明治一二年政変と大久保内閣の退陣
憲法が発布されたことで当面の政治日程の焦点は議会の開設へと移った。
明治一二年三月、京都府で府議会が開会した。
これは前年に郡区町村編成法、地方税規則とともに公布された府県会規則に基づくもので、我が国初の民選議会であった。
国に先駆けて地方で議会政治が始まっていたが、京都府議会選挙には民権派の支持を受けた候補、あるいは民権派の政治結社から擁立された候補が多数当選していた。
第一次勝内閣時代の条約改正問題を契機に結束の機運が生まれていた民権派であるが、京都府議会選の結果は、それに拍車をかけることになった。
ここに帝国議会開設に向けて民権派の統一組織をつくろうという動きが生まれる。いわゆる「第一次大同団結運動」の始まりである。
一方、勢いを増す民権派に対し政府も危機感を覚えていた。
京都府議会が開設される前月の一二年二月、憲法発布の祝賀会に参列していた全国の府県知事の前で、大久保首相が訓示した。
その訓示の中で示されたのが後世「超然主義」といわれる考えである。
大久保の演説内容は居合わせた知事らが記録したものによって後世に伝わっているが、記録者によって多少の異同がある。
ここでは内閣書記官長としてその場に立ち会っていた伊藤博文の覚書から引用しよう。
…然ルニ政治上ノ意見ハ人々其諸説ヲ異ニシ、其説合同スル者相投シテ一ノ団
結ヲ為シ政党ナル者ノ社会ニ存立スルハ情勢ノ免レザル所ト雖、政府ハ常ニ
一定ノ政策ヲ取リ、超然政党ノ外ニ立チ至誠至中ノ道ニ居ラサル可ラス…
この後大久保演説は、地方官においてもこのことを心に留め特定の意見や利害に偏らない不偏不党の府県政運営を心得るべし、という趣旨が続く。
学校向けの歴史教科書などでは「超然主義」といえば、単純に「政党の政権参画を排する思想」として紹介されがちであるが、それは一面に過ぎない。
大久保演説を見れば分かるようにその肝は、「中道」、「不偏不党」ということであり、政党の政権参画排除はその一手段に過ぎないことが分かる。
逆に言えば政党がその党派性をある程度でも克服すれば政権参画はあり得たし、さらに言えば主要な政党が全て参加する超党派政権もあり得た。
大久保はまた、帝国議会開設後に「早急ニ議会政府即政党ヲ以テ内閣ヲ組織セント望ムカ如キ、最モ至険ノ事タルヲ免レス。
この発言を踏まえると大久保は一概に政党を排除しようとしていたのではなく、国家の体制が整うまでは藩閥政府による強力な指導が必要であるが、それ以降は政党による政権もあり得るという、漸進的な考えであると評価すべきだろう。
思えば幕末時代の英国留学と勝使節団の一員としての英国視察と、二度に渡って当時の超大国でありイギリスを見聞した大久保が、その胸中に英国風の政党政治を一つの理想として抱いていたとしても全く不思議ではない(だからこそイギリス風の帝国憲法をつくったともいえる)。
そして、このことはその後の日本の政治史に重要な意味を持った。
議会開設に備えて防備を固める政府側に対し民権派は攻勢に出たいところであったが、課題がなかったわけではない。
一口に「民権派」と言ってもそのような派閥や集団があったわけではなく、「税率軽減」や「民力休養」、「民権拡張」といった主張を唱えるグループや個人、新聞などを大雑把に一括りにした呼称に過ぎなかった。
彼らは団結するどころか、多くの場合むしろ衝突し、それは単に言論のみに止まらず街頭での乱闘騒ぎに発展することもしばしばであった。
条約改正問題を機にようやく大同団結の動きが出てきたといっても、それをまとめるリーダーに欠いていたし、団結した後のビジョンもなかった。
したがって民権派としては自分たちをまとめ導いてくれる存在がぜひとも必要であったが、先にも述べたように様々な政治結社が乱立する状況ではその指導者を選び出すのは容易ではなかった。
板垣退助が縁戚でもあり幼少期からの親友でもあった後藤象二郎を通じて民権派の政治結社である「愛国社」と接触し始めたのは明治一一年春、外国人判事任用問題が表面化した時期であったとされる(もっとも個人的に親密な後藤との連絡は明治六年政変後も頻繁にあったと見られる)。
「愛国社」は中岡慎太郎、後藤象二郎、副島種臣ら明治六年政変で下野した土佐出身の元官僚らを中心に結成された政治結社で、政府による弾圧に遭いながらも西日本の地主や豪農層を中心に支持を伸ばしていた。
愛国社が仇敵であるはずの政府閣僚である板垣と接触したのには、民権派結集のための求心力を外に求めるという思惑があったとされる。
また、議会政治が始まった際に政府中枢にいる板垣を領袖としていることで、議会の多数派を握るとともに政権参画を狙うという目論見もあったと思われる。
板垣の方にも民権と手を結ぶ動機があった。
板垣は第一次勝内閣と大久保内閣でともに閣僚に列したものの、法相と農商相といずれも「伴食大臣」と呼ばれる二流のポストであった。
それは土佐が当時の藩閥政府では傍流に属していたせいもある(明治六年政変では土佐からも大量の失脚者を出しており、藩閥自体も弱体化していた)。
また、憲法案の立案作業では平等条項を骨抜きにされた他、民法制定をめぐっては板垣が推した平等主義的なボアソナード案は廃案に追いこまれるなど、影響力の低下を感じさせられる事件が相次いでいた。
一方、同じ傍流藩閥(肥前)出身の大隈重信は大久保内閣では外相の椅子を与えられ重用されていた。
同じ傍流であっても差がついたことは否めず、板垣としては挽回を期したいところであった。
もし愛国党が来るべき選挙で第一党になれば自分はその影響力を背景に一転して政府内で重要な地位を占められるかもしれなかった。
また、板垣自身の思想傾向として自由主義・平等主義的であり、当時の政府では民権派にもっとも理解のある閣僚の一人であった。
一方、大隈もこの時期、側近である小野梓をはじめ、河野敏鎌、牟田口元学、春木義彰など自身に近い官僚、さらには逓相の前島密などを中心に新党結成の準備を進めていた。
イギリス的な議院内閣制を志向する大隈はそれを実現すべく、与党たるに相応しい「良民政党」をつくろうとしていた。
後に民党の二大勢力の指導者として好敵手となる二人であるが、その性格には共通する部分があったともいえる。
それは自身の理想を時に性急なまでに追い求めようとする急進性であった。
その急進性は、理想のためには回り道も是とする漸進的な大久保とは対照的な姿勢であり、それ故にこの三人は対立することになる。
大隈にせよ板垣も政党結成の目的は先述したように政府との対立ではなく、その力を背景に政府内で影響力を行使することであった。
彼らは水面下でそれぞれの計画を進めたが、適切なタイミングで新党計画の存在を明らかにし、徳川慶喜大統領や大久保首相など、政府首脳の承諾を得る必要があった。
明治一二年三月に府県会の開設が予定されていることを考えると、二月の憲法の発布はその好機であった。
しかし、よりにもよって大久保首相は憲法発布式典で先述の「超然主義演説」を行う(超然主義演説は大久保とその周辺で考えられたものであり、地方行政を所管する黒田内相を除き、閣僚でもその内容を知る者はいなかったといわれる)。
政党の政権参画を否定され、出鼻を挫かれた形になった大隈は、同郷の首相秘書官・伊東巳代治に自らの新党計画を打ち明け、伊東から大久保の感触を探ろうとした。
しかし、打ち明けられた伊東は、大隈の新党計画を大久保首相に知らせた。
大久保は自分の与り知らぬところで閣僚の一部が新党結成の準備を進め、しかも政府の官僚の中にも参加者がいることに衝撃を受けた。
大久保は大隈に対して新党計画の中止を求めた。
それに対して大隈は、自分が結成しようとしているのは、政府の「与党」となる「良民政党」であり、決して党利党略を追求するものではないと弁明している(大久保・大隈往復書簡)。
大久保の粘り強い説得に対し、三月に入る頃には大隈は一旦政党ではなく「懇親団体」として発足させるという譲歩の考えを同志たちに示すようになった。
こうして大隈新党問題が表沙汰になる前に終息の気配を見せ始めた矢先、事件が起きる。
大隈新党計画の参加者の一人である前島密が社主を務める「郵便報知新聞」が「大隈新党が今春中にも結党される」という記事を掲載したのである(報知新聞事件)。
これは社主の前島も知らないことで、主筆を務める矢野文雄が若手記者たちと共謀したものらしい。
報知新聞は前島が郵便業界の業界紙としてつくったものであるが、自由主義的な論調と社風で知られ、政論記事なども多く掲載していた。
その記者たちは大隈新党計画においては自由に動けない大隈たちに代わって、新党へのリクルーターや連絡として活躍していた。
記事を執筆したのは、後に代議士となり国民党や革新倶楽部の総裁として政界に名を馳せる犬養毅であるといわれている。
後年本人が自伝で語ったところによると、当時報知新聞社社内では若手を中心に、大隈を始め上層部の煮え切らない態度への不満が高まっており、世の中に公表して既成事実をつくることで、一気に新党を現実化してしまおう、という意図があったらしい。
報知新聞の記事が出た数日後、愛国社の機関紙「愛国」にも「愛国社が板垣を党首として、来るべき議会開設に向けて準備を進めている」という主旨の記事が掲載され、これを「西国新聞」が報じたことで板垣新党の計画も世に知れ渡った。
愛国が板垣新党の暴露したのには、全国各地の民権派組織との提携工作がはかばかしい成果を挙げられていない中、大隈新党が世間の注目を集めたことへの焦りがあったとされ、記事の出ることは板垣も知らなかったという。
大隈も板垣も自身の新党を必ずしもコントロールできているわけではなかった。
当初大久保は、大隈新党問題を自身と大隈の間だけで内々に処理するつもりであった。
しかし、大隈に加えて板垣の新党計画が白日の下に晒されたことで、それは不可能になり、「大隈・板垣新党問題」は、大久保・大隈・板垣という三人の政治家を追い詰めていく。
新党計画発覚後初となる三月二五日の閣議では、黒田内相が大隈と板垣、そして前島の三大臣の辞任論を唱えた。
それに対し津田真道法相と西周文相が「三閣僚の責任は当然としても、それに気づくことができなかったのは首相の落ち度」であり、「そもそも超然主義演説のごとき重大な事項を閣議に計らずに行ったことが今回の事態の遠因である」唱え、首相を非難し、さらには「三閣僚を辞職させるのであれば、首相も同じく責を負うべきである潔く内閣総辞職」をすべきであると、総辞職論を主張した(「大久保利通日記」明治一二年三月二五日条)。
津田・西ともに当代随一の西洋哲学と法学の専門家であり、幕末・維新期には慶喜のブレーンも務めた旧幕臣であった。
専門家としての能力だけでなく、学者肌の非政治的な姿勢を見込まれて入閣した二人であったが、この場ではまさにその学者的な高潔さで以って、政治的打算を超えて大久保に牙を剥いていた。
第一次大久保内閣の特徴は、旧幕閥の一時的退潮を利用して、薩摩出身の閣僚と大久保首相の側近たちが中心となって政権を運営していることであった。
それ故に財政再建や憲法制定、地方議会設置などの難しい課題を立て続けに処理できたという側面があったが、一方でそうした「側近政治」は薩摩出身者でも大久保側近でもない者たちの不満を醸成することになっていった。
そのマグマが大隈・板垣新党問題を機に一気に噴出した。
大統領・徳川慶喜は早期の介入に乗り出す。
大隈と板垣という非薩摩系の有力者が政府を離脱すれば明治六年政変以来の政府分裂となりかねず、勝と榎本が不在の中では薩摩閥の独裁体制になりかねなかった。
慶喜は政府内で比較的中立的とみられていた渋沢栄一と大統領書記官長の福地源一郎を連絡役として調停を開始する(慶喜・渋沢宛書簡)。
慶喜にとってベストな落としどころは、大久保内閣が総辞職し、その引き換えに大隈と板垣が新党構想を諦めるか、当人たちが手を引くという形であった。
調停は難航するかに思われたが、意外にも大久保は総辞職を承知した。
勝のように政治的に追い詰められ、打つ手がなくなってから辞職するより、余力のあるうちに一旦引いた方が後々まで影響力を残しやすいと計算したのだろう。
現に大久保は総辞職にあたって、①後任の首班選定に自分も関わること、②黒田・松方・西郷の三閣僚を後継内閣でも留任させること、を条件に呈示した(慶喜・渋沢宛書簡)。
大久保の説得が予想に反してスムースにいったのに対し、大隈と板垣の説得は難航した。
大隈と板垣は新党結成の中止を承知せず、自分たちが手を引くことも承知しなかった。
新党の行方が世間の耳目を集める状況になった今、それを諦めることは自分たちの声望と影響力を失う可能性が大きかった。
自らの影響力の増大のための新党が、いつの間にか自らの行動を縛る存在になっていた。
大隈と板垣が窮していく中、先に動いたのは板垣であった。
四月一四日、板垣は突如として辞意を表明した。
新党問題の発覚以来、愛国社内では板垣の閣僚辞任論が高まっており、それに抗しきれなくなったものらしい(中岡・板垣宛書簡)。
板垣は政府内での現在の地位と、民党総領としての可能性を天秤にかけ、後者を選んだ。
翌月、板垣を総裁、中岡を副総裁として、「愛国公党」が発足した。我が国初の近代政党である。
民権派主体の板垣新党と異なり、政府官僚も多くいる「大隈新党」は板垣ほど思い切った動きは取れなかったが、板垣の動きが後押しとなった。
四月三〇日、大隈も辞表を提出。
これに連座して大隈新党に関わっていた河野敏鎌、小野梓、春木義彰、牟田口元学も政府を追われた(ちなみに新党問題の発端をつくった報知新聞社主の前島密は、その責任を取って三月のうちに閣僚を辞して政府を去っていた)。
愛国公党に遅れること一月、明治一二年六月、大隈を総裁、河野を副総裁として「立憲改進党」が設立された。
これが大隈・板垣新党問題とその結果引き起こされた「明治一二年政変」の顛末であった。
慶喜の意に反し、大隈と板垣は政府内から去ったが、明治六年政変ほどの大分裂には至らなかった。
大久保は薩摩主導の政権運営の弱点を露呈する形になった。
薩摩閥は藩閥政府の中での有力藩閥ではあったが、多数派ではなかった。
しかし、いざ逆境に立たされると柔軟に対応し、損害を最小限にとどめたといえる。
明治一二年政変は大久保という政治家の未だ洗練しきらない「未熟さ」と「強かさ」の両方を見せつけた。
大隈と板垣にとっては、その目標の半分が達成され、半分が失敗したと評すべきであろう。
「政府内で影響力を行使」することはできなくなったが、一方で当時もっとも有力な政党の領袖という新たな政治的資産を手にした。
以後、大隈と板垣は、民党の代名詞的存在になっていく。
大久保首相は大隈一派の処分を行った後の五月五日、退陣を表明した。
慶喜・大久保・西郷・西による協議の結果、後継首班は駐米公使の榎本武揚と決した。また、勝を江戸から呼び戻すことも決まった。
榎本が帰国するまでの約一カ月、第一次大久保内閣は事実上の職務執行内閣として存続し、六月六日に正式に総辞職し、同日に後継の第一次榎本武揚内閣が発足した。
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