怨讐・二
細かい雨粒がみずほの頬を殴った。風は乱れ、彼女の穿く袴をずしりと重く湿らせる。
目の前の嵐を前に、それでもなお朔夜は笑みを浮かべて直刀の柄に手を添えていた。雨で着衣を重くしようとも、それに動じることもなく。
「どうするおつもりですか?」
「嵐を止めるしかあるまいよ」
「……それを、どうするおつもりなんですか」
みずほの問いに、朔夜はほんの少しだけ困ったように、眉尻を下げた。
「本来なら、あまり力を入れたくはないがな」
朔夜は自身の直刀に手を触れる。すると急に朔夜の持つ直刀は解けた。みずほが目を見張っている中、朔夜はこともなげに直刀だったものを眺める。
彼が触れた途端に、直刀は天まで昇るほどの、大きな炎となったのである。
「あ、あの……これって?」
「みずほ、今代はとかく窮屈だ。なんでもかんでも型にはめなければ考えられないのだからなあ。千年前、あちこちに魑魅魍魎が跋扈し、鬼が各地で縄張り争いをしていた頃は、不思議を不思議とも思っている暇などなかった。型にはめるというのは、それだけ余裕があるということなのだろうな」
「い、意味がわかりませんよ」
「俺もこの刀をもらったときは、意味がわからなかったがなあ……まあ、この姿を見せるのも、この場限りだろうさ」
めらめらと燃え上がった炎は、まるで指示を仰ぐかのように朔夜を見下ろした。朔夜は手を挙げる。
「あの嵐を消し去れ」
朔夜のひと言で、待っていたとばかりに炎は嵐の元へと走って行った。
みずほは、口を開いたまま、その光景を見ていた。
ありえないことがありえない。千年前のことなど考えたこともないが、なんでもかんでも本当にでたらめなのだ。しかしそれをさも当然のように、朔夜は使用する。
炎は嵐を抱き締めると、嵐は炎を打ち消そうと必死で雨粒をぶつけ、風をなぶらせる。そのときにバキバキと街路樹の枝が折れ、抵抗虚しくぶらんとぶら下がるが。しかし、その炎が消えることはない。
嵐はなおも炎を消そうと、更に力を強め、風も雨も勢いを付けて大きくなっていく。風の強さでみずほの束髪も大きく嬲られていく。
「あの、これは本当に大丈夫なんですか!?」
「心配するな。これくらいじゃ俺の炎は消えやしない」
「そうかもしれませんけど、でもこれ以上嵐が大きくなってしまったら、町の被害は……!」
現に巻き込まれた街路樹が見るも無惨な姿に変わっていくのだから、これ以上放っておいていいことなんかないだろう。みずほは悲鳴を上げそうになりながらも、自分ではさすがに嵐を斬ることなんてできない。
焦るみずほとは違って、朔夜は冷静そのものだった。
「問題ない。お前さんもあんまり慌てるな。それに俺たちがするのは、嵐と戦うことじゃないだろ。四鬼の核を壊すことだ」
「そりゃそうなんですが、そもそも残りの鬼が嵐になったのがことの発端では」
「もうそろそろ根比べもおしまいだろうさ。ほら、見てみろ」
朔夜に言われて、みずほはおずおずと嵐と炎の戦場に視線を向ける。すると、先程まで必死に炎を消そうとしていた嵐の渦が、わずかだが弱まったことに気付いた。台風の目となっている水鬼と風鬼の姿が、嵐越しにとはいえども目視できるのだ。
朔夜は振り返る。
「これくらいならばやれるだろうさ。あとは、また嵐をつくられない内に、残りの鬼の核をやる。これくらいならば、お前さんも鬼に一矢報いれるな?」
「……はいっ」
未だに風は強く、雨足も響いているが、先程みたいに身動き取れないほどの威力はもうない。おそらくは、直刀の変化した炎を消そうと躍起になって風鬼も水鬼も力を使い込んだおかげで、疲弊したのだろう。あの炎は、生半可な力では消すことができなかったということだ。
みずほは獅子王を手に取ると、朔夜と共に走り出していた。
嵐の中、風と雨粒が何度もふたりを追い返そうとするが、炎がふたりの行く手を阻む鬼を堰き止める。やがて、嵐の中心に来た。
みずほは水鬼の元に、朔夜は風鬼の元に来た。朔夜が手を差し出すと、さんざん嵐を蹂躙した炎は消え、朔夜の手の中で直刀の姿に戻る。
「同時に核を壊さないと、また嵐をつくって、今度こそ町を蹂躙するだろうさ。お前さん、やれるかい?」
「やれるかじゃなくって、やらなければならないのでしょう?」
「その意気だ……だが、あまり無茶だけはしてくれるなよ」
朔夜が少しだけ寂しそうに笑ったが、みずほは自身の刀を握って、狙いを定める。
今はいない、義母や義姉、異母兄や甥の帰ってくる場所を。友達の帰ってくる場所を。蹂躙されてなるものか。
ふたりは一気に駆け抜けていった。
水鬼は最後の抵抗で、細かく水を砕いて霧雨で視界を奪ってくるが。みずほの目には見えていた。無銘の刀が核として、はっきりと霧雨の中で浮かんでいるのが。
風鬼もまた、最後の抵抗としてかまいたちを投げつけてくるが、それは全て朔夜の直刀で斬られてしまった。
「行くぞ」
「はいっ!」
地面を大きく蹴って、直刀を、刀を構えた。
みずほの獅子王は水鬼の存外に薄い装甲を貫き、ピキンと中の直刀の表面を引っ掻く。そのままみずほは、自身の霊力を流し込んでいった。
朔夜の直刀は風鬼の存外に分厚い装甲を抉り、そのまま強く力を込めて貫いていった。核となった無銘刀は、いともたやすく砕けていく。
雨が止み、風が止み、ただ一迅の爽やかな風だけが駆け抜けていく。
空は綺麗に洗い清められた星空になっていたことに、みずほはほっと息を吐いた。
街路樹は無残な姿で倒れ、枝もバキバキに折れてぶら下がるような醜態だが。それ以外に町が崩れ落ちる様はなかった。未だ残っている町の人々も、何事かと騒いでいるが、明日にならない限り、この可哀想な街路樹に気付くことはないだろう。
****
核を全て破壊された千方は、町を盗み見る核を失ってもなお、髪を掻きむしって癇癪を起こしていた。
「おのれ! おのれおのれおのれおのれ、おのれ…………!!」
最高傑作とされ、歴史にも名を連ねた四鬼がやられたのだ。よりにもよって、千年前の因縁ある相手に、またも核ごと破壊されてしまった。都転覆どころか、町ひとつ消失させることすらできずに終わってしまったのだ。
「何故邪魔をする! 何故刃向かう! 本当に、本当の本当に忌々しい……!!」
──そんなのは簡単だろう。貴様が弱いからだ
「なっ……!」
千方は突然、目の前に現れた女の気配に喉を鳴らした。黒い髪が豊かな女性は、酷薄な笑みを浮かべていた。
──わらわが与えた刀すら、満足に使えぬとはなあ。しかも、あれが無傷ではないか。歴史に名を連ねるとかのたまうからどんなものかと思っていたが。まさか、歴史に名を残せぬほどのうつけ者とは、聞いて呆れるわ
「だ、まれ……! そもそもどうして無銘刀なんだ!? 核として使うならば、銘のある刀でもよかったのではないか!?」
──貴様に銘のある刀も、号のある刀ももったいないわ。名のある刀をもってしても、わらわの
「貴様……あれのことを、
千方は顔を引きつらせる。あの男を
逃げなければ。とかく逃げなければ。そう思ったものの。彼女は軽い調子で手を挙げると、途端に雨のように刀が降り注いできた。
千方は外法の呪術師だ。刀が大量に降り注いでも、それを避ける術もなければ、刀を一本引っこ抜いて反撃に出る腕も持ち合わせてはいない。たちまち千方は、串刺しになって、口から血を吐く。
そのまま物言わぬ死体に戻った千方を、女は見下していた。
──本当にくだらぬ男だな。まあ、いいわ。もうすぐ。もうすぐわらわは体を取り戻す。それまであとひと息。それまでに起こることは、全て余興。わらわも、もうすぐ愛しいぬし様に巡り会える
途端に、女は今まで誰も見たことがないような、蕩けきった顔をしてみせた。
本来、彼女は美しい造形なのだ。あまりにも力が強く、夢渡で簡単に人の夢を歩き回り、人を意のままに操る、外道中の外道ではあるが。
そして夢渡の最中で夢見心地に赤らめた頬の熱はすっと引き、冷たい仄暗い瞳をしてみせた。
──そろそろ、あれも邪魔だな。排除せねばなるまいよ
────もういらぬ、もう用はない
──────早う、いね
****
みずほはズシリと重くなった服のまま、朔夜と一緒に歩いている。
既に人気はなく、照彦が嘘八百を吹聴して回ったおかげで、富裕街のほうの灯りは乏しい。
既に浄野は帰ってきていたら、食事が遅れて申し訳ない。
少しくたびれたまま歩いていたとき、先程まで文士の格好をしていた朔夜が、急に衣冠の姿に切り替えた。
「あの……朔夜さん?」
「貴様、どういうつもりだ」
普段、滅多にみずほの前では出さない、硬く冷たい声に、みずほは驚いて目を見開く。朔夜は唸るような声を上げ、みずほを自身の背後へと下げた。
しかし、みずほはそこで見てしまった。
カツンカツンと革靴を履いて歩いてくる、警官服の存在に。
「……
普段穏やかに笑っている、家族の中で誰よりも気遣いである浄野が、無表情のまま歩いてきたのだ──刀を携えて。
その刀はこのところ抜いていない顕明連ではない。見覚えのない刀に戸惑いを隠せないでいると。朔夜は硬い声でそっとみずほに言う。
「みずほ、下がれ」
「ですけど、
「……俺は、またお前さんを失いたくはない」
「え……?」
意味がわからない。そう思ったのも束の間。無表情な浄野が急に刀を抜いたかと思ったら、いきなりそれで一閃してきたのだ。
浄野はみずほと何度も何度も手合わせをしてきた。その突きはいつだって鋭く、その一閃は誰よりも美しい。が、その美しく堅実的な太刀筋は、今の彼からはどこにも見受けられなかった。
朔夜はそれを自身の直刀で受け止める。
ギリギリという鍔競り合いに、なにが起こったのかわからなかった。
「……
「その呼び名は止めよ」
「……っ!」
その声は、浄野のものではなかった。聞き覚えのある、低い女の声。
……みずほが初めて顕明連を抜いたときに、彼女を手招いた声だった。朔夜は顔をしかめる。
「やはり、戻ってきたか。これの中を出たり入ったりしていたな」
「ふふ、ぬし様はやはりなんでもお見通しの様子」
「その呼び名は止めろ」
朔夜は吐き捨てるように言うと、直刀を乱暴に振り上げる。そのまま浄野に乗り移っている何物かごと、浄野を貫くつもりだ。
それにみずほは焦って声を上げる。
「さ、朔夜さん、止めて……!
みずほは自身の獅子王を抜き、ふたりの間に入ろうとする。
一瞬だけ、朔夜の気が逸れ、直刀の構えが弱まる。その瞬間、浄野の一撃は深く朔夜の右肩を貫いた。
今まで、魑魅魍魎にも、鬼にも傷を付けさせなかった男が、初めて傷を負ったのだ。
朔夜は顔をしかめる。
「き、さま……!!」
「ぬし様はここで見守ってくりゃれ。すぐに始末を付けるゆえ」
「貴様……また俺から妻を奪う気か……っ!!」
朔夜は、今までになく焦った声と怒気を孕んで浄野を睨み付けるが、浄野は、普段の温和な彼だったら決して浮かべないような、妖艶な笑みを浮かべた。朔夜の噴き出す血を指で拭うと、浄野の唇に塗りつける。
まるでそれは、紅のように彼の唇を彩る。
「……ぬし様を奪った女、ちゃんと始末を付けるゆえ。もう二度と、わらわ以外に目をくれることなきよう」
「き、さ、まぁ…………っ!」
刀を抜くと、朔夜の傷口からコポリと血が流れ出る。そこでみずほは初めておかしいと気が付いた。
鬼は、傷などすぐに塞がるのだ。しかし朔夜の傷口はいつまで経っても塞がらない。
三代妖怪の一画、大嶽丸すら圧倒した朔夜の肩を、自分のせいとは言えど傷付ける浄野の中身が、ただものな訳がない。
なによりも、浄野が出す訳もない禍々しい気配が垂れ流れているのだ。
これは魑魅魍魎が出るときよりも。あの大嶽丸と対峙したときよりも。みずほの毛穴という毛穴が開き、産毛という産毛がぽつぽつと逆立つ感覚を覚える。
「あなた……何者なんですか」
みずほの問いに、浄野の中身は冷たく一瞥すると、刀を構えた。
「貴様はなにも知らず、なにもわからぬままくたばるがいいわ……魂のひとかけら残さずになあ」
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