蒋介石の経歴


 蒋介石は一八八七(光緒一三)年、清の浙江省奉化県に生まれた。

 同じ年に「一八八七年黄河大洪水」が起こり、死者九〇万人以上という中国災害史上最悪の被害を出している。

 

 蔣の生家は塩と茶を商う裕福な商人であり、父と祖父は当時盛んになりつつあった反清運動に資金を提供し、自らも積極的に運動に参加していた。

 母の王氏も富裕な商家の出であったが、質素を好み、子どもたちの教育には特に熱心であった。

 蔣自身も六歳頃から私塾に通ったり、家庭教師を付けられたりして四書五経を初めとする漢籍を学んだ。蔣の学業は優秀であったとされ、国民党が編纂した蔣の伝記によれば九歳で四書を諳んじたという。

 

 このまま行けば蔣も科挙を受けて清朝のエリート官僚となっていたところであったが、八歳から九歳の頃にかけて父と祖父を相次いで喪ったことが、あるいは蔣介石という人間の運命の分岐点であった。

 大黒柱を失った生家はたちまち没落し、当時の封建的な清朝の地方社会にあっては母子家庭となった蔣家の立場は弱かった。

 後年蔣自身もこの頃に腐敗した官吏や村落社会から迫害された体験を述懐しているが、一〇歳前後の多感な時期のこの経験が、蔣介石をして熱心な革命派軍人とならしめた大きな要因であったのかもしれない。

 

 一五歳の頃、当時通っていた私塾の教師の娘・毛福梅と最初の結婚をする。

 この結婚は蔣に一男(蔣経国)をもたらすが、福梅が後に仏門に帰依したこともあり、実質的な結婚生活は短かった。

 

 蔣介石が革命思想に直接触れたのは寧波の煎金学堂で学んだ折であった。

 ここは従来の私塾などとは違って、西洋の法律や時事問題などを講義する新式の教育機関であったが、ここの教師には孫文の同調者が多く、一〇から二〇代の学生たちに新しい学問とともにその思想を吹き込んだのであった。

 煎金学堂で学んだ後、蔣はいったん帰郷したが、商人になるように促した親戚たちの反対を振り切って日本留学を決意する。

 時は一九〇六年、大国ロシアとの戦争をなんとか引き分けで切り抜け、非白人国家として唯一列強の一角をしめつつあった日本は、反清革命運動の一大拠点となっていたのである。

 

 蔣は来日し、京都の振武学堂への入学を希望した。

 振武学堂は日本政府が清国からの軍事留学生教育のために設立した専門機関であり、卒業生はそのまま陸軍士官学校や海軍兵学校に入学し、その後陸海軍の現場で実習勤務をすることができた。

 しかし、振武学堂入学のためにはまず清国の保定軍官学校の卒業か推薦が必要であった。

 保定軍官学校は清朝が軍の近代化の一環として設立した学校であり、外国人教師が学生の教育にあたっていたが、蔣はその資格を持たなかったために振武学堂に入学できず、その年のうちに帰国している。

 

  蔣は改めて保定軍官学校に入学し、一九〇七年振武学堂への留学を命じられた。 

 彼が日本で触れたものは軍事知識以上に革命思想であった。

 当時清国から日本には二万人以上の留学生がいたが、そのほとんどは日本で革命派になった。

 清国留学生の多くは国の将来を担うエリートであったが、彼らは優秀であったが故に国の外に出て故国を相対化する機会と、一定の思想の自由を得ると清朝の行く末に見切りをつけざるを得なかった。

 また、日本には孫文や黄興など革命派の巨頭たちが亡命してきており、神戸や横浜の唐人街を拠点に活動し革命思想の宣伝に努めていたから、留学生たちがそれに触れたとき革命思想に共鳴するのはある意味で当然の帰結であったともいえる。

 

 ところで、ここで日本における革命派の状況について簡単に触れておきたい。

 日本における革命派の支援者は大きく二つに分けられた。

 孫文らの思想に共鳴した日本人と在日華僑である。

 在日華僑の多くは江戸時代から神戸や横浜、長崎を拠点に国際貿易に従事していた。

 彼らは商人として培った情報収集能力と予見能力で清朝を見限りつつあった。

 彼らにとって革命派への支援(もちろん財政的なものが主であったが)は、清朝に代わる政権への先行投資という面が強かった。

 

 また、革命派への日本政府への思惑も複雑なところがあった。

 日本にとって清国は最大の貿易相手国であった。

 特に日露戦争での大陸における敗北により、日本は海洋交易国家として生きる以外なくなったから、清朝との関係を悪くするわけにはいかなかった。

 一方では商人国家らしい嗅覚でやはり清朝の持続可能性を低く見積もっていたから、やはり先物買いとして革命派にも恩を売っておきたかった。

 日本政府には清朝から革命派を取り締まるように度々要請があったが、日本政府は清朝に「言いわけが立つ程度」に革命派の活動を妨害した。

 一方で日本人支援者から革命派に提供された資金の一部の出所は日本政府であった。

 日本政府もまた、商人国家としてのしたたかさと狡猾さとをもって革命派を支援していたのである。

 

 一九〇五年、孫文らによって神戸にある在日華僑の呉錦堂の邸宅で「中国革命同盟会」が結成された(後に日本政府の干渉で名称を「中国同盟会」に変更)。

 中国同盟会こそは、後の辛亥革命において革命派の中心をなした組織であり、後の中国国民党の前身の一つとなった。

 ちなみに呉錦堂は在日華僑最大の豪商であり、その先祖は江戸時代から兵庫の唐人街で貿易商に従事していた。

 錦堂は後に第一次世界大戦以後の高度成長に乗じて家業を阪神財閥の一角である「呉財閥」として成長させた。

 彼は孫文の最大の支援者の一人であった。

 

 蒋介石も再来日後に知遇を得た、同卿の陳其美の紹介で同盟会に入会している。

 清朝の派遣留学生という立場上、表立った活動はできなかったが彼は同盟会の発行した文書を片端から読み、胸の中の革命思想をさらに燃えたぎらせた。

 振武学堂卒業後、蔣は陸軍士官学校に入学せず、そのまま新潟・高田の第一九連隊の隊付将校として実習勤務に取り組むことになった。

 士官学校を経由せず、そのまま現場実習となった理由は明らかではないが、革命思想に強く傾倒していたことが影響した可能性もある。

 

 さて、日本時代の蔣にとって最大の成果は孫文の知遇を得たことであった。

 一九一〇年、孫文は在米華僑や合衆国の実業界から支援を得るべく渡米していたが、再び神戸に戻り同盟会の幹部たちと革命蜂起に向けた計画を練っていた。

 蔣と孫文が会ったのはその頃のことである。

 陳其美が両者を引き合わせたのであるが、蔣は清朝政府の軍事留学生であり、当時は日本陸軍で実習中の身であった。

 そこで表向きは陳の私的な門弟として、孫文と陳の会見に同行するという体裁で、両者は会見した。

 

 蔣は「自分は軍人として孫文の革命に貢献したい」と熱っぽく語ったようであるが、この時は孫文に「少なくとも気持ちは熱い、朴訥とした青年将校」という以上の印象は与えなかった。

 その蔣が後年孫文の軍事面での腹心になるとは、もちろんこの時はだれも予想し得ないことではあったが、革命前に孫文と陳其美の知遇を得、革命派の中に加われたことは後の蔣にとって大きな政治的資産となるのである。

 

 一九一一年一〇月一〇日、清国・武昌で清朝軍の兵士が反乱を起こした(武昌蜂起)。

 辛亥革命の勃発である。

 革命派の蜂起は華南地方を中心に何度も起きていたが、遂に政府軍からそれに呼応するものが現れたのである。

 また、反乱と蜂起が伝播していったこともそれまでのものとは違っていた。

 革命派は幾度とない弾圧にもめげずに清朝軍内と華南の各都市に浸透していたが、その成果が一気に噴出した形であった。

 

 蔣介石の兄貴分・陳其美も上海で革命軍の指揮をとっていたが、早速蔣に帰国を促す電報を送っている。

 蔣はこの時、一九連隊での実習中であったが、日本の新聞等で革命のことは知っていた。

 同じ連隊で実習していた革命派の青年将校たちと帰国の相談をしていた矢先に陳の電報が届いた。

 蔣は早速、連隊長に帰国を直訴した。

 当時の日本では革命派に同情的な世論が強かったこともあり、連隊長はこれを許し壮行会を盛大に開いた。その席で蔣は連隊長から水盃を勧められ、「有難くあります!」と言って一息に飲み干した。

 興奮のためか顔が上気していたという。

 

 記念に持ち帰った日本軍の軍服が入ったトランク一つを持って蔣が上海の地を踏んだのは、一九一一年一〇月三〇日であった。

 時に二五歳。

 歴史の奔流に自ら飛び込もうとしていた。



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