革命派軍人
上海に降り立った蔣は直ちに陳其美と面会した。
陳は蔣をして抗洲方面を担当する革命軍第五団(連隊)の指揮官に任じた。
革命軍は清軍の革命派と中国同盟会の寄せ集めであり(中国同盟会からして複数の革命組織の寄せ集めであった)、信頼できる人間は少なかった。
陳は日本で最新の軍事知識を身につけたこの青年将校を自らの代理とするほどに信頼していたのである。
一一月三日、陳が上海で蜂起したのに呼応して蔣も抗洲で軍事行動を起こした。
連隊とは名ばかりの数百人規模の部隊ではあったが、蔣は人生初の実戦を指揮官として戦った。
彼は後方にいるのではなく自ら最前線に立った。
一二月二日、革命軍が南京を占領した。
この頃、内地一八省のうち甘粛、河南、山東、直隷の四省をのぞく一四省が清からの独立を宣言した。
清朝は急速に崩壊しつつあった。
ちなみに一九一二年三月から翌一三年まで蔣は日本や故郷の奉化県で過ごした。
蔣は同盟会内で陳其美と政敵関係にあった陶成章を独断で暗殺した。
陶は表向き陳と友好的に振舞い、裏で攻撃していたというが、そういう人物を兄貴分のために独断で暗殺するところに、蔣介石という人間の性格の少なくとも一面が端的に現れているようにも思われる。
陶成章暗殺のほとぼりを冷ますため日本と故郷にいたので、蔣は中華民国の成立、清朝の滅亡、革命派と袁世凱の妥協による北京政府の成立といった重要な歴史的舞台に居合わせなかったわけであるが、それで政治的に傷つかずに済んだ。
歴史に名を残す人物が往々にしてそうであるように、彼もまた幸運の女神に好かれているようなところがあった。
一九一一年一二月二九日、南京に独立を宣言した各省の代表が集まり、「中華民国」の樹立を宣言した(一二年一月一日)。
この政権は孫文を臨時大総統に選出し、彼の思想である「三民主義・五権分立」を理念とすることを宣言したが、九人の閣僚のうち同盟会の会員は三人で残りは清朝の高官であった。
さらに北京には内閣総理に任命され、清朝の全権を握った北洋軍閥の首領・袁世凱がいた。
さらに東北三省と蒙古も清朝の支配下にあった。
基本的に寄せ集めである革命軍が北洋軍閥を武力で打倒することは困難であり、事態は膠着した。
こうした情勢のなかで海外華僑や留学生、さらに国内世論の間でも袁世凱の声望が高まった。
同盟会の中からも黄興が袁世凱に書簡を送り、袁世凱に大総統就任を要請している。
孫文も袁世凱の共和制支持、皇帝退位などを条件に袁の臨時大総統就任を要請した。こうした妥協のできるあたり、孫文はただの理想主義者の革命家ではなかった。
北京の袁と南京の臨時政府との間で密かに交渉が持たれ、袁は条件を受諾。
軍事力を背景に宣統帝を退位させた。
代々官人を輩出した名家に生まれながら、科挙に失敗して李鴻章の淮軍に参加し軍人として栄達してきた袁は、有能な軍人であると同時に機会主義者でもあった。
その機会主義者は土壇場で主君を裏切ったのであった。
こうしておよそ三〇〇年続いた清朝は滅亡した。
また、始皇帝以来の皇帝専制を終わらせたという意味で中国史の一大画期であった。
北京に袁世凱を臨時大総統とする政権が樹立され、情勢を静観していた列強諸国もこれを正統の政府として承認した。
ちなみにこの頃、革命の混乱に乗じてロシアが蒙古独立を画策したが、イギリスによって阻止されている。ともあれ、辛亥革命はひとまずの終わりを見た。
しかし、理想と現実の妥協によって生まれた北京政府は革命派と袁派の同床異夢であった。
八月、孫文らは袁派に対抗して同盟会と革命派の軍人や官僚を糾合して「国民党」を結党した。
両者は水面下で激しく対立したが、一九一三年四月に袁派が孫文の側近で国民党の党務を取り仕切っていた、宋教仁を暗殺したことで決定的なものとなった。
袁によって政権から放逐された革命派は再び南京で臨時政府を樹立したが(第二革命)、軍事力で対抗することはかなわず、南京や広東などの華南の主要都市が北京政府の差し向けた軍によって陥落した。
事ここに至って、革命派(≒国民党員)のとり得た道は四つであった。
即ち、日本への亡命、欧米への亡命、中国国内での潜伏、北京政府への恭順であった。
結果的に日本への亡命を選んだ者たちが今後の革命を主導することになる(ちなみに国内潜伏を選んだ者の多くは北京政府によって処刑された)。
日本への亡命を選んだのは孫文や黄興らであったが、蒋介石も陳其美とともに日本へ亡命した。
日本への亡命後、蔣は孫文の結成した「中華革命党」に参加した。
これは革命の失敗を「不純な反革命分子」の混入にあるとみた孫文が新たにつくった革命政党であったが、構成員に自身への絶対的な忠誠を求めたため、黄興らの離反を招いている。
以後、中国の革命運動はこの中華革命党に参加した面々に主導されることとなる。
一九一四年七月、第一次世界大戦が勃発すると蔣介石は密かに満洲に渡った。ロシアの参戦で手薄になると思われた満洲で革命運動を扇動するためである。
しかし、予想に反してロシアの支配はいまだ強固であり、また革命の機運も十分でなかったのか、これは失敗している。
その後、陳其美の指示で上海に渡りフランス租界を拠点に反袁活動を展開した。
一九一五年一二月に袁世凱が皇帝への即位を宣言したことは、革命派にとって大きな好機であった。
袁の即位は中国国内では唐継堯の雲南軍閥や陸栄廷の広西軍閥の離反や世論の反発、さらには北京政府からの造反を招いたし、対外的にも親袁的な日英を含む列強の不興を買ったのである(帝政は一六年三月に取り消し)。
ちなみに一九一六年という年は蔣介石個人にとっても大きな変化のある年であった。
まず、長男・経国に続きもう一人の息子・緯国を得た。
実子ではなく、知人の中国人の軍人と日本人女性の間に生まれた男児を引き取って養子にしたのである。
上海にいた蔣は後に二番目の妻となる姚怡誠と同棲していた。
さらに兄貴分の陳其美を袁派の暗殺によって失った。
日本留学時代から自分を導いてくれた人物を唐突に失ったことは、蔣にとってむろん大きなショックであった。
しかし同時に孫文を軍事面で支えていた最側近の一人が死亡したことは、蔣が後にその座を埋めることにつながっていくのである。
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