怨讐・三
空は茜色。もうしばらくすれば菫色に変わり、金色の雲を残して夜闇が迫ってくる頃合いだろう。
列車の窓からは、風景が勢いよく走って流れていく。自転車より速い乗り物に乗ったことがほとんどない松葉からしてみれば、この景色は面白くて、思わず窓を開けようとしたが、「止めたほうがいいですよ」と苦笑しながら伊藤に止められた。
「列車の窓を開けたら、煙の煤で顔が真っ黒になってしまいますよ」
「そ、そうだったんですか……ごめんなさい。私、どうにも列車のことはよくわからなくて」
「いえいえ。鉄道が敷かれるようになったとはいえど、用もなかったら乗りませんし、地元で全部用が済んでしまう場合は、必要ありませんから。
「ええ、ええ……私ったら本当に知識が疎くって……」
「いつも仕事をなさっていますからね。本当にご苦労様です」
伊藤に労りの言葉をもらい、それに松葉は「たはは……」と笑う。快活なのが取り柄の松葉だが、初等学校までしか出ていない彼女は、いまいち知識欲というものにはとんと疎かった。
これからふたりで京都まで向かうが、伊藤の目的の宇治の宝蔵とはなんなのかすら知らなかった。
「そういえば伊藤様。そもそも今回調査に向かう宇治の宝蔵ってなんですか? 宇治にある蔵だってことまでは想像が付くんですが……」
「ああ、宇治の宝蔵というのは、平安時代に
「きょうぞう……?」
「経蔵というのは、宗教の経典を守る蔵として知られていますね。それこそ、御伽草子で語られている三代妖怪の首などを封印しているとされています」
「妖怪の首ですか……でもそんなものを封印していてどうするんでしょう? 妖怪が出てきたら怖いじゃないですか」
松葉はぶるりと身を震わせる。今代でもそこそこ怪談は存在しているし、純喫茶の客が怖い話を吹き込んでくることはある。夜になったら暗くて怖いというのは、どの時代だって同じだろう。
松葉の反応に、伊藤はにこやかに答える。
「ええ、ですから藤氏長者は代々、三代妖怪よりも霊験あらたかな存在だったと言われているんですね。宇治の宝蔵を建てたとされている藤原頼通も、死後に龍神となって宇治川に棲み、辺りを見回っていると伝わっていますから」
「でもそんな龍神様が見守っているような宝蔵、ずっと霊験あらたかな人たちが守っていたんでしょう? そんなの一般人が見に行ってもよろしいんでしょうか?」
松葉は物を知らないだけで、頭が悪い訳ではない。質問も鋭い。彼女としゃべっていると、本当に面白いと嬉しそうに伊藤は笑いながら、「そうですね」と頷いた。
「もちろん、宇治の宝蔵の伝承自体はお伽噺でしょうが、藤氏長者の宝蔵自体はそこまで嘘とは思えません。藤原氏は代々朝廷に力を見せつけてきた一族ですからね。新たな歴史的発見があるやもしれません。朔夜さんは本当に日本人よりも日本のことに詳しいですから、驚きですよ」
「ふうん、そういうものなんですねえ……そういえば、ときどき伊藤様がみずほと話してらっしゃる鬼の話って、あれはいったいなんですか?」
ときどき親友が顔色悪く、伊藤に講義を受けているのを、接客しながらときどき耳にしているが、いったいみずほはなにをそこまで顔色悪くしているのかわからなかった。松葉に言いにくいことだったら聞かないが、なんでもかんでも抱え込む子が、人に相談することというのがいまいちピンと来なかったのだ。
それに伊藤は「おそらくですが」と言う。
「みずほさんは、ご実家のことについてなんらかおそろしく思っているのかもしれませんね。彼女の姓から言って、坂上田村麻呂の子孫でしょうから」
「ええ? みずほの姓は、田村では。その人が誰か存じませんが、坂上が名字でしょう?」
「いえいえ。坂上田村麻呂の子孫は多数存在して、田村氏も子孫なんですよ。それに坂上田村麻呂と言ったら京から蝦夷までの遠征の間に、多数の伝説を残してらっしゃいますからね。子孫としては気になるのでしょう」
「ふうん……そうですか。例えば?」
「そうですね。先程の宇治の宝蔵の話と少しだけ重なりますが。宇治の宝蔵に納められている妖怪の一体の中に、大嶽丸という鬼がいるんですよ」
「鬼……ですか。物騒ですねえ」
松葉からしてみれば、鬼と聞くと物騒とか怖いとかいうのが真っ先に出てくる。節分の風習だって、鬼を祓うためのものなのだから。それに伊藤は「今はそう思われるかもしれませんねえ」と言う。
「鬼は神と同じものだったとされている説が存在してます」
「あれ? 平安時代では、既に鬼は鬼でしたよね?」
「それは宗教のせいだと言われていますね。外つ神が入ってきた影響で、日本本来にいた神が鬼と言われるようになったと言われています。ここまで来たら、もう千年前よりも更に昔に遡るんですが……話が少し逸れましたね。それで、大嶽丸と坂上田村麻呂も因縁浅からぬ関係で、そこでひとりの鬼を奪い合ったと伝えられているんですが、それが誰だったのかがはっきりしていないんですよね」
「あれ? ひとりの鬼を殺すんじゃなくって、奪い合うんですか?」
「ええ。その鬼は女性だったんです。ひとりは鈴鹿御前と呼ばれ、彼女は各地の伝説伝承に広く名前が残っています。もうひとりは──……」
ふたりが話をしている間も、列車は町を離れていく。
──町が滅びるか否かの戦いがはじまっていることを、ふたりは知らない。朔夜がみずほの心を守るために遠ざけたのだから、当然の話だろう。
****
朔夜は血を流しながら、背中からどっと冷たい汗が噴き出て、「まずい、まずい、まずい……」と感じていた。
浄野が胸中で飼っていたものとみずほが会っている。もうこの時点で充分まずいが、幸か不幸か浄野の中身の封印はまだ中途半端だ。だからこそ、夢渡であちこちに魂を飛ばすことはできても、直接干渉はできなかったのだろう……自身の宝蔵を開閉できるために、いよいよ復活は間近らしいが。
だが問題はみずほのほうだ。中身の言うとおり、彼女は未だになにも知らず、なにもわからないままなのだ。
「……同じ過ちを侵して……たまるか……」
本当に長いこと、自分と彼女は引き裂かれていた。
やっと封印が解けたのだ。今度こそ、彼女を守り抜くと決めていたが、自身の力も全盛期には劣る。その上、中身に斬られ、血が止まらない。
朔夜は忌々しげに自身の直刀を睨み付けた。
「まだ俺の言うことを聞くならば、火を噴け」
未だに朔夜の意志で動く直刀は火を噴き出し、自身をしゅうしゅうと焼いた。朔夜は焼けた刀身を無理矢理傷口に押し当てた。
「ぐ……うぅ…………うう……」
肉の焼けるにおいが漂う。
皮膚の焼ける激痛に、朔夜は歯を食いしばり、目の前を睨み付ける。
口だけの男が一番情けない。千年前も、今代も、約束をしたのだ。彼女を守ると。傷口は焼け、かろうじて塞がった。痛みは走るが、千年ほど前のことに比べれば、大概のことは大したことがない。
中身の封印が解ける前に、なんとしてでもあれを屠る。
……みずほが泣いても、浄野の中にいる今の内しか、完全に滅することなどできやしまい。
****
みずほは困惑しながら、浄野の体を奪ったなにかと刀を交えていた。
その太刀筋はあまりにも乱雑だが、力だけは桁外れだ。本当に、今まで戦った鬼と同じように。
なによりも気になるのは、朔夜のことを、浄野の体を使うなにかは「ぬし様」と呼んだのだ。
「あなたは……本当に……何物なんですか……っ! 朔夜さんを傷付けたり、ぬし様と呼んだりして!」
「ほう……嫉妬かえ?」
浄野は嘲笑う。みずほの記憶の中にいる彼は、決してそんな笑みは浮かべない。本当に体を乗っ取られているのだろうと歯噛みしながら、みずほはそれに首を振る。
「違います。あのひとは大切ですが……そういうのじゃありません!」
「ふん、口ではなんとでも言えるであろうよ。それに……忌々しくもあのでくの坊の贋作を振るうとはなあ」
「でくの坊……まさか、大嶽丸のことですか!?」
「ああ……あれは適当なことを吹き込んでおけば言うことを聞く、体のいい男だったがなあ……欲しいものはさっさと奪っておけばよかったのに、爪が甘いな。千年経ってもこれかえ」
まさか……と思う。
先祖は、坂上田村麻呂と鈴鹿御前は、手を取り合って共に大嶽丸を打ち倒したと聞く。そして、今は浄野の体を乗っ取っている相手。
「……ご、先祖、様……?」
顕明連を残し、忽然と姿を消したとされている先祖。鈴鹿御前。
絶世の美女とされ、その正体は天女とも盗賊とも鬼とも称された、田村家の先祖。
途端に、浄野の体を奪った中身は、顔を大きくねじ曲げる。
「たわけが。そんな訳なかろうが……!」
途端に中身は強く刀を一閃させた。それにみずほは獅子王を取りこぼしそうになり、必死で握るが。刀を握った指がわずかに中身の振るう刃に触れる。
普段であったら刹那で治る傷が、塞がらずに赤い血が滴る。それにみずほはぎょっとする。浄野の姿で振るう刀は、ただの刀ではない。
朔夜を傷付け、みずほの傷を治らせないその刀を、浄野は「ふん」と鼻息を荒く握りしめる。
「よくもまあ、そのおめでたい頭でいられたものだな……わらわの子孫? ぬし様とわらわの子孫が、貴様のような汚らわしい生き物な訳がなかろうよ……!!」
「……っっ!」
みずほの体は強ばる。
幼いみずほに、何度も何度も染み込ませ、彼女の自己肯定能力を奪っていった、生野と同じことを、浄野の姿で言うのだ。
浄野の姿で、中身は吠える。
「わらわは鈴鹿! 鈴鹿山に住まい、坂上田村麻呂を伴侶とする、誇り高き鬼の姫! くれぐれも貴様のような盗人猛々しい物とわらわの血が交わるものか!」
ガラガラと。みずほの足下が壊れていくのを感じた。
先祖と思っていた女が、最愛の兄の姿を借りて、憎々しく言葉を続ける。
「貴様はわらわの愛すべき子孫に使われて消えるだけの存在よ。用がなくなれば、この刀の錆びになって消えるだけの存在。この刀は鬼狩りの刀、童子切。わらわとぬし様が得て、神宮に奉納せし刀。それで斬れて傷が治らぬことこそ、貴様が人間ではないという証拠。貴様、いったいいつから自分が人間だと思っていた? 誇り高きわらわの血筋の人間と思うた? いったいどれだけ厚かましいのか……!」
「あ……ああ……あああ……」
「わらわの顕明連をどうして抜けるのか? そんなもの決まっておるわ。端からあの刀は人間では抜けぬ。貴様が人ではないから抜けたに決まっておろう」
「ああ……あああ……あああああ…………」
ガラガラガラと。みずほの目の前が真っ暗になっていく。
おかしいとは思っていた。
父は、生野は、一度たりとも、みずほに情を向けなかった。
不安で不安で仕方がないときも、一度たりとも自分がすがることを許してはくれなかった。
家族の中で、みずほだけ異質であった。
褒めて欲しい、認めて欲しい、生きていることを許して欲しい。
彼女は必死で刀を振るっていた。
町を守りたいとか、人を守りたいとか、退魔師としての義務とか、そんなものは全て建前だ。本音では、家族に認めて欲しいとずっと願っていた。
みずほは人がおそれを覚えるほどに、傷の治りが早かった。先日の四鬼との戦いだって、普通であれば、ひと月は伏せるもの。彼女は二日で治ってしまった。
それは先祖の血ではないとしたら……人ならざるものの血のせいだとしたら、辻褄が合ってしまう。
自分が信じたものは、いったいなんだったのか。
兄が自分を大事にしてくれたのは。ただの化け物の監視だったのだとしたら。
みずほの全身から、力が抜け落ちた……からんからんと地面に転がる獅子王。みずほはへたり込み、涙を流した。
──もう、なんのために戦っていたのかが、わからない。
「……いい加減にしろ、鈴鹿。大ほら吹きは、いったいどこのどいつだ」
そこで焦げ臭いにおいを漂わせてやってきた姿に、みずほは涙を溜めた目で、彼を見上げて息を飲んだ。
無理矢理傷口を焼き、皮膚は明らかに火傷でただれているが、本人はわずかに口元を歪めただけでしゃんと立っている。
「俺の妻は、今も昔も、たったひとりだけだ。貴様ではない」
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