入品の七割で低関税率が維持された。

 

 完全な条約改正とはならなかったものの、当時の最強国であるイギリスが条約改正に応じたことで、この後日本は列強各国との間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復に相次いで成功する。

 それは日本が法的な意味で列強諸国と対等な関係に立ったことを意味した。

 

 また、日英通商航海条約自体もその後幾度かの改正を経ながら、多国間自由貿易体制が樹立されるまで八〇年以上に渡って日英通商関係の基礎となった。


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