ヒトラーの個人史―大戦後の混乱期と政治への目覚め―
休戦後もしばらくの間、ヒトラーの属するリスト連隊は前線に留め置かれた。
戦闘再開に備えての措置である。
しかし、特に為すこともなく部隊を前線に張り付けておくのは士気の維持からも好ましくなかったのか、一八年の春ごろには連隊は別の部隊と交代してミュンヘンへと帰還した。
そして、六月のストックホルム条約の成立後は兵の復員が始まった。
多くの兵たちが復員を希望したが、ヒトラーは軍に残り、復員事務や捕虜収容所での勤務などに従事した。
入営前にこれといった仕事に就いていなかった彼には、除隊したところでやることもなかったからかもしれない。
ともかくも、ストックホルム条約への不満が皇帝退位運動へと発展する騒然とした空気の中、ヒトラーはただ、自身の業務を淡々とこなした。
そこには後の指導者、独裁者の面影はなく、歴史の砂に埋もれてしまうであろう、名もなき一兵士だけがいた。
そんなヒトラーの転機は、ある一人の大尉の姿をしてやってきた。
カール・マイヤー大尉。
グルーバー連隊(リスト中佐の後任者の名)の上級部隊である第四軍集団司令部から派遣されてきた情報将校である。
当時のドイツでは右から左まで急進的な社会変革を志向する運動が全国的に勢いを増しており、軍内でもそれに影響される者が多数出ていた。
キール軍港では水兵の暴動が起きていたし、ハノーファーでは一部の兵士が労働者のデモに参加する事態が起きていた。
保守的な地域として知られるバイエルンでも独立社会民主党(大戦中に戦争への協力方針を採った社民党主流派に対し、非主流派が分派してできた政党)のクルト・アイスナーを中心とする一派が盛んに活動していた。
このように軍律は乱れ、国中に革命前夜のような空気が蔓延していた。
これに危機感を抱いた陸軍上層部は、内偵によって軍内の過激分子を見つけ出し、並行して将兵に民族教育など主眼とした再教育プログラムを施す作戦の実施を決めた。
実施は各軍集団が行い、連隊ごとに末端組織が置かれた。
マイヤー大尉はグルーバー連隊における作戦実施の責任者として赴任してきたのだった。
マイヤーは自身の手足となって働く将兵の一人としてヒトラーに目を付けたのだった。
ヒトラーは頭が良く、何よりも任務への忠実さと軍への忠誠心を評価してのことだったと言われている。
結果的にこのマイヤーの人事がヒトラーの政界進出の契機となる。
ヒトラーはマイヤー大尉の下で軍内部の不穏分子を内偵し、摘発に貢献した。
同時に兵舎内での教宣活動にも従事。その中で演説の才能を開花させていく。
任務をこなす傍らで、ミュンヘン大学の講堂を借りて行われた特別教育プログラムにヒトラーは参加した。
そこでは本格的なスパイ教育の他に経済学者のゴッドフリート・フェダー、作家のカール・フォン・ボトマー、歴史学者のカール・アレクサンダ―・フォン・ミュラーなどの名だたる右派の論客たちが講師を務める思想教育が行われていた。
ヒトラーはこうした教育によってそれまで抱いていた民族主義的な思想傾向をより一層強化したものと思われる。
また、この時に学んだロジックは彼が政治家に転身した後に大衆の前で語った政見の下敷きになった。
一九一九年九月、ヒトラーはナチスのドイツ労働者党の集会に初めて参加した。
これは軍の任務によるものだった。
その働きぶりを評価されたヒトラーは、軍内部に留まらず、より広い範囲での任務に就くようになっていた。
ドイツ労働者党は国有鉄道工場に務めていた職工のアントン・ドレクスラーと、秘密結社トゥーレ協会のメンバーのカール・ハラーによって創設された新興右派政党で、反ユダヤ主義と国家のために労働者を団結させるという、「国家社会主義」を掲げていた。
と言ってもこの時期は党員五〇人程度の弱小政党に過ぎず、ドイツ労働者党のような中小政党は当時のミュンヘンにはいくつもあった。
ドイツ労働者党の集会に参加するようになったヒトラーはその弁舌の才を発揮し、集会に招かれた講師を言い負かすようなこともあった。
やがてその才能はドレクスラーの目に留まり、熱心に入党を薦められるようになる。
一九二〇年三月、ヒトラーは軍を除隊し、ドイツ労働者党に入党する。
当時、ドイツ軍では現役軍人が政党に入ることは禁じられていた。
長らくヒトラーはこの時点で軍を離れたとされていたが、一九九〇年代に公開された軍の機密資料によれば除隊後しばらくの間、ヒトラーは軍にドイツ労働者党をはじめ、バイエルンの極右政党についての情報を流し続けていたらしい。
その関係は少なくともマイヤー大尉がミュンヘンを離れる一九二一年まで続いた。
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