孫文の死と北伐
一九二五年三月、孫文が死去した。
生涯を革命と祖国に捧げたこの男は、最後に遺したという「革命未だ成らず」という言葉のとおり、中国統一を成し得ないまま世を去った。
五八歳であった。
孫文の死によって国共合作は崩壊し、蔣介石は権力者の座に就くことになるが、その直接の契機となったのは二六年三月の「中山艦事件」であった。
二六年三月一八日夜、国民党海軍所属の砲艦「中山」(孫文の号に由来)が広州の黄埔軍官学校の沖合に突如として現れた。
軍の上層部も知らぬ行動であった。
蔣はこれを「自分をソ連に拉致するための中国共産党の謀略」であるとして、「中山」艦長と中国共産党関係者の逮捕を命じた。
事件当時、北京政府に対する「北伐」をめぐって国民党右派と国民党左派、中国共産党、ソ連顧問団との対立が深まり、国民党は機能不全に陥りつつあった。
そのあおりを受けて、蔣は黄埔軍官学校校長を辞任。
国民党軍軍監という閑職に就いていた。
中山艦事件については、膠着した事態に焦った共産党関係者による謀略であるとする説と、対立派閥の追い落としを狙った国民党右派による自作自演という説があり、現在でも真相は不明である。
いずれにせよ、この事件を機に共産党系国民党員は追放され、党軍事委員会主席で国民党左派の領袖ともいうべき王精衛はフランスへ亡命。
その後任には蔣が就任し、右派が党内を掌握した。
国共合作は形式的に維持されたが、内実は無きに等しかった。
そして抵抗勢力がなくなった蔣は国民党軍を「国民革命軍」とし、七月に国民革命軍総司令官として北伐を宣言した。
蔣介石が組織し鍛え上げた国民革命軍は各地で北京政府軍や軍閥勢力を撃破し、順調に進撃した。
二七年三月、南京を占領した。
この際、南京に入った国民党軍の一部が外国人居留民に対して、暴行や殺害、略奪を行った。
これに対し当時、発足したばかりの第二次原敬内閣は英米と共同歩調をとり、軍艦による南京市街への砲撃と海軍陸戦隊を投入しての居留民救出を行った(南京事件)。
事件により国民党政権と列国の関係は緊張したが(列国が賠償金の支払いと文書による公式の謝罪などを要求したのに対し、国民党政府の陳友仁外交部長が「事件の責任の一部は不平等条約の存在にある」と発言したことも事態を複雑にした)、日本やイギリスの仲介工作によって国民党政府の公式の謝罪、賠償金の支払いなどで事態は決着した。
事件の原因は中国人の間に長年熟成されていた列強への反感など複合的なものがあったが、蔣は北伐を妨害するための共産党の陰謀であると信じた。
そして四月、占領されたばかりの南京に遷都した(南京政府)。その直後、上海に戒厳令を布告。
共産党員の逮捕とソ連顧問団の国外退去を命じ(上海クーデター)、国共合作は完全に崩壊した。
蒋介石が「日本陸軍勤務時代の上官にあいさつする」名目で私的に来日したのは、二七年九月のことである。蔣と日本の原敬は神戸市・塩屋にある原の別荘で会見した。
後の世にいう「塩屋会談」であるが、この席で日本側は「直接的な軍事介入を除く、国民党政府による中国統一への全面協力」を約束した。
また、蔣はこの来日で駐日イギリス大使とも会談しており、日英が国民党政府を後援する構図が明確になったといえる。
一九二七年六月、国民革命軍はついに北京を占領した。
それは清朝滅亡以来一五年ぶりに(少なくとも名目的に)中国大陸が単一の政権に統一されたことを意味したが、その政権基盤は盤石ではなかった。
国内には上海クーデターを逃れた共産党がおり、国民党内にも反蔣派がいた。
さらには旧北洋軍閥に属さない独立系軍閥も日和見的に国民党政府に帰順しただけであり、情勢次第でどう動くか知れたものではなかった。
現にこの後も蒋介石は軍閥や共産党の軍と戦い続けねばならなかったし、最終的に中国大陸は国民党と共産党の二大勢力に分裂し、今なお九〇年以上も続く国共内戦の時代に突入していくのであった。
また、この蔣介石による北伐を日英と合衆国の対立という文脈からとらえれば、日英の支援する国民党政府と合衆国が後援する北京政府の代理戦争であり、それは最終的に日英の勝利で決着した。
そしてそれは、日英・合衆国対立のさらなる深化につながったのである。
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