予兆

 夜、離れにびょうびょうと風が吹き込んでいた。それが梁を揺らすのを耳にしながら、みずほは布団の中で目を閉じていた。

 布団の中で手を結んで開いて、感覚をたしかめる。

 一日よく食べよく眠ったおかげで、貧血で覚束なくなっていた足元の感覚も取り戻した。あとは一日鍛錬をすれば、鈍った体の調子も整い、明後日には魑魅魍魎討伐に戻れるだろう。

 二日。二日も無駄にしてしまう。

 そのことに不甲斐なさを覚え、みずほは唇を噛み締める。

 自分がもっと強かったら、こんなことにはならなかったのにと、そう思う。

 もっとも、そんな弱音を吐けば、朔夜も浄野も「お前のせいじゃない」と慰められるだろうから、そう漏らすことすらできず、心の中で留めるしかあるまい。

 なにもできないとき、みずほはただ闇雲に己を責める。今までの鍛錬はなんのためにあったのかとか。使命を全うできてないとか。

 彼女の心の支柱となっているのは、退魔師としての使命感なのだから、余計にだ。


「みずほ、もう具合は大丈夫かい?」


 浄野が気遣わし気に寝間に入ってきた。ひょいと敷居をすり抜けて彼女の元に寄ると、みずほは目を開け、慌てて起きようとするので、浄野は「そのままでいいから」と布団に押し留める。


「今日は一日寝ていて申し訳ありません……明日になったら動けると思います」

「うん、お前が元気になってくれたらそれでいいんだよ。幸いにも、今は警察のほうに魑魅魍魎と関わる事件が入ってきてないんだからね。今日明日はゆっくり休みなさい」

「そうだと、いいんですが……」


 まだ鬼を倒して一日やそこらで、連続女学生殺人事件が治まったと確認はできていない。

 そもそも鬼は倒せたが、鬼をつくった術者を倒していないのだから、まだなにも解決はしていないのだ。

 役に立たなければ、居場所がない。今、田村家にいられるのは、自分が唯一の田村家直系の女子だからに他ならない。もし女児が生まれたらお役目御免の身を、皆が置いてくれているだけなのに。

 みずほは少しだけ沈み込むものの、浄野はみずほの額を撫でる。


「……お前だけが悩むことではないよ。大丈夫、万全に体を整えて、また戦っておくれ。今はゆっくりとお休み」

「……ありがとうございます。おやすみなさいませ、異母兄様にいさま


 とろりと眠気が襲ってくる。このところ、みずほは寝るときはすこんと寝付いてしまって、まどろみを覚える暇なんてなかった。こんなにまどろみの中で眠りについたことなんて、何年振りなのだろう。

 そうぼんやりと思ったら、そのまま意識は飛んだのだ。

 浄野は苦笑しながら、みずほの布団を引き上げてあげ、自身も布団の準備をしていると、またも朔夜の姿が見えないことに気付いた。

 まさか、と思って中庭に出ると、案の定朔夜はそこに立っていた。

 衣冠に直刀は持たず、そのまま祠に向かって、身構えていた。

 祠には花と供物が供えられている。


「お、お辞めください、朔夜様……!」


 朔夜は浄野の声を聞かず、そのまま祠に大きく殴打を入れる。祠は、ぐわんぐわんと音を立て、傍に生える桜の梢が大きく揺れる。

 梢が激しい音を立てる中でも、祠は大きな音を立てても、以前と同じく祠は無傷なままだった。ただ、朔夜の手は以前のように血が流れることはなかった。


「……まだ封印は解かれてない、か」


 朔夜はひとりごちると、ようやく浄野のほうに視線を移した。


「なんだ、まだ貴様がいたか」

「いましたが……朔夜様。本当にお願いですから、やめてくださいませ」

「……昼間に、甥御と義母に出会った。少なくとも、あのふたりは鬼に浸食されてはおらぬようだったが。長男の嫁にはまだ出会ってはおらぬ」


 そのことに、浄野はびくりと背中を跳ねさせた。みずほがいないときの朔夜は、抜身の刃と同じくぎらついた光を隠しもしないが、少なくともこのふたりは助けられる希望を見出したのだ。


「……義姉さんに、会ってくれたら、それなら……」

「しかし貴様はどういう了見だ?」


 朔夜は蒼褪めた瞳で、じっと浄野を見る。浄野の背筋はすっと冷えていくが、それでも彼は握り拳をつくって彼の怜悧な視線に耐えた。

 朔夜は続ける。


「言質を取らせようとするのは、あれと同じだな。首を取ったのと同じように言質を取ったと声高らかに言われるのも気に食わぬ。答えは言わぬよ……俺は妻の元へと帰る……ああ、あれに伝えておけ」


 朔夜は浄野に背を向けると、ぽつんと言い残す。


「俺は今も、貴様を許しておらぬと」


 言いたいことだけを言って、朔夜は離れのみずほの元へと戻っていった。背筋を通っていく冷気に身を震わせながら、浄野は自身を抱き締めた。


「……言える訳がないでしょう。僕が殺されます」


 朔夜に殺されるだけのことを、先祖はした。それで一族が滅ぼされるのは仕方がないが、嫁いできただけの高子や春子、一族の因子を受け継いではいない大馬のことだけは、どうにかして逃がしたかった。

 だが、朔夜はみずほにだけは存外に甘く、みずほが慕っている者に対しては敵意を向けていない。それがよりいっそう浄野を悩ませた。


 みずほも浄野も、先祖からだけは、逃げることができないのだから。


****


 朔夜が離れの寝間に向かうと、みずほは薄く息をして眠っていた。

 長い睫毛、まとめぬまま下ろした髪、枕に乗る華奢な首。夜の彼女を知らぬものは誰も知らないその美しさに、朔夜は普段だったら超えない敷居を超え、彼女の隣に横たわった。

 彼女の長い髪に指を絡め、その滑り心地のいい艶やかな髪に、朔夜は目を細める。


「お前さんはいつもいつも、自分を大事にせぬからな」


 みずほが自分を大事にできないならば、代わりに朔夜が大事にするとは、何度も何度も言っているというのに。

 彼女は自分自身を嫌い抜いているが、それでも未練がましく自分を好きになろうともがいているのだ。

 彼女は今代を好ましいと思い、今代に好きなものを増やしているものの、それらに好かれるとちっとも思っていない。

 家族を愛していても、家族に愛されていると思っていないし、友達を大事にしていても、友達に大事にされるとちっとも考えていない。

 いじましい、と朔夜は思う。


「俺は、お前さんを愛している。今はそれ以外言えんからなあ……しばらくしたら、もう一度伝えさせておくれ……今代中に、伝えられるといいんだが」


 四鬼と戦い、少しだけ力が戻ったのを確認できた。本当ならば敵の敵は味方と、藤原千方を仲間に呼び込めたらよかったのだが、残念ながら彼はそう簡単には乗ってはくれないようだった。

 あれが完全に復活する前に倒せたらいいが。

 祠はぴくりとも動かなかった。あれの中身は未だ祠の中に治められているのか、別の場所に移されているのかは、定かではないが。

 いずれにしろ、あれのことを朔夜は憎み抜いている。

 田村家の面々がそこまで悪い人間でないとは、朔夜も頭ではわかっている。だがあれを野放しにしている以上は、朔夜はこの家の人間を許すことは、できそうもない。


「……俺は残念ながら、お前さんほど優しくはなれんよ」


 未だ眠りの中のみずほにこれ以上のことをすることはできず、ただ彼女の長い髪に唇を落とすだけに留めた。

 朔夜は彼女にだけは、どうしようもなく甘い。


 その甘さが、ふたりを引き離したのだとしても、その感情だけはどうしても捨て去ることができなかった。


****


 田村家の最奥に存在している蔵は、錠がかけられてずしりと重い扉に閉ざされている。

 元々歴史の古い家系なのだから、そこには歴史学者が涎を垂らすような古文書や器機が存在しているのだが、価格的な価値はほとんど存在してない。

 ここの錠は当主である生野と次期当主以外は、開けることが困難な中。そこへと入るものがいた。


「……このように、魑魅魍魎の封印が解かれつつあり、とうとう千年前に封印された呪術師までも封印から起きつつあります。この分だと、完全に封印が解かれるのも時間の問題かと思います」


 蔵には檜の匂いが漂い、灯りとして蝋燭だけが揺らめいている。声をかけた先には、今はかけるもののなくなった刀掛けが存在していた。


──おおかた、封印解除に乗じて起きようとするものがいるのであろう。ご苦労なことだな


 皮肉めいた低い声には、嘲笑の色が混ざっていた。

 自分が絶対的に上だという自信、起き上がりつつある魑魅魍魎たちを絶対的に下だと貶める悪意。

 その声を聞いた並の物は、この悪意ある声を聞いたならば、おそろしさのあまり、すぐに眠ってこれは夢だと自身の聞いたものを聞かなかったことにしてしまいそうだが。ここ田村家の人間であったら、その声に逆らうことは、死を意味する。どれだけおそろしくとも、下品であろうとも、声を聞かなかったことにするという選択肢は与えられていない。


「どうなさいますか?」

──貴様らはなんのための退魔の家系だ。全て屠る他なかろう。魑魅魍魎の特定は任せる。好きに努めるといい


 言外に、勝手にしろという返事を聞かされる。

 退魔の家系ではあるものの、魑魅魍魎の探索特定は人の数と時間が物言うもの。年々退魔師が減っている状態だからこそ、未然に防ぐことができなくなっているというのに。


──あと、あの不愉快なものは、用が済んだら消せ。いつものようにな


 それに返事をすることができなかった。

 返事をすれば、それは了解の意となり、その意に逆らうことができなくなる。さりとて、ここで異を唱えれば反意と判断され、四の五の言う間もなく殺される。

 無言の返答に、声はくつりと笑い声を上げる。


──おそろしいか、あれが。たしかに、あれは敵と認めたものを許さぬからな。まあ、どちらでもいい。──の復活の前に、仇名すもの全てを屠るがよい

「……承知しました」


 かろうじてそれには了解の意を唱えた。そのまま刀掛けからは声は消え、蝋燭の灯りもふつりと途切れる。

 闇に白煙が立ち昇る中、彼は目を伏せて、長い息を吐いた。

 田村家は、繁栄と引き換えに呪われている。

 先祖代々の呪いを解くには、あれを復活させた上で倒す他ないが。あれを復活させた場合、この町は無事で済むのかどうかは未知数だ。

 千年前の魑魅魍魎の力は凄まじく、対して大正の世は脆弱だ。既に魑魅魍魎を祓う力を持つものどころか、見る目を持つ者だって廃れてしまっている。

 このところ連続して大きな魑魅魍魎が目覚め、そのたびにみずほを派遣して討伐させているが、だんだんと無傷で終わるものが減ってきていた。その上で、四鬼の一画と戦い、重傷を負ったのだ。これから目覚めるであろう魑魅魍魎は、それを増す強さであろう。

 しかしそれでも、時を重ね、代を重ね、少しずつあれを倒す術を蓄えたのだ。

 そのためにみずほがいて、朔夜がいる。しかし、このふたりの力すら、まだ完全ではないのだ。

 だがふたりの力が満ちたときと、あれが復活したときが、必ずしも一致するとは限らない。

 朔夜が田村家の面々に対して冷淡なのは、あまりにも他力本願が過ぎて、自分たちだけであれを討つ術を持たないからであろう。

 当主であれば、他人の人生を犠牲にしてでも家の繁栄を願うべきだが、既に時代が変わっているのだ。今は家の繁栄だけを願って生きられる時代でもあるまい。

 彼は蔵を出ると、錠を下ろした。


 平穏がいつまで続くのかはわからない。

 ただ今は、今だけは。傷つき疲れ果てたみずほの眠りがいいものであるようにと、そう祈らずにはいられない。

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