西南戦争
「日本最後の内戦」、「近代日本最大の内乱」、「最大にして最後の士族叛乱」などの言葉で形容される西南戦争であるが、その直接的な期限は明治六(一八七三)年の「明治六年政変」にさかのぼる。
この政変によって西郷隆盛や江藤新平ら明治政府の官僚約六〇〇名が下野した。
下野した後の西郷は鹿児島に帰郷。
地元の若者たちを集めて、「私学校」という私的教育機関を設立した。
私学校では外国人講師を招いての科学技術教育や軍事教練、さらには学生の欧州留学などが実施された。
また、西郷とともに多くの薩摩出身の官僚たちも下野したが、彼らの多くは鹿児島県庁に入り、県政を掌握していった。
西郷らが下野した翌年の明治七(一八七四)年には江藤新平が首謀者となった「佐賀の乱」が勃発し、さらにその二年後には「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」が相次いで起こるなど、日本国内ではいわゆる「不平士族」の叛乱が大きな問題となっていた。
明治政府は幕府と藩の消滅によって失業した武士たちを軍や警察の幹部、官吏、教師などとして雇用したが、すべてを吸収しきれるものではなかった。
公職に就けなかった元武士たちの中には、慣れない商売に手を出して失敗する者、投資で大きな損失を蒙る者、秩禄処分で支給された一時金を騙し取られる者などが相次ぎ、遂に不満が爆発した形であった。
一連の士族叛乱には佐賀の乱の江藤新平をはじめ、明治六年政変で下野した元政府官僚たちも多く参加しており、士族たちの間では西郷への声望が高まっていた。
一方政府内では西郷ら「私学校党」に対して強硬派と穏健派の対立があった。
前者は勝義邦首相、佐藤政養海相などの旧幕閥の要人たちが中心で、後者は大久保利通内相や西郷従道陸相など薩摩閥が主であった。
ちなみに西郷陸相は西郷隆盛の実弟であるが、明治六年政変では兄と行動を共にせず政府に残留し、兄が進めていた陸軍の健軍事業を引き継いでいた。
内相として地方官の人事を司る大久保に対し、旧幕派は鹿児島県庁の私学校党の幹部の更迭を求めたのに対し、大久保は難色を示した。
私学校党には薩摩の次代を担うべき若者が多く、下手に処断すれば薩摩閥に大打撃を与えかねなかった。
また、早急な処分がかえって私学校党の暴発を招く恐れもあり、大久保としては可能な限り穏便に決着させたいところであったが、士族叛乱が続発するにつれ、私学校党問題は大久保の政治生命自体が危ういものにしていく。
そして、内閣と大統領の合同閣議の結果、薩摩出身の川路警相らを「帰郷」を名目に薩摩に派遣し、私学校の内情を探らせ、その報告を待って今後の対応を決するという妥協案が採られた。
川路たちには私学校党の分断工作も命じられた。
しかし、微妙な情勢の中での警察トップの「帰郷」は私学校党の警戒心をかえって強めたといわれている。
明治一〇年一月二九日、一隻の輸送船が鹿児島湾に入港した。
日本郵船所属の「赤龍丸」で、この時は陸軍省の傭船になっていた。
当時鹿児島には薩摩藩時代に建てられた弾薬工場が存在しており、日本有数の生産能力を誇っていた。
維新後は陸軍省の管轄となり陸軍鹿児島砲兵工廠となっていた。
生産された弾薬を大阪に輸送するために定期的に輸送船が入港するのはいつものことであったが、川路たちの来県で緊張が高まっている最中、私学校党の中にはそう受け取らない者たちがいた。
赤龍丸の入港を「叛乱軍に弾薬が使用されるのを防ぐための措置」であると考えた私学校の一部学生たちは機先を制するべく同日夜に鹿児島郡下伊敷村(現・鹿児島市)にあった陸軍の弾薬庫を襲撃。
一時的に保管されていた弾薬を掠奪した(弾薬掠奪事件)。
事件当日、西郷は狩猟に出て不在であったが、その一報を外出先で聞いた際、「ちょしもたー」(鹿児島弁で「しまった」の意)と叫んだと伝えられている。
これは一般的には「私学校学生の暴発を防げなかったことに対する悔恨の意」と解釈されているが、仮に西郷が政府への叛乱を積極的に企図していた場合、「政府に開戦の口実を与え戦争の主導権を握られることになった」ことを悔やんでいるとも取れる。
西郷自身が自身の心中を語るものを遺していない以上、その真意は永遠に謎である。
事件の翌日、西郷が不在であったため篠原国幹、河野主一郎ら、私学校の幹部たちが善後策を協議した結果、元警視庁警察官の谷口登太に川路利良らの来県の真意を調査することを依頼した。
川路の随行団の中に知己がいた谷口は、川路らの目的が「西郷の『シサツ』」であることを聞き出した。
冷静に考えれば警察大臣がいる中で荒事を行うとは考え難く、仮にそのような企みがあったとしても外部に漏らすはずはないのであるが、緊迫した情勢故か谷口はこれを「刺殺」と解釈。
同日夕方には私学校幹部たちに「西郷暗殺計画」の存在を報告した。
「西郷暗殺計画」に憤った私学校の一部学生たちは、同日夜に川路の随行員のひとりを拉致。
苛烈な拷問を加えた上で、「川路大臣から西郷の暗殺を命じられた」とする「自白」を引き出している。
ちなみに随行員が拉致されたことを知った川路は、部下に救出のために私学校側と交渉することを命じた上で、自身は三一日早朝に船で鹿児島を脱出した(これは川路自身の積極的な意思ではなく側近の進言に従ったとする説もある)。
二月四日、外出先から戻った西郷も交えて私学校幹部と分校長らによる大会議が開かれた。
席上、「拉致した警官を解放した上で政府と交渉する」という穏健派から「即時京都を目指して進軍すべし」という急進派まで議論は百出したが、篠原が「議を言うな」と一喝し、続けて桐野利秋が「断の一字あるのみ。旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断じたことで会議の方向は決した。
翌日から私学校本校舎に本営を置いて軍の編成が開始。
二月一五日、鹿児島に六〇年ぶりの大雪が降る中、二万から三万と言われる西郷軍が進発した。
ちなみに西郷軍は進発前に鹿児島工廠に弾薬の製造・提供を求めたが、工廠長・上山彦弥大佐は、私学校幹部の脅迫同然の説得にも屈しなかった。
遂には西郷自らが出向いて説得に当たったが、佐藤の「工廠員一同、工廠とともに自爆してでも忠を全うする所存である」との言葉に感銘を受け、配下の将兵たちに工廠の保護を命じた。
これは戦争の一美談というべきものであったが、新たな弾薬の補充ができなくなったことは、西郷軍の前途に暗い影を落とした。
さて、西郷軍の戦略として当初は「軍を二手に分け、一部は海路を以って進軍し、国内有数の貿易港であり、物資の集積地でもある長崎を抑える」という案が検討されたが、西郷たちが動かせたのは、非武装の汽船三隻のみであり、政府の海軍に到底対抗できるものではなかった。
そこで「まず全力を以って熊本を攻略し、そこを足掛かりに対岸にある長崎を占領。さらに本州を目指す」という方針に決した。
一方、船で長崎へ脱出した川路一行からの電報により西郷の決起を知った政府は、即座に戦時体制を発令した。
大統領と内閣からなる戦争指導会議が設置され、大本営がこれを補佐した(幕僚長は大鳥圭介陸軍参謀総長と川村義純海軍軍令部長。
陸海軍の同格の幕僚長がいることからも分かるように、大本営とは統一司令部ではなく、陸海軍の調整機関の意味合いが強い)。
第一回会議では、西郷陸相の献策により、「本土で追討軍を編成する間、熊本の九州鎮台が持久し、時間を稼ぐ」という方針が決定した。
また、海軍力の優位を活かして鎮台司令部のある熊本城が包囲される前に可能な限り、武器弾薬と物資を運び込むこととされた。
「鎮台」とは後に編成される師団とは異なり、主に国内の内乱鎮圧を目的に編成された軍制のことである。
初めは各藩の旧藩兵によって結成され、明治六年の徴兵令施行以降は、徴兵によって集められた兵への置き換えが進められていた。
明治一〇年時点では、石巻、江戸、金沢、名古屋、大阪、広島、熊本の各鎮台があった。
また、京都には「御親兵」、北海道と南樺太には屯田兵が置かれていた。
「旧幕府海軍」という中核の存在した海軍とは異なり、陸軍は各藩兵の寄せ集めから始めなければならなかった。
熊本鎮台の籠る熊本城には三度に分けて武器弾薬や食料などが運び込まれたが、三度目の物資搬入は西郷軍が熊本城を包囲する二日前の二月一九日のことであった。
谷干城司令長官以下の鎮台司令部が熊本城での籠城を選択したのは、単に大本営の方針に従うという以外に、一万以上の兵力を有すると見られる西郷軍に対し、鎮台側には三五〇〇名の兵力しかなかったこと、鎮台側の兵は徴兵で集められたもの主体であり、精強な薩摩士族と正面から戦えないという現実的理由があった。
ちなみに西郷は攻撃に先立ち、谷少将宛に「上意書」を送っている。
「鎮台兵は整列して西郷大将を迎えるべし」という趣旨であったが、降伏勧告ではなく、あえて上意書を出したのは「陸軍唯一の大将」で自分の威光で無血開城を勝ち取ることができるかもしれない、という期待があったのかもしれない。
だが、谷少将は丁重に、しかし断固として抗戦する旨の返書を返し、(西郷自身は知らなかったと思われるが)大将の階級も剥奪されていた。こうしたことが読めないあたり、西郷の過信や驕り、あるいは政治中枢から離れたことによる読みの甘さのようなものが見えるように思える。
二一日、西郷軍が熊本城へ到着。
二二日、夜明けを待たずして鎮台側は西郷軍への砲撃を開始した。
西郷軍も攻城砲で反撃するが、元々数が少ない上、砲弾も不足しており、城に十分な損害を与えるほどの火力はなかった。
籠城に先立ち、谷少将は城の南東方面の城壁を破壊させている。
これは目に見える弱点を作り出すことで、敵の攻撃を誘うことと、敵兵が身を隠すことをできなくする狙いがあった。
実際、西郷軍は鎮台兵と野砲が手厚く配置された南東方面への攻撃で大損害を出している。
二二日朝から本格的に開始された薩摩軍の攻撃は城の西方にある高台、段山を奪取するなどの成果も挙げていたが、鎮台側の激しい砲・銃撃に阻まれ、思うように進捗していなかった。
また夜には元熊本藩士族で構成された熊本警察部警視隊による斬り込み攻撃があり、損害を出していた。
二三日の軍議で、熊本鎮台と政府軍の援軍に挟撃されることを恐れた薩摩軍は熊本城包囲に一部の兵力を残し、主力は北上して小倉を攻撃する方針に決し、その夜のうちに移動を開始した。
熊本城は当面の危機を脱したが、城に籠る将兵たちはこれからさらに二カ月近くにわたる包囲戦を戦うことになる。
一方、熊本城攻防戦が始まった二二日、政府軍の一番手として神戸から海路で向かっていた大阪鎮台の将兵五六〇〇名が博多に上陸した。
率いていたのは野津鎮雄少将。薩摩出身の少将であった。
また、さらに本土では政府軍の主力が編成中であり、西郷兄弟の従弟でもある参謀次長の大山巌中将が司令官に補されていた。
西郷陸相はあえて政府軍の指揮官・参謀に薩摩出身者を多く充てる方針を採っていたし、政府内では大久保内相が最強硬派へと変貌していた。
陸相の西郷従道をはじめ、薩摩出身者の中には親類が反乱軍に加わっている者も多かったが、だからこそ断固として戦う以外、薩摩の未来がないことを承知していた。
小倉の熊本鎮台分営隊と合流しつつ、南下を急いでいた野津隊であったが、二月二六日、熊本県高瀬村(現・玉名市)付近で薩摩軍と激突する(高瀬の戦い)。
両軍は高瀬川を挟んで攻防を繰り返したが、薩摩軍は熊本の北にある田原坂付近にまで後退した。
これは、鹿児島からの増援により兵力が増強されつつある薩摩軍の意図的なものだった。
野津少将はこの際、幕僚から田原坂を奪取すべきとの進言を受けたが、損害が多く兵も疲労していたため、一旦後退し政府軍主力の到着を待つことにした。
一方、小倉分営隊の指揮官であった野津道貫大佐(野津少将の実弟)は独断で付近にあった稲荷山という低山を占領した。
事態を知った薩摩軍は奪回を試みるが阻止された。
稲荷山はこの地域の要地であり、この決断が西南戦争の勝敗を決したともいわれる。
三月に入ると政府軍の主力が続々と集結し、薩摩軍は兵力で劣勢に立たされていった。政府軍が集結する間、薩摩軍も田原で防備を固めた。
ここに西南戦争最大の激戦・田原坂の戦いが始まる。
田原坂はさほど急峻ではないが、尾根伝いの細い道であり、博多から熊本までで大砲を運ぶことができる唯一の通路であった。
三月四日、政府軍は田原坂への攻撃を開始するが、細い道では数の優位を活かすことができず、薩摩兵は距離を詰めての白兵戦に持ち込んできた。
こうなると徴兵された兵より薩摩士族が有利であった。
ただし、薩摩軍が白兵戦を多用しだしたのは、この頃には弾薬に不足をきたし始めていたからでもあった。
相次ぐ損害を前に政府軍首脳部は警視庁警視隊の投入を決定する。
熊本城攻防戦でも見られたようにこの時期の警察官は元士族が多く、白兵戦や夜襲が多く発生した西南戦争では有用な戦力であった。
警視庁警視隊もそれを見越して編成されたものであり、警視庁勤務の警官を中心に編成され、土方歳三警視総監が自ら率い、土方総監をはじめ斎藤一警視や長倉新八警視など元新選組隊士も多くいた。
三月一四日、田原坂戦線に投入された警視隊は土方総監自らが先頭に立ち、突撃を開始。
初日の戦闘では突破できなかったものの、部隊を入れ替えて執拗に退いては攻める警視隊に対し、薩摩軍の守備兵は消耗を強いられ、遂に一六日、政府軍は田原坂の確保に成功する。
これは熊本への道を開くものであると同時に、薩摩軍中央を攻撃するための橋頭保となるものであった。
三月後半には政府軍では新たに動員された予備兵も戦線に加入し、兵力差がさらに開いていった。
ここからの戦闘は「攻める政府軍と退く薩摩軍」という構図が定着し、戦争の大勢は決した。
熊本では攻囲戦が続き、戦況の不利を覚った薩摩軍が乏しい砲火力を全て投入して砲撃を実施したため、一時的に陥落の危機に陥った。
だが、事前に物資を運び込んだことが奏功し、食料は依然余裕があり、城兵の士気も高かった。
やがて長崎から海路援軍が到着し、熊本城の包囲も解かれた。
戦争の帰趨が決した後も戦闘は九月まで続いたが、九月二四日の西郷自刃、そして最後まで西郷に従った五〇〇名の薩摩軍の全滅によって八カ月に渡った西南戦争は終結した。
政府軍・薩摩軍合わせて一四〇〇〇名以上の戦死者をもたらしたこの内戦は、「武士の時代の終わり」をこれ以上なく鮮烈に示した。
西郷の死を境に士族叛乱は途絶え、国内情勢は安定に向かい、議会政治導入の一つの条件が整えられた。
また、国家の危機を見事に収拾した大統領・内閣制は、憲法発布後に制定された「大統領法」と「内閣法」に受け継がれ、以後日本の行政機構の形として定着した。
西南戦争の政治史的意義とは、つまりこのようなものであった。
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