国民党右派の形成
一九一六年六月、袁世凱は死去した。
その後の政局については先述したので、ここでは革命派と華南地方での動きを中心に記述する。
袁の死去後孫文は帰国し、北京政府の実権を握る段祺瑞に臨時約法の復活を要求した。
しかし、段は逆に独裁傾向を強め、国会も解散したので、孫文は唐継堯や陸栄廷と提携し、広東に臨時政府を樹立した(広東政府、第三革命)。
しかし、北京政府を軍事力をもって妥当することは困難であり、広東政府も孫文ら革命派と軍閥との思惑の違い、さらには革命党内部からの裏切りによって二度にわたる瓦解と再建を繰り返した。
孫文は自前の軍事力の必要性を痛感した。
この間蔣介石は、三度目の結婚と母の死という個人的な変化に直面するとともに、広東政府軍の参謀長補佐に任命されるなど歴史の表舞台への道を着々とたどりつつあったが、一九二三年一月に樹立された第三次広東政府において遂に革命軍参謀長に抜擢された。
孫文の最側近であると同時に革命軍の軍権を事実上掌握した形であった。
さて、孫文は武力による早期の南北統一を志向していたわけであるが、そのためにも外国の後援を必要としていた。
その後援先として孫文が目をつけたのは(後の展開から考えれば意外な感があるが)建国間もないソ連であった。
ソ連は主要国の中では唯一広東政府を承認していた。
二三年八月、その答礼という名目で孫文はソ連に使節団を派遣したが、蔣介石もそれに加わっていた。
ソ連を視察した蔣は、共産党や赤軍の組織を学び、それによって得た知見は政権を掌握した際、国民党や国府軍の組織作りに活かされた。
しかし同時に、蔣の後半生のテーマとなる「反共」の原点となったのもこのソ連行であった。
蔣は訪ソの折にソ連側が国民党に対し、批判的な演説をしたことに反感を覚えた。
また、蔣の見るところソ連共産党の目的は共産主義による世界征服であり、そのために国民党を利用しようとしていた(その見方は完全に正確ではないとしても大筋において間違いでなかった)。
訪ソ団の帰国後、中国共産党の党員が個人の資格で国民党に入党するなど「国共合作」が推進されていく。
しかし、イデオロギー的な反感からこれに反発する国民党員も多かった。
歴史的に「国民党右派」と称されるグループが形成されていったが、蔣はその中心となっていった。
また、ソ連との提携を推進する孫文への反発から蔣の孫文からの政治的自立も結果的にもたらした。
ソ連からの帰国後、蔣は新設された黄埔軍官学校の校長に就任した。
国民党独自の軍を保有することは党創設以来の宿願であったが、ソ連人顧問の協力によってその実現の目途がついた。
黄埔軍官学校はその党軍の将校を養成するための軍事教育機関であり、蔣はその責任者に任命されたのであった。
この時期、対ソ姿勢をめぐって孫文と蔣の間に疎隔が生じつつあったが、蔣にそのような地位を与えたところに孫文の蔣に対する信頼が依然篤いものであったことが窺える。
あるいは自分から離れつつあった蔣を引き戻す意図があったかもしれない。
いずれにせよ、蔣にとって最大の成果は黄埔軍官学校の校長に任命されたことであった。
一九四〇年代までに蔣は完璧に近い独裁体制を確立したが、その権力の源泉の一つは軍の掌握にあった。
それを可能にしたのは黄埔軍官学校出身の軍幹部が蔣に忠誠を誓い続けたからであった。
歴史の皮肉めいたことではあったが、国民党とソ連との提携、その最大の受益者のひとりは間違いなく蔣介石であった。
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