夢渡

 平安時代、夢は重要な意味を持っていた。

 夢に人が現れるのは、その人が自分のことを考えているからだと、その時代の人間は本気で考えていた。

 好きな人が夢に現れるのは、その人が自分のことを好きだと思っているから。

 嫌いな人が夢に現れるのは、その人も自分のことを嫌っているから。

 その考え方が当たり前に取られている中、夢から夢へと渡り歩く存在というものが少なからずいたことは、今の時代あまり知られていない。

 ときには生霊として、嫌いな相手を呪い殺すためにさまようし、ときには守り神として、人を悪夢から守っていたという。

 そしてときに、夢を通して人に接触していたという。

 己の存在を夢だと思わせて、その人の考えを少しずつ自分の考えに染めていく。

 夢は夢で、ほとんどの人間は夢の内容まで覚えていない。

 既に夢は幻だと思われてしまった現代であったら、夢を通して操られたとしても、感知することができないということだ。


****


「おのれ、おのれおのれおのれ……! なんで、今代にあれがいるんだ……!」


 平安時代に華やいだ文化を築いた貴族の末裔の華族も、大正の世では少しずつ数を減らしていた。

 商才があるような者や、大名としてたくさんの士族と主従関係のあるような者だったら、今も姿を変え形を変え存続を保っているが、どちらも持っていない存在は、見栄のために散財し、そのたびに嫁や娘を売り払い、挙句の果てに屋敷まで手放していた。

 そんな華族が放棄した屋敷に、つい先日みずほと朔夜が対峙した四鬼をつくった平安時代の豪族、藤原千方ふじわらのちかたが逃げ込んで、結界を張り巡らせていた。

 結界さえ張っていれば、少なくとも気配を探って見つけ出すということは困難というもの。実際、警察も未だに連続女学生殺人事件を起こした千年前の豪族の存在を追っているが、それでも見つけ出すことができないでいる。

 狩衣であぐらを掻き、髪を掻きむしりながらも、少しずつ材料を集めて、それを術で繋ぎ合わせてつくっていた。

 彼の目の前で横たわっているのは、四体の鬼……四鬼であった。

 金鬼、隠形鬼、風鬼、水鬼。

 先日滅した存在よりも、そびえ立つ脚、伸びた腕には隆々とした筋肉が載り、赤銅色の肌は、より一層鬼というものを思わせた。

 先日出した模造品よりも、完成度は高まっている。だが、千年前、京の都を不安のるつぼに陥れたときほどの力は、取り戻せてはいない。

 なにぶん、この時代は死体が手に入りにくいのだ。死体はすぐに燃やされてしまうし、一体の死体が行方不明になっただけで大騒ぎになる世の中だ。

 平安時代、庶民の死体は打ち捨てられていたため、どれほどの死体が行方不明になろうとも、誰も気に留めていなかったというのに。

 それでは鬼をつくる素材が足りないし、前のように退魔師とあれに追い掛け回されても厄介だ。

 だからこそ、千方も髪を掻きむしりながら、かろうじて集めた素材を組み合わせ、自身の術を混ぜ込んで完成度を上げることしかできなかったのだ。

 そんな髪を掻きむしっている中「ふふ……」と嘲笑を耳にし、千方は髪を掻きむしる手を止めた。

 女の低い声だった。


「……何奴」


 ここは結界を張り巡らせている。

 今代に力の強い術者はほとんどおらず、自分が見つかるまで時間がかかったはずだ。しかし、その結界をいとも簡単に突破できる物など、只者な訳がない。

 千方の声に、女はますますもってころころと笑い声を上げる。


「ずいぶんとざまあないな。藤原の。たかが今代の弱い輩にこてんぱんにやられ、貴重な素材を失うとはなあ」

「何奴だ。姿を見せよ」

「術者がそう簡単に姿を見せる訳がなかろうよ。それに私が何故姿が見えないと思う」

「……白昼夢か」


 千方は鬼をつくるおどろおどろしい呪術師ではあるが、今代の力の衰えた術者よりも、よほど力も知識も持っている。

 平安時代、昼間にうたた寝しているときに、夢に忍び込む存在もいた。昼間にありえない光景を見たところで、気のせいだろう、白昼夢だろうと一蹴されてしまったものの中には、呪術師が現れたこともあったのだ。

 千方に接触してきた女もまた、夢渡を使って結界を突破し、接触を図ってきたのだ。

 ……そんなことのできる物が、今代の者ではあるまい。

 千方はつるりと額から汗が滑り落ちるのを感じた。


「……そんな女が、我になんの用か」


 こんな女を、敵に回していいことはない。

 千方はあくまで四鬼を使役できるから強いのであって、四鬼がない中で戦ったとしても、今代の人間とほとんど変わりがない。居場所を特定できるような女に寝首をかかれても、対処できる訳がない。

 女の声は、満足げに笑った。


「話が早くて助かるな。貴様が屠りたいと願うものと、私が消したいと思うものが一致しているだけのこと。今代では鬼をつくるのに困っているのであろう?」

「そ……うだ。素材が足りぬ。脆弱な体をいくら集めたとて、それではかつての四鬼の劣化でしかなかろう。この脆弱な時代であれば、かつての四鬼であったら、簡単に……!」

「大した自信だなあ。だが、嫌いではない」


 女の声は笑うと、急に黙り込んだ。

 そう思ったら、千方の膝近くに、なにかが降ってきた。


「ひ、ひい……っっ!」


 千方が後ずさると、降ってきたなにかが、床に突き刺さっていた。

 ……長い刃。今の技術では不可能なほどに複雑につくられた誂え。四振りの刀である。


「名は残ってはおらぬが、腕利きの刀匠の打った刀だ。それを核に埋め込めば、多少なりともかつての四鬼に近付けるであろう。少なくとも、歌を詠まれて消し飛ぶようなへまはなくなるはずだ」

「あ……ああ……ああ……」


 千方はそれぞれの刀を床から抜いて見る。

 人の姿を映し出せるほどに磨き抜かれた鋭利な刃。長い刀身は美しくも禍々しく、自身の鬼との調和も完璧であった。

 かつて、都を落とすために挙兵したとき。術者が歌を詠んだ、たったそれだけで四鬼は滅ぼされて、自身も負けた。

 二度目のときは、力で押し負けた。

 三度目はつい先日。完全でなかったとはいえど、自身の四鬼は、たったふたりに負けたのだ。

 でもこれならば。これだったなら。


「はは、はははははははははは……! それで女。これだけの刀をよこすのだったら、なにか対価が必要であろう? なにが欲しい!? 我も大したことはできぬがなあ!」

「ふん。貴様は着の身着のままで千年前から蘇った身。そんなものに過度の期待はしてはおらぬよ。ただ」


 上機嫌に声を上げていた女の声の、温度がふいに下がる。


「……娘を殺せ。貴様は仲間に引き入れたかったようだがなあ。あれは気に入らぬ」

「ほう……?」


 千方は袖で口元を隠す。

 あの不愉快な男もだが、仲間に誘った娘を忌み嫌う女。

 ……正体は割れたが、こんなものを敵に回すことはできない。

 曲がりなりにも呪術者の千方は、自身の保身なくして呪術は行使できないことを、よくわきまえている。


「殺すだけでいいのか」

「不愉快だ。あれはただ、使われていればいいだけだったのに、まがい物の心を手に入れて、それをさも自分のものだと慢心している……あれはいらぬ」

「ずいぶんな嫌いようだな……まあ、よい」


 千方は笑う。


「この藤原千方。四鬼をもって、小娘の首級をそちに差し上げようぞ」


 ふいに、白昼夢は途切れた。

 女の声は消え、気配は消え、ただこのだだっ広い旧華族邸に、四体の鬼と四振りの刀だけが残されていた。

 千方は刀の刃に自身の手を滑らせ、血を滴らせる。

 あの小娘も憐れな……と思ったが、千方はしょせんは呪術師であり、保身的な人間だ。

 あの女が敵に回るのと、あの小娘を敵に回すのとを選ぶとしたら、あの小娘のほうに軍配が上がるのだ。

 ……あの男が隣にいるのだとしたら、余計にだ。


****


 古くなった白身魚を崩して、大根、人参、豆腐と混ぜ、醤油と酒と一緒に捏ねる。

 温めた出汁の中に落とし、つみれ汁をつくる。大根の葉を浮き身に刻んで入れた。

 大根と人参の皮はきんぴら風にして炒めた。糠床からは茄子を取り出して刻む。

 久し振りにみずほは勝手場に立ち、考えるのは伊藤から教えてもらった話だった。

 悪玉御前と誤解されたことを。

 彼女は坂上田村麻呂の母だと聞いたが、それだけだったら説明がつくんだろうか。

 思えば、今まで魑魅魍魎から妙に自分は憐れまれていた。魑魅魍魎とは相いれぬものだから、そんなものを聞き入れる価値はないと切り捨てていたが。これだけ降り積もると気になってくるというもの。


「……どういうことなんでしょう」


 考えている間に、ご飯がふっくらと炊きあがった。みずほはそれをぐるっと混ぜ、それぞれをお膳に盛っている中。


「みずほ」


 ふいに珍しい人物から声をかけられ、みずほは大きく目を見開いた。

 普段滅多に離れまで足を運ばない、異母兄の広野こうのであった。学ランを着て、未だに帽子を取っていない。背丈はみずほよりもやや大きい。この家の人間では珍しく、ほとんど鍛錬をしておらず、今は大学で勉強している。

 たまにしか家に帰ってこないため、朔夜が家に現れたとき以来、みずほも顔を合わせてはいなかった。

 元々、一番仲がよかった人だが、みずほの体質が災いして、今は一番口を聞けない相手になってしまっていた。

 嬉しさと困惑が、同時にみずほを責め立てる。


広野こうの異母兄様にいさま……どうなさいましたか、こんなところまで」


 あわあわと前掛けで手を拭いて、たすき掛けを解こうとするものの、広野は「あーあーあーあー、そのままで!」と手を制する。


「……お前に聞いても、仕方ないって思ってるけどさあ。なんか知らない? 浄野兄のこと」

「え? 浄野異母兄様が、どうかなさいましたか?」


 普段から品行方正な上に、突然現れた朔夜と自分の仲介のために、わざわざ離れで寝泊まりをしている。

 しかし最近は警察の用事が原因で、離れどころか田村邸にまですら帰ってこられないようだった。忙しいんだろうとみずほは思っていたんだが。

 広野はきょろきょろと母屋のほうに視線をさまよわせてから、ようやくみずほのほうに顔を戻した。


「……最近、浄野兄、変なんだよ。最近、ひとりでどっか出かけるのが増えたしさ」

「え……? でも異母兄様、ちゃんと帰ってきてますよ?」


 たしかに顔を合わせる場面は減ったが、食事の時間にはいる。だから広野が困惑している理由が、みずほにはわからず、ただただ困惑する。

 みずほの言葉に「それなんだよなあ……」と広野は苦汁を舐めたような表情を浮かべる。


「大野兄となんか言い合ってるし、父さんともなんか言い合ってるし。挙句の果てに母さんや義姉さん、ちびにまでなんか言ってるし、俺までしばらく大学から帰ってくんなとか言うし……そんなん言われたから、荷物を取りに帰ってきたんだけど。なあ、お前は本当になんも聞いてねえの?」


 みずほは、言葉が出なかった。

 自分自身は、本当になにも聞いていない。でも浄野は警察から、自分の使命を下ろしているのだ。

 先日は三大妖怪の一画とまで対峙しなくてはいけなくなったし、これ以上おかしなことが起こるのだったら、避難しろと言うのも当然だろうが。

 どうして、みずほにひと言もなかったのだろう。みずほは、ただ小さく首を振った。


「……わからないです」


 ただ、みずほは目尻に涙を溜めた。

 訳がわからない。ただ、優しいはずの異母兄に裏切られたと錯覚している自分に、嫌気が差している。

 広野はうろたえたように声を上げる。


「おい、泣くなって……」

「泣いてはいません」

「だからー……」


 広野が慌てて手をこまねていていたら、みずほに手が伸ばされた。

 朔夜の腕が、黙って彼女を抱き寄せたのだ。それに広野は、目を白黒として見る。


「……こら、なにがあったか知らんが泣くな。それから貴様は」


 朔夜は、混乱してされるがままになっているみずほを抱き締めたまま、蒼い瞳で広野を睨みつけた。

 その温度のない目に、広野はビクンと肩を跳ねさせて、思わず仰け反る。


「……話は素直に受け止めよ。あれは相当に甘くて腐り落ちそうだが、己が可愛いのであればな」

「あ、ああ……俺。もうしばらくは家に帰らないから」

「広野異母兄様……!」


 みずほが朔夜の腕から出て彼の名前を呼ぶが、もう広野は母屋に帰ってしまった。

 朔夜は、ぽろぽろ涙を流しているみずほの背中を撫でていた。


「これから、背負うものが多くなったら、身動きが取れなくなる。そのことは忘れるな」

「……意味がわかりません。これから、なにが起こるのかあなたはわかるんですか?」

「俺は、お前さんが」


 朔夜はじっとみずほを見る。


「……これ以上、世界を恨まないことを願っているよ」

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