第一次世界大戦の休戦とヴィルヘルム二世の退位―一九一七~一九一八―

 一九一四年六月、一発の銃声によって第一次世界大戦は始まった。

 開戦前に立案された計画に沿って露仏二大国の時間差各個撃破を狙ったドイツ軍であったが、その思惑は予想以上に早く動員を完了したロシア軍と膠着した西部戦線によって、その思惑は崩れ去った。

 戦争は連合国・中央同盟国双方の予想を超えて長期化した。

 

 戦前、ドイツは巨額の国費を投じて海軍を拡張。イギリスに次ぐ世界第二位の海軍力を有するまでになっていたが、ドイツ海軍にはそれを活かすだけのノウハウと戦意に欠けていた。

 ドイツは大戦のほぼ全期間にわたってイギリス海軍(そして後には日本海軍も加わる)による海上封鎖を受けていたが、これはドイツに深刻な事態をもたらした。

 

 ドイツは小麦の約三割、飼料用の大麦の約五割、その他にも主要な作物や飼料の多くを輸入に頼っていた。

 そのため開戦初期から食料不足に陥る。

 特に一九一六年には「カブラの冬」と呼ばれる大飢饉が襲った。

 人々は飼料用のカブラを食べ、スズメやカラスの肉が店頭に並んだ。

 各地で食料を求めるストや暴動が頻発し、数十万人が飢餓により、直接的、間接的に命を奪われた(飢餓で体力を奪われていたところにスペイン風邪の流行が重なったことも惨禍に拍車をかけた)。

 

 一方、ドイツとは別の意味で連合国の継戦も難しくなりつつあった。

 連合国の戦費を担っていたのは、主にイギリスと日本であったが、日本では遠く離れたヨーロッパで繰り広げられる戦争に自国の若者たちの血を流し、戦費を負担することに世論の反発が大きくなっていた。

 

 元々積極的に戦争に参加していた大隈内閣も次第にこうした声を無視できなくなり、一七年に入るとイギリスやフランスに対して講和を促すようになった。

 

 以上のような双方の事情があり、一七年一一月、第一次世界大戦は休戦した。

  連合国との休戦に漕ぎつけたドイツであったが、それを推進した宰相ベートマンは辞任に追い込まれた。

 ベートマンはかねてより無制限潜水艦作戦の再開などをめぐって軍部との対立を深めており、自身の退陣と引き換えに軍部に休戦を受け容れさせたのであった。

 

 ベートマンの推薦により後継宰相となったのは、有力貴族のバーデン公マクシミリアンであった。

 バーデン公は大貴族でありながら自由主義者としても知られており、議会を掌握する政党の支持を得やすいと期待されていた。

 また、スウェーデンやスイス、ロシアなどに人脈を有してもいた。

 バーデン公内閣は、閣僚の多くを社会民主党、中央党、進歩人民党の三党から取ったドイツ史上初の政党内閣であった。

 バーデン内閣を構成した三党は当時のドイツ帝国議会(日本の衆議院に相当)の有力政党であり、この三党で帝国議会の過半数を優に制することができた。

 

 連合国との講和会議は中立国スウェーデンの首都ストックホルムで開催された。

 戦後賠償や領土割譲をめぐり会議は難航したが、最終的にドイツの海外植民地の割譲、賠償金の放棄、ドイツの西部国境は開戦前に復することなどが決定した。

 ドイツはが意外植民地を全て失ったものの(休戦時にドイツの海外植民地がほぼ全て占領されていたという現状を追認したものでもあった)、賠償金を課せられることと、本国領土を失うことは避けられた。

 ストックホルム条約は一九一八年六月二八日に調印された。

 

 これで連合国と同盟国の関係は少なくとも表面上正常化した。

 だがしかし、はっきりと勝敗のつかない終り方であったこと、そして何より双方が賠償金請求を放棄したことは、国民世論に大いに禍根を残すことになった。

 これが約二〇年後に起こる二度目の世界大戦の遠因にならなかったとは言い切れない。

 大戦に参加したフランスの将軍フェルディナンド・フォッシュはストックホルム条約を評して以下のような言葉を遺している。

「勝者もなく、敗者もない。ただ、遺恨だけが残された」。

 

 ストックホルム条約調印前からドイツ国内では条約に対する反対運動が澎湃として巻き起こった。

 数十万の餓死者を出すような凄惨な状況を耐え忍びながら、何の成果も得られないばかりか、海外領土を失ったことに対する国民の怒りであった。

 また、戦術的にはドイツはむしろ優勢であり、政府やメディアもそれを誇張して喧伝していたことも一因であった。

 

 反条約運動はやがて、皇帝に対する責任追及へと転化した。

 憲法上、ドイツの主権は皇帝に帰するとされていたからである。

 実は戦争が始まって以来、政府や軍部の権限が拡大し、皇帝の実権は事実上失われていたが、そのような事情は国民の知るところではなかった。

 ドイツ各地でデモや暴動が頻発した。

 

 革命前夜のような状況の中、議会は多数を以ってヴィルヘルム二世帝に退位を勧告した。

 帝都ベルリンで反皇帝暴動が起こり、皇帝は軍に鎮圧を下命したが、軍は従わなかった。

 

 皇帝を守護し、支えるき軍とそれを牛耳る軍も、帝政維持のために皇帝を切り捨てることを決した。

 宰相バーデン公はヴィルヘルム二世に対して退位を上奏。

 最初は抵抗した皇帝であったが、軍部までもが敵に回ったと知り、身の安全と生涯にわたる生活保障を条件に退位に同意した。

 

 次期皇帝は皇太子のヴィルヘルム三世ではなく、その長男ヴィルヘルム四世が就くこととなった。

 ヴィルヘルム三世は大戦中に陸軍将官として従軍しており、麾下の部隊に大損害を出したこともあったため、新時代の皇帝と相応しくなかった。

 また、ヴィルヘルム四世は当時一二歳の少年であり、政治的能力を発揮できないことも決め手となった。

 

 かくして一九一八年一一月九日、ヴィルヘルム二世は退位し、代わってヴィルヘルム四世が即位した。

 前皇帝と前皇太子はポツダムの旧プロイセン王宮でもあるサンスーシー宮殿に移った。

 通説ではこれを以てポツダム体制の始まりであるとする。

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