家族
気付いたときには、みずほに母はいなかった。
ただ父の生野の後ろを着いて歩き、初めて田村家に着いたことだけは覚えている。
心細くても、父に触れることは禁じられていた。
「私に触るな」
そう最初に言われてしまったら、彼の裾に縋ることもできなかった。
そこに出迎えてくれた高子は、みずほと初めて顔を合わせた瞬間、ひどく衝撃的な顔をしていたものの、すぐ温かく出迎えてくれた。
三人の異母兄について回り、ときには道場で一緒に竹刀を振るうようになった。
大野に浄野に広野。みずほにとっては全員大切な異母兄で、最初に心細く思った不安も、少しずつ薄らいでいったのだが。
幸せというものは、長くは続かないのだと、みずほはそのときに悟った。
その日は、三番目の兄の広野と一緒に道場で稽古していたのだが。
──……い
みずほは、低い女の声が聞こえることに気付き、竹刀を振るうのを止めた。
「どうした、みずほ?」
「あのう、女の人の声がするの」
「女ぁ……? 母上ではなくて?」
「ううん、違うわ。お義母様よりもっと低い声よ。どこからかしら」
みずほは竹刀を持ったまま、その声を追いかけて行った。
母屋をあちこちと巡る。厨は最新の瓦斯が入れられて、使用人たちが不思議そうな顔をしただけだった。
玄関は高子の活けた季節な花が、鮮やかに彩りを与えていた。今は人はいない。
寝間には当然ながら今は人はいない。
「みずほ、どうしたんだい? 女の声なんて、聞こえないだろう?」
「ううん、聞こえるわ。こっち……」
「こっちって……蔵じゃないか」
母屋の一番端に建っている蔵。
古めかしいそこには、分厚い扉に重い錠が下ろされている。錠を開けられるのは父の生野だけなので、これで諦めがつくのだが、みずほはおずおずと錠に触れると。
ガチャン。と音を立てて簡単に錠が外れてしまった。
「おい! これ以上は父上に怒られるから!」
「ここの……はずなんだけれど……」
──……い、来やれ……
やはりそこから、女の声が聞こえるのだ。
例えるならば、大樹の声。年輪を重ねた声。それでいて枯れることなく、今も瑞々しい、人間が出せるはずもない声。
みずほは分厚い扉を押して、ふらふらとその声のほうへと歩いて行った。
「おいっ、みずほ! 駄目だってば……!」
広野が止めるので、足を止めないといけないはずなのに、体はまるでその声に操られるみたいに、その声のほうへと歩いて行ったのだ。
辺りは
そこには、刀がひと振り、鎮座していた。
長い刀は千年ほどは時が経っていることを語り、他は日に当たらぬよう、壊れぬよう、丁重に包まれているにもかかわらず、そんなものは必要ないとでも言いたげに、存在感を露わにしていたのだ。
鞘に納められたそれに、みずほは手を伸ばすものの、そこで広野が肩を叩いて止めた。
「悪戯しちゃ駄目だって……! それ、おれたちも前に父上に抜けって言われたけど、誰も抜けなかったんだから、お前だって無理だって……!」
「でも……」
みずほはそう言って手を止めると。
刀のほうが、カタカタと鳴りはじめた。
──来やれ、そ……を……
みずほからは、はっきりとその刀から声が聞こえた。やがて、刀は勝手に落ちてきて、みずほの手元に納まった。はっきり言って、また竹刀より重いものを振るったことがない彼女からしてみれば重かったが、それよりもその刀が彼女の手に馴染むことのほうが気になった。
みずほは、黙ってその刀を引き抜いた。
今まで、大野も浄野も広野も抜くことができなかったそれは、いとも簡単に引き抜け、その刃を覗かせたのだ。
引き抜いたのと同時だった。
急にガタガタガタガタと棚が揺れはじめた。
「刀、抜けたな……でもまずい。急に地震が……! みずほ、逃げるぞ!」
「う、うん……!」
みずほは広野に手を引かれ、抜身の刀を持ってそのまま走り出した。
地震にしては様子がおかしい。並んでいる棚がガタガタ言い、中にいる広野とみずほはたしかに揺れを感じているというのに、外からはなんの騒ぎも聞こえない。
まるで蔵が、棚が、そして刀自身が、ふたりを怖がらせようとしているようだった。
やがて、出口が見えてきたとき。
棚からひと際大きな桐箱が降ってきたのだ。
「あ……!」
「みずほ、危ない……!」
広野に突き飛ばされ、みずほは刀を持ったまま、蔵の端へと落とされる。やがて、桐箱は広野の頭に落ちてきて、彼の額を割った。
それと同時に棚が倒れ、気絶した広野と一緒に、みずほは棚の下敷きになってしまったのだ。
****
三男と末妹が棚の下敷きになっていると知り、当然ながら田村家は騒然とした。
広野は桐箱のせいで頭を縫う大手術で生死の境をさまよった上に、棚に圧し潰されたせいで、あちこちを骨折してしまった。退院するまでに半年ほどかかったのだが。
みずほは骨折だけで済んでしまった。周りはそれは奇跡だと騒ぎ立てたが、田村家は黙っていた。
彼女は棚に圧し潰されて体は圧迫し、救出されたときには血塗れだったにも関わらず、医者に見せたら骨折以外の怪我が見つからなかったのだ。
そして彼女が救出された際に、抜かれた刀。今まで、家族がなにをしても抜けなかった鞘が、いとも簡単に抜けてしまったのだ。
「あの子は、なんなんですか」
高子はそこで、初めて義娘に対して得体の知れない気味悪さを覚えた。
怖いというよりも、おそろしいというよりも。
気味が悪い。
実の息子が未だに目が覚めない中、骨折以外は元気なみずほはぽろぽろと涙を流して「
なによりも、生野はなにもかもを悟った顔をするだけで、どちらの子供のことに対しても、治療費を出す以外はみずほの容体についての口止め料を払う以外なにも言わなかったのだ。
そこから、高子はみずほに対しての接し方をすっかりと忘れてしまった。
刀を抜いたみずほは、生野自らが稽古を付けるようになった。
かつては三兄弟に混じって楽しそうに鍛錬をしていたみずほからは笑顔が消え、生野からとてもじゃないが子供に着けるものとは思えない内容の鍛錬を課されるようになったのだ。
「あ……!」
「握り方が甘い。それでは魑魅魍魎にすぐ首を落とされる」
生野の鋭い木刀の打ち込みが、今日もみずほのまだ幼い手首に入り、たちまち彼女の手首は腫れ上がる。きちんと捌くことができなければ、頭も、顔も、容赦なく打ち込まれてしまう。
体中痣だらけになり、見るからに痛々しいそれも、次の日になったら消えてしまい、学校から帰って鍛錬がはじまれば、再び新しい痣をつくる。
広野は退院してから、みずほになにか言いたげだったものの、とうとう彼女と顔を合わせられなくなってしまった。大野は困り果てて、見て見ぬふりをするようになった。
その日もふらふらとみずほは寝間へと向かおうとするとき、浄野が「みずほ」と声をかける。
あの蔵の一件以降、みずほとまともにしゃべれなくなってしまった兄弟の中で、唯一浄野だけは、みずほへの態度を変えることなく接していたのだ。
「これじゃあ体が痛くて、眠れないだろう? 冷やしておきなさい」
「でも……私は……すぐ怪我が治るから……これくらいだったら、明日には治ってしまうし」
「みずほ」
みずほが悲しそうに俯く中、浄野は彼女の頭を撫でる。
「それでも手当てさせておくれ。お前が治る治らないじゃなくって、お前が痛い痛くないで、決めないと駄目だよ? お前がお前のことを大事にできないなら、せめて僕にお前を大事にさせておくれ」
たとえ治る怪我であっても、浄野だけは高等学校に進学し、巡査任用試験の準備がはじまるまで、毎日毎日手当てをしていたのだ。
やがて。彼女は初等学校を卒業するのと同時に、生野に離れで暮らすように言われた。
高子はどうしたらいいのかわからなかった。
普通に考えれば、年頃の娘がこれから一生得体の知れないなにかとの戦いを迫られるのだ。普段のみずほは本当に大人しい娘で、これが魑魅魍魎と戦えと迫っても死ぬのではないかと思うが。
彼女の怪我がすぐに治ってしまうのを見てからは、少なくとも死なないのではないかという気持ちが浮上し、それを指摘していいのかという罪悪感に苛まれる。
しばらくの間は、瓦斯すら通っていない離れまで使用人たちが通い、みずほの食事の準備と風呂の用意をしてくれていたが、その内使用人たちは、薪と食料の用意だけを離れに置いていくようになった。
こうして、田村家の人間とみずほの間に、深い溝が刻まれてしまったのである。
みずほが引き抜いた、
田村家の祖先に当たる、鈴鹿御前が残した刀剣らしく、これでなければ魑魅魍魎とまともに対峙ができないらしいが。
代々退魔師として魑魅魍魎と戦う田村家からしてみれば、これは一族の守り刀かもしれないが。
外から嫁いだ高子からしてみれば、これは妖刀に思えてならなかった。
家族に楔を打ち、溝をつくり、気持ちを離してばらばらにしてしまった、おそろしい刀。
高子からしてみれば、みずほ本人よりも、あの刀がおそろしくておそろしくて、彼女に近寄ることができなかった。
****
「おばあ様!」
使用人たちがずっと敷地中を探し回っている中、広間で縫物をしていた高子の元に、大馬が元気に声をかけてきた。
高子は苦笑して、小さな大馬に顔を合わせる。
「皆が心配しているでしょう? ちゃんと謝るんですよ。これからお勉強なんだから」
「ごめんなさい……でもおばあ様。みずほちゃん、この間大けがして帰ってきたけど、もう元気そうだったよぉ。寝てたけど、ちゃんとしゃべれたし、ご飯もおいしく食べてたみたい」
「……そう、ですか」
本来、高子は当主夫人の権限を使って、もっと声高らかに宣伝すれば、訳のわからない鬼の監視のために、浄野が離れを出入りするのはともかく、孫にも嫁にも、もっと離れに近付かぬようことは言い含められたが、彼女はそれをしなかった。
相変わらず、高子は得体の知れないあの刀がおそろしくて仕方がない。その刀をずっと持っているみずほのことも、正直言ってまともに会話できないほどには怖い。だが。
高子は大馬の頭を撫でると、キャラメルを与える。それを大馬は口の中に放り込んで、目を細めて笑った。
「おいしい……!」
「これを食べて、お勉強頑張ってらっしゃい」
「うん……!」
大馬が家庭教師を呼んだ応接室に向かうのを見届けながら、高子はほっと息を吐いた。
そこへひょっこりと金髪の髪の人物が顔を覗かせたことに、高子は顔を引きつらせた。
「なっ……なんですか、あなたは……! あなたは離れにいるとおっしゃっていたでしょう!?」
浄野が監視を続けている、あの得体の知れない鬼であった。相変わらず異人のように整った顔をしているものの、彼が表情を消せば肝が縮み上がることくらい、初対面のときに思い知っている。
高子が悲鳴を上げても、彼は気にすることなく手を振る。
「いやいや、ご夫人。礼を言おうかと思ってな。妻に見舞い客を寄こしてくれたことと、朝餉をな」
「……なんのことですか」
「前から不思議に思っていたのだよ。あの離れに住んでいるのに、我が妻はどうにも洋食贔屓でなあ。つくれないものなんてどうやって食べられるのだろうと考えてみたが、誰かに食べさせてもらっていたのなら、話は別じゃないかと思ってなあ。妻に洋食を与えていたのは、お前さんじゃないかい?」
「……っ」
まだあどけないみずほが、洋食屋を営む級友の家を羨ましく眺めていたことがある。田村家の男子は全員和食贔屓だから、なかなか食べられない。だからこそ、高子が実家の料理人に頭を下げてつくり方を教えてもらい、嫁の春子にも手伝ってもらい、伏せっているみずほの好物をつくったのだ。
貧血で倒れているなら、栄養価の高いスープのほうがいいだろうと、一生懸命つくった。それは綺麗に平らげられたのだ。
「……なんの話ですか」
高子はぷいっとそっぽを向くが、朔夜は目を細めて笑うだけだ。
「いや、我が妻に味方がいた。口に出せずともな。そしてお前さんが妻の刀に脅えるのは、いい判断だと思ってな……そう、お前さんが女である限り、あの刀には近付かないほうがいい」
それだけ言い残して、朔夜はさっさと出て行った。
高子は呆然として、金色の髪に光輪がかかるのを眺めていた。
みずほがあの刀を抜いてから、なにもかもが狂ったかのように思っていた。それに彼女が苦しめられていることも、家族が苦しんでいることも、見抜かれたように思った。
いったい、みずほに連れ添うあの鬼は、いったい何者なのだろうか。
魑魅魍魎の知識に疎い高子には、ちっとも検討が付かなかった。
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