条約改正問題と勝内閣の退陣

 西南戦争の終結によって、国内における最大の脅威を排除した勝内閣は、懸案となっていた政治課題へと着手する。

 それは憲法制定と条約改正であった。

 

 憲法制定については、薩摩閥の領袖であり副総理各でもある大久保内相を憲法案立案の責任者とし、自らは条約改正に取り組むことにした。

 東インド戦争の結果、旧幕府が諸外国との間に締結した「下田条約」の改正は、幕末以来の日本の宿願であったが、その焦点は大きく二つあった。

 

 一つは「領事裁判権の撤廃」である。

 これは条約締結国の在留外国人が日本国内で触法行為を犯した場合、日本の司法機関では裁けず、その外国人の本国の領事が裁判することを規定したものである。

 条約が締結された当時の幕府は西洋諸国と全く異なる法体系を有していたため、自国の居留民をそれに服させることに不安を覚えた列強諸国が要求したものであるが、外国人に不当に有利な判決が下されることが懸念された。

 

 もう一つは「関税自主権の回復」である。

 これは外国からの輸入品に対する関税を日本独自では決められず、外国との協定税率によるとするものである。

 日本からの輸入品には平均一〇パーセント程度の関税がかけられていたのに対し、日本の関税率は一律五パーセントに抑えられていた。

 これにより日本の対欧米貿易は赤字に転落したため、日本はそれを朝鮮との不平等条約締結やダンピング輸出で埋めようとした。

 

 また当時、どこの国とっても関税は重要な税収であり、たとえばイギリスの国家歳入の四分の一前後が関税によるものであった。

 それに対し日本の歳入に占める関税の割合は一割に満たず、そのために明治政府は酒、醤油、薬など様々な名目で間接税を課すことになった。

 その負担は主に庶民にのしかったので、後の自由民権運動や民党勃興の遠因となっている。

 

 江戸幕府は万延元(一八五四)年に早くも条約改正のための使節団を派遣したが、勝はその使節団の乗艦の艦長として参加していた。

 明治五(一八七二)年に新政府が条約改正の予備交渉と欧米の法制度調査のために派遣した使節団(勝遣欧使節団)でも勝は全権代表を務めており、個人的に因縁深いテーマであった。

 

 また、当時の世論も条約改正を後押ししていた。

 城山で西郷が自刃し、西南戦争が集結する五日前の明治一〇年九月二四日夜、神戸から横浜に向かっていたイギリスの貨客船「ノアディック」が和歌山県沖で台風により座礁した。

 多数の乗員・乗客が脱出し、付近の漁村で保護されたが、日本人乗客二五名は全員船内に取り残されて死亡した。

 

 翌月に領事裁判権に基づき在神戸イギリス領事により開かれた海難審判では、「日本人乗客たちが救助を拒否した」という主張が全面的に認められ、船長以下、乗組全員の無罪判決が下された。

 

 これに対して日本の世論は激昂した。

 当時勃興しつつあった新聞を中心に判決を非難し、領事裁判権を認める条約を問題視する論陣を張った。

 また、民権運動家たちもイギリス政府はもとより、弱腰の日本政府を糾弾する集会を各地で開いた。

 

 勝としては世論を追い風に一気に条約改正に漕ぎつけ、来る立憲政治の時代を前に自身と明治政府の政治的威信を強化しておきたい考えであった。

 

 とはいえ、国際的に日本の地位がさほど高くない状況では、一度に不平等条約の是正を行うのは現実的ではなかった。

 そこで交渉を担当する榎本武揚外相は、まず領事裁判権の撤廃を目指す方針を採った。

 

 先述したように領事裁判権が認められているのは、日本の法や制度が西洋とは異なり、自国民をその裁判に服させることを列強諸国が不安視しているという背景があった。

 幕末の条約改正交渉が失敗し、勝使節団の予備交渉が芳しい成果を挙げられなかった理由もそれが大きかったのであるが、この頃の日本は憲法の制定をはじめ、西洋的な法制度の整備を進めつつあった。

 また、明治八(一八七五)年にはフランスの破毀院をモデルとして大審院を設置しており、榎本としてはこれらを材料に条約改正交渉を行う考えであった。

 

 しかし、この考えはすぐに挫折を余儀なくされる。

 条約改正を打診した英・米・仏・蘭の各国大使は色よい反応を示さなかったのである。

 彼らは日本の司法制度がまだできたばかりで、信頼性が乏しいとし、条約改正も時期尚早であるとした。

 ちなみに下田条約はその改正に際し、締結国すべての同意が必要であった。

 

 条約改正の予想以上の困難さを認識した榎本は奇策を打ち出す。

 それが大議論を巻き起こし、結果的に第一次勝内閣を退陣に追い込むことになる。

 「外国人判事任用問題」の始まりであった。


 榎本外相の指示により外務省内で検討された外国人判事任用案とは、その名の通り大審院と当時は全国に八つ置かれていた地方裁判所に外国人の判事を任用し、外国人が関係する裁判に関しては外国人判事が過半数を占める法廷で裁くこととし、法廷の公用語も日本語と英語の両方を用いるとするものであった。

 

 榎本はこの案を各国の公使たちに内々に示し、色よい反応を得ていたとも言われる。

 ただし、政府内でこのことを知っていたのは勝首相と榎本外相だけで、司法制度を所管する板垣退助法相にも知らされていなかった。

 

 明治一一(一八七八)年三月三日、「朝野新聞」に外国人判事任用を含む榎本条約改正案が掲載された。

 秘密裏に検討されていたはずの条約案が突如として公になった経緯については諸説あるが、外務省の外国人顧問であったブスケのリークによるとの説が有力である。

 

 表沙汰になった条約案に対して政府の内外から非難が殺到。

 在野の民権運動家たちは、条約案の撤回のみならず、勝内閣の退陣を要求し始めた。

 このエネルギーは、それまで別個に内部対立を繰り返していた民権運動を団結させ、大同団結運動の機縁となった。

 

 また、政府内でも板垣法相や川路警相、由利蔵相、岩倉文相など非旧幕派の閣僚らを中心に反対の声が相次ぎ、やがて勝首相と榎本外相への批判へと発展した(とりわけ頭越しに自身の所掌事項を侵される形となった板垣法相はその先頭に立った)。

 

 ところで、後世の我々から見るといかに条約改正の悲願を達成するためとはいえ、外国人判事を裁判に参加させることは、大きな問題があるように思える。

 なぜ、勝と榎本はこのような条約案を推進したのだろうか。

 

 後年、政界を引退した晩年の勝がその回顧録『氷川清話』の中で語ったところによると、外国人判事の任用は「日本の司法制度が育つまでの便宜的措置」であり、あくまで「条約改正のための方便」であったと述懐している。

 また、外国人判事が関わるのはあくまで外国人が関係する裁判に限られていた。

 

 しかしながら、一度でも外国人を裁判に関わらせることがさらなる外国の干渉を呼ばない保証はどこにもなく、リスキーな選択であることは否めなかった。

 何よりも国全体で「不羈独立」を追い求めているときに、政府自ら主権を差し出すような政府の行動は、明治日本の若いナショナリズムを刺激し、勝と榎本の想定以上に燃え上がった。

 

 また、外国人判事任用問題と同時期に進行した「松方大蔵次官更迭問題」が、事態をさらに混迷したものにしていく。

 

 明治一〇年の冬頃から西南戦争の戦後不況が顕在化していた。

 これに対し、由利蔵相は積極財政による景気刺激策を採ろうとしたが、薩摩出身の松方正義大蔵次官は増発した国債と紙幣の整理を優先すべきであるとし、緊縮財政を唱えた。

 両者はあくまで譲らず、大臣と次官が対立した大蔵省では事務が停滞する事態となったため、由利は一一年三月に松方を更迭した。

 

 松方を一方的に解任した由利蔵相に対して、薩摩閥の閣僚や高官は激しく反発。

 勝首相に対して、「喧嘩両成敗」であるとして由利蔵相の罷免を求めた。

 これに対して勝は、「次官人事は大臣の専権事項」であるとして由利を擁護した。

 

 首相と薩摩閥が抜き差しならない対立に陥っていく中、薩摩閥領袖としての鼎の軽重が問われることになったのが大久保内相である。

 外国人判事任用問題では中立的であった大久保も身内の首が切られたことに対して、勝に抗議を申し入れた。

 そして松方を「大蔵次官に復帰させるか」、「代わりの次官級以上のポストに就ける」かの二者択一を求めた。


 もちろん、ここまで抜き差しならない対立が起こってしまった以上、松方の大蔵次官復帰は現実的ではない。

 大久保としては松方に代わりのポストが与えられることで手打ちにし、事態を打開する糸口とする意図があったのかもしれない。

 この時期の大久保は、西南戦争で西郷の叛乱を未然に防げなかったという、政治的な傷がまだ癒えておらず、下手に政争に巻き込まれるわけにはいかなかった。

 

 大久保にとって計算外であったのは、勝が想像以上に一本気で、対立に際しては必要以上に戦闘的になる意固地な性格であったことであったかもしれない。

 勝にしてみれば、松方更迭問題は由利と松方の問題であり、自分に持ち込まれるのは筋違いであった。

 にもかかわらず薩摩閥が自分を批判するのは、外国人判事任用問題に対する意趣返しであるとすら映っていた可能性がある。

 

 かくて勝・榎本と薩摩閥とそれに同調する閣僚たちとの間で、閣内不一致の様相を呈した勝内閣は機能不全に陥った。

 内閣は合議体であり、閣僚全員の合意がなければ法案ひとつ提出することができないのである。

 また、政治の空転状態を国内外にさらすことは日本の威信を傷つけ、条約改正にも悪影響を及ぼすことは確実であった。

 

 ここに至って徳川慶喜大統領が調停に乗り出すも失敗。

 勝が自身と対立する閣僚を一斉に罷免するという噂も流れ、明治六年政変以来の政府分裂さえ懸念される事態になった。

 ただ、明治六年政変の時と異なり、今回は政府が二つの派閥に分裂しているわけではなく、勝首相と榎本外相が政府の中で浮き上がっているといった方が正しかった(閣内での対立が深まるにつれ、旧幕閥の佐藤政養海相や前島密逓相さえ、苦言を呈するようになっていた)。

 

 四月二八日、慶喜は岡崎にある自身の別荘に勝を招いた。

 そこで何が話し合われたのか、慶喜も勝も口をつぐんだので、明らかではない。

 ただ、事実としてはその翌々日の四月三〇日、勝は突如として「急病」を理由に辞意を表明した。

 勝内閣はその日のうちに閣僚全員が辞表を提出し、総辞職した。あしかけ二カ月近くに及んだ政争劇の突然の幕切れであった。

 

 四月二八日に話し合われた内容は、勝の退陣についてであるという説が有力である。

 大統領官制によれば、大統領は首相を解任することができたが、おそらく慶喜は自発的な辞任を促したのであろう。

 意地を張ったはよいが、落としどころを見失い進退に窮していた勝もそれを受け容れた。

 それが第一次勝内閣の退陣劇の真相であろうと思われる。

 

 日本の憲政史において、首相の病気や死亡を除けば、内閣の退陣理由は二つしかない。即ち、「総選挙の敗北」と「大統領による退陣勧告」である。

 前者がだれの目から見ても明瞭であるのに対し、後者は曖昧であった。

 

 一応、「失政を侵した場合」という暗黙の了解はあったが、「内閣が退陣すべき失政」とはどの程度のものなのかは自明ではなく、つまるところ大統領の裁量でしかなかった。

 

 内閣と違い、民選の議会に基盤をもつわけではない大統領がそのような権限を行使し得ることへの批判は、今でも少なからずある。

 

 だが一方で、大統領による「自発的退陣の促し」は政局が混迷し、行き詰った場合の安全弁にもなり得ることを、日本最初の内閣総辞職の事例は示しているともいえるだろう。

 

 勝の後継首班は同日中に決められ、慶喜の推薦に基づき、大久保利通に組閣の大命が下された。

 以後、二〇年近くにわたって首相は旧幕と薩摩が交代で出すことになった。

 

 退陣後、勝は静養と称して江戸へ帰郷。

 

 外相を辞した榎本も程なくして駐米大使に任命され、フィラデルフィアへと赴任していった。

 

 条約改正をめぐる混乱の責任をとってのものだったが、左遷とも言い切れない人事であることがミソであった(大久保内閣はその最初の仕事として、条約改正案の撤回を各国公使に申し入れている)。

 

 かくて、関わった人間の面子を最大限に守る形で条約改正と大蔵次官更迭をめぐる騒動は収集された。

 ちなみに第一次勝内閣は三年四カ月続いたが、これは政党政治以前の内閣としては格段に長い。

 

 時代はまだ、議会政治という嵐を知らなかった。

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