輪廻

 鈴鹿。鈴鹿御前。

 田村家の先祖にして天女だと、そうみずほは聞いていた。だが、朔夜の言葉はどういう意味だ。

 みずほは膝が折れたまま、朔夜を見た。

 金色の髪に蒼い瞳。頭に黒い烏帽子。斬られたせいで剥き出しになった腕は火傷でただれ、血で染まった衣冠の残った袖が揺れている。

 鈴鹿御前に「ぬし様」と言われる相手なんて、ひとりしかいない。

 外見だけでなく、彼の鬼をもろともしない桁並外れた力といい、一から十を学ぶようなおそろしいまでの頭の回転の速さといい、にわかには信じられなかった。


「朔夜さん……あなた、まさか……」


 いったい、田村家はなにをやったのだろう。

 どうして、開祖のはずの坂上田村麻呂を封印していたのだろう。

 あの三つ並んだ祠は、坂上田村麻呂のものと、鈴鹿御前のものと、あとひとつだと聞いてきた。

 みずほは、ありとあらゆることに嘘をつかれてきていた。

 その順番にさえ嘘をつかれていたのだとしたら、説明がついてしまう。

 朔夜は振り返った……もう、彼をそう呼んでいいのかさえ、定かではなかったが。


「……お前さんが思い出すには、まだまだ早いと思っていたんだがなあ」


 朔夜はぽつんと言う。その口調に寂しさを混ぜて。

 一方、朔夜の吐き捨てた暴言により、浄野の体を奪った鈴鹿は、わなわなと肩を震わせていた。


「……ぬし様。それを言うかや? わらわに対して、そのようなことを?」

「ああ、貴様が妻にした仕打ち。俺たちの子にした仕打ち。千年経ってもなお、昨日のことのように覚えておるわ」

「ああ、ああ、ああ、ああ……! 忌々しい! 忌々しい忌々しい忌々しい忌々しい!!」


 バリバリと浄野の頬を引っ掻く、爪を鋭く突きつけたせいで、彼の朗らかな顔付きには、鋭い赤い線が出来上がってしまった。決して浄野が浮かべることのない、憤怒の表情でみずほを睨む。


「おのれ……貴様がわらわのつまをたぶらかしたのであろう!?」


 ギュン、とみずほは責め立てられ、みずほは怯む。

 そもそも、ふたりが話していることが、みずほには未だに全て理解ができている訳ではない。

 自分が人間でないということに衝撃を覚えていたというのに、田村家の開祖のはずのふたりが、実は互いを伴侶と認めていなかったとか、今まで鬼だと信じて疑っていなかったものが実は人間だったとか、情報量があまりにも多過ぎて、頭の悪いみずほではそれらの事象を整理することができないでいる。

 みずほは困惑と混乱で口を噤んでいる中、朔夜がそっとみずほの隣に寄り添い、未だに立ち上がれない彼女の肩を撫でた。


「……衝撃を受けただろう。お前さんのことや、俺たちのこと。千年もかけての因縁だからな」

「……あの……あなたが坂上田村麻呂だとして……私を妻と呼ぶのはどうしてなんですか? それに……私は自分の幼少期のことを覚えています。そのときは既に明治で……元号が変わったことだって覚えているのに、千年前の話をされても……わかりません。正直、困惑しています」

「ああ、そうだろうさ。お前さんにかけられた呪いは、そういう風にしてできているからな。だが、お前さん。何度も何度も魑魅魍魎たちに勧誘されていただろう? こっちに来い、こっちに来いと」


 その指摘に、みずほは押し黙る。

 魑魅魍魎たちは、何故かみずほに憐憫を向けてきていた。それは彼女が明らかに時代錯誤な、退魔師としてしか生きられないからだと判断していたが、それが、人間に囚われたなにかだからだとしたら、話が違ってくる。

 そういえば、朔夜も言っていた。「人間を嫌いになるな」と。

 皆から騙されていたことに、衝撃を受けていない訳ではないが、朔夜の言葉はもっと深刻のように思える。

 どういう意味だ。みずほが考えるよりも先に、鈴鹿が動いた。


「……ぬし様。心得た。わらわをまたも試そうとしているのだな。わらわはいつでも受けようぞ。千年かかった。魑魅魍魎をばら撒いて、にっくきあの女の呪縛を解くのに、それだけは。ぬし様を助けるまでに、千年かかった。次はそうは行かぬ。待ってくりゃれ、ぬし様。わらわが必ずや、あの女を滅しようぞ」


 鈴鹿の言っている意味が、みずほにはわからない。

 ただ、何故か彼女の胸にさざ波が立った。


──忌々しい女。憎い女。まだ懲りぬか


 大嶽丸に感化された照彦に襲われたときから聞こえている、あの胸の声が何度も歯噛みするのが聞こえる。

 みずほは取りこぼした獅子王を拾うと、それをそろりと握った。

 朔夜もまた、自身の直刀を握る。


「……来るぞ。鈴鹿の宝蔵は、少しばかりお前さんには厄介かもしれんがなあ」

「宝蔵って……あの方、持っている刀は」


 坂上田村麻呂と鈴鹿御前は、各地で鬼を成敗したという逸話を多く残している。それゆえに、鬼狩りの逸話を持つ刀も、現在彼女が浄野の体を借りて持っている童子切以外にも、何振りも取り揃えている。

 ……みずほが童子切で傷を負ったということは、彼女が鬼だからということに他ならず、鈴鹿の宝蔵が開帳された場合、みずほが無事で済むとは限らないのだ。

 朔夜は鈴鹿を睨む。


「……貴様を屠る日を、ずっと待っていたのだからな」


 朔夜はみずほの頭を撫でてから、直刀を構え直した。

 みずほは、彼のざらりとした手の感触を、ふと思い出した。

 ……前にも、こんな光景を見たことがある。あれはいったい、いつだ。

 怒り狂った鈴鹿は、空高くに童子切を掲げた──途端に、空に光が満ちる。光の向こうからは、何振りもの刀、何振りもの矛、槍、剣。それらがみずほめがけて降り注いできたのだ。


『俺はお前さんを、決してひとりにはしない』


 絡新婦と戦ったときに頭を掠めた記憶が、みずほの中を駆け巡っていった。

 流星のように降り注ぐ武器を、朔夜は自身の直刀を使って捌いていく。この光景を見たことがある──覚えている。

 途端に、みずほは空を仰いだ。


「ひ、やぁぁあっぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁ…………!!」


 みずほとしての人格に、次から次へと覚えのない人生が繰り返されていく。

 どの娘も刀を握っていた。

 どの娘も魑魅魍魎と戦っていた。

 どの娘も、どの娘も……自分の正体に気付いたとき、鬼狩りの刀に首を落とされて死んでいた。

 憐憫、枯渇、友愛、初恋、情愛、絶望、憤怒、虚無──……。

 ……彼女は、つい先程までは自身を人間だと信じて疑っていなかったのだ。そんな彼女が、千年分の記憶を、数多の人生を走馬灯のように駆け巡っていっては。

 ──田村みずほとしての生が、潰えてしまう。


****


「みずほ……!」


 朔夜は目を見開いて、見えないはずのものが流れ込み、悲鳴を上げる彼女を抱き寄せ、流星のような武器の雨の中、遮蔽へと彼女を連れると、彼女の唇を大きく吸った。

 田村みずほの唇を吸ったのは、朔夜も初めてであった。舌で唇を割り、息を吹き込む。大きく吸い付いたあとで、刀を持って怒り狂う鈴鹿の体に声をかけた。


「貴様、いったいいつまで眠っているつもりか? 仮にも俺の子孫であろうが」


 鈴鹿に体を奪われた浄野に対して、声をかける。


「我が妻を守るのではなかったのか? それとも、腰抜けにもこの女が出てきて、おそれをなしたか? 貴様の父はそうであったな。あれは一族の繁栄以外はどうでもいい男であったが」

「ぬし様……! まだその女に囚われて……!」

「何度も言わせるな。俺の妻は悪玉あくだまただひとり。そして悪玉を捕らえ、千年もの間使役し続けた、俺の子孫を許すまいよ……だが」


 朔夜は今代を、みずほと名付けられた妻と一緒に、見て回った。

 愚かな者もいる。浅はかな者もいる。しかし健やかなる者、優しき者、美しき者もいる。

 千年ほど前は、力なき者は全て死ぬ時代であったが、今代はどうにも弱き者にも生きる資格が与えられるらしい。その人々を愛し、守りたいと願った妻の望みを、どうして切り捨てることができようか。

 田村家に嫁ぎ、みずほをおそれながらも愛した高子、みずほを好きと公言する大馬。そしてみずほと親交を深める松葉に、伊藤、照彦。

 朔夜が好ましいと思う人間もまた、今代には存在したのだ。

 ……それらを守りたいと自分に直談判してきたのは、どこの誰だという話だ。


「自分の言葉には責任を持て。その千年生きて凝り固まった欲の塊に、体を奪われてなんとするか──……!」

「……あ、なたが、それを……言……ますか……ご先祖様」


 粘りを帯びた低い女の声ではなく、たおやかな見た目通りの青年の声が、彼の体から出た。鈴鹿は声を張り上げる。


「貴様! どうして出てきた!?」

「……俺にとっては、どちらもご先祖様なんです。ですけど……俺は、みずほが……」

「貴様まで! おのれおのれおのれ……あの女は……!」


 彼女が入り乱れた途端に、朔夜は鈴鹿が大量にばら撒いた刀の元へと走る。

 鈴鹿は現在、本来の肉体ではなく、夢渡で動き回っている幽鬼のようなもの。そして本体は彼女の肉体のほうへ、封印が解けるのを待っている頃であろう……今、浄野の体を奪っているのは、いつかの照彦のときと同じ。魂による刷り込みに等しい。

 彼女の刀の中から、ひと振り刀を抜き出すと、それで浄野の体に突き刺した。否、浄野自身は斬られてはいない。

 浄野に入っていた、魂のひとかけらが斬られたのだ。


「ぬ……ぬし……様……っ!」

「その呼び名は止めよ。俺の妻は、悪玉ただひとりだ」

「お、のれ……」


 そのまま鈴鹿は霧散したものの、彼女の残滓が消えただけで、本体が消失した訳ではあるまい。この町に残っている面々をどうにかして避難させなければ、巻き添えを食らうことだろう。

 浄野は、困惑したまま自身の腕を眺めていた。


「……ご先祖様。どうして僕は死んでないんですか? あなたは、大層僕たちのことを嫌っていたはずですが」

「これは髭切ひげぎり。俺が神社に奉納したものの影打ちを、あの女がしまい込んでいたのだろうよ。俺は今でも貴様らのことは嫌っているよ。貴様らが我が妻にしたことは、断固として許しておらぬ。だが」


 朔夜はかろうじて目を閉じさせ、気絶しているみずほの元に戻ると、彼女を抱き抱えた。

 大切な大切な妻であり、千年経ってようやく彼女を迎えに来られた。祠の中で、彼女が苦しんでいるのを眺めるばかりで、なにもできなくて歯がゆく思っていたが、今は違う。苦しむ彼女を抱き締めることも、口を吸うことも、今の名で呼ぶこともできる。


「我が妻は、今代が好きなんだ。愛している。……もう少し間を空けながら少しずつ思い出させるつもりだったんだが、どうにも妻は千年分の記憶を無理矢理思い出してしまったらしい。人間の脳は、本来は人ひとり分の記憶しか入らないところで、数多の記憶を流し込まれたら……田村みずほの人格は、消失するかもしれぬ」

「そんな……」


 浄野は目尻に涙を浮かべた。

 朔夜はそれを黙って眺めていた。

 浄野がみずほに向ける目が、家族のものではないということはよくわかっていた。いい兄として動き、町のために動く警官として働いているものの、その実、田村家の次期当主として冷酷なことをしていた──それこそ、生野のように一族の人間以外には無慈悲になれれば、みずほに対して情が湧くこともなかっただろうに、彼は生野よりも人間的過ぎた。

 当主は、代々悪玉を娘として迎え入れ、退魔師として酷使し、彼女が鬼としての力と記憶が戻る前に切り捨てるという役割を負ってきていた。

 妹として見れない彼女を、当主の使命として殺さなければならなかった。

 同情なのか恋なのかわからない情に押し潰されかけた結果、鈴鹿にそそのかされて体を貸し与えてしまったことは、容易に想像できる。あの女のしそうなことなのだから。

 朔夜は、腕の中のみずほの頭を撫でる。


 朔夜──坂上田村麻呂の妻、悪玉は、人間が嫌いであった。

 彼女は人間により住む場所を追われ、人間により貶められ、鬼へと変わった天女なのだから。

 そして千年もの間、人間に裏切られて、記憶も名前も立場も奪われた上で、使役され続けていた。そこになんの疑問が湧くこともなく、湧く余地すら与えられず。

 ……記憶を取り戻すたびに、田村家の当主に首を落とされて、無理矢理封印されて。

 全てを思い出した悪玉が、それでも田村みずほのように、家族に焦がれ、人間を愛し、市中の人々の平和を守りたいと願う、心優しい少女のままであるかは、朔夜にもわからなかった。

 全てのはじまりは、千年前。

 坂上田村麻呂と悪玉……後の伝説の武士もののふと鬼女の出会いからである。

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