鬼女

 第六天魔王の娘たる、鈴鹿御前。

 地獄を統べる魔王の娘にして、大嶽丸に引きずり回されて、一介の鬼女に堕ちた憐れな娘。

 それが恋に落ちたのは、美しい稲穂色の髪をした青年であった。しかし彼には既に伴侶がおり、彼女に興味はなかった。

 もしこれが地上を知り、人の営みを知り、情の機微を知っていたら、嘆けども諦めきることはできただろうが。

 鬼女の恋は濃い。そして地獄しか知らぬ彼女は、奪うこと壊すこと以外の情の通わせ方を知らなかった。

 無知を嘆くことができれば、おそらく鈴鹿は千年もかけて自身の子孫を操って今代を騒がせることはなかっただろうが、彼女の無知を嘆くには、彼女の力はあまりにも凶暴で凶悪であり、面と向かって彼女を諫めることのできるものなぞ、ついぞ現れることはなかった。

 彼女の持つ三振りの刀のうちのひと振り、顕明連。火のついた蔵の中でも、その周り一体には水の薄膜がつくられ、爆ぜる音の中でも平然の刀掛けの上に鎮座している。

 その薄膜の中で、少しずつ姿を現そうとしている存在がいた。

 真珠のように透き通る肌。ぬばだまの黒髪は炎に照らされて輝いている。そして金色の瞳。

 最初はおぼろだった姿が、少しずつ実体化していくのがわかる。


「……許さない。あの女……」


 それは横恋慕だと、誰かが言えればよかったのだろうが、それを言うことのできるものなど、誰もいなかった。

 彼女の怒り狂う姿は、まさしく鬼そのものだった。

 美しいはずの彼女の額に、めりめりと音を立てて生えてきたのは角。

 美しい肌が纏うのは、白拍子のような白い狩衣に烏帽子、赤い袴。

 ようやく実体化した彼女は、自身の手を見た。

 天照大神の使いによる炎で焼かれたせいで、修復するまでに千年もかかってしまった。

 女を嫌い過ぎて、田村家には女がひとりも生まれなかった。男児しか生まれることはなく、嫁に入った者たちのみが、田村家の女であったが、ほとんどは鈴鹿の嫉妬により早死にした。

 鈴鹿は顕明連を手に取ると、それを一閃させた。たちまち炎が、蔵が、スルリと斬れて、空の青が浮かんで見えた。


「……今代の空は狭いな、まあよい。わらわが復活できたのだからなあ」


 狭いのならば、ならせばいいだけのこと。

 思うがままに行動すればいい、もう枷はないのだから。

 千年前、子供を守るために死に物狂いで彼女を殺しにかかった悪玉の枷は、時を経て外された。

 今代に、一頭の獣が……いや、鬼女が放たれた。


****


 みずほたちはどうにか田村邸から離れていた。

 この辺り一帯は、既に浄野が瓦斯がす漏れの嘘情報を流したおかげで避難が進んでいる。どの道この辺り一帯は富裕層の住まう区画だ。別荘辺りに滞在してくれていたら、しばらくは無事であろう。

 生野と浄野が警察のほうに向かい、残っている地元民の避難誘導に出ていったのを見ていたところで、みずほはゾクリ……と背中になにかが刺さるのを感じた。

 今までもよく感じていた気配。

 しかし、ここまで禍々しい気配が突き刺さったことはなかった。

 まるでいきなり冬になったかのように冷気が迫ってきたと思いきや、梅雨入りのときのように着物の張り付くような違和感。粘りを帯びた湿度と絶対零度の冷気の織り交ざった、非常に嫌な気配であった。

 朔夜は顔をしかめ、姿を衣冠に切り替える。


「……とうとう目が覚めたか」

「……あの気配が、鈴鹿……なんですね」

「千年前に、お前さんも対峙しているだろうが。さすがに思い出しただろう?」

「ええ……覚えています」


 みずほは自身の刀を……獅子王を引き抜いた。

 朔夜の戦い方は無茶苦茶で、人の戦い方をしていない。みずほの記憶にある悪玉も、鈴鹿も、戦い方は無茶苦茶で、人の理から明らかに反している。

 今代で生きるものたちからしてみれば、常軌を逸した戦いになるだろう。

 記憶を取り戻したからといって、みずほは神通力を遣うのは躊躇われた。

 人の理から外れるだけでなく、そんなことを何度もしていたら町がもたないからだ。

 今、この場に人がいないのは避難しているだけ。その人たちから帰る場所を奪っていい道理は、どこにもない。

 やがて冷気と湿度が同時に迫ってきた。


「ぬし様。わらわが参りました」


 夢見心地な声が、滑り込んできた。

 見たものが見たら、心を奪われること間違いない、人離れした美しい姿であった。しかし美しい御髪にぽってりとした紅を差した唇だからこそ、額から伸びた角の異様さが目立った。

 みずほは獅子王を向ける。


「あなたは……今までよくも私を……!」

「……ふん、とうとう思い出したか。だがまあ……相変わらず力は取り戻してはおらぬか。僥倖僥倖。それなら屠るのも容易かろう。ぬし様、すぐ終わらせますからお待ちを」

「貴様は……また俺から妻を……!」

「睦み合い、子を育んだ仲ではございませんか。求められる喜びをあれほど味わったことはございませんわ」


 あからさまに朔夜は機嫌悪く、弓矢を向けた。

 生野から取ってきたものだ。


「……いい加減にしろ。俺たちはただ、静かに余生を過ごしたいだけだ」

「ぬし様がそのようなことをおっしゃるとは、千年経つというのは存外つまりませんのね」


 そう朗らかに言いながら、彼女は軽い調子で顕明連を振るった。途端に顕明連の姿は解け、水しぶきへと変わった。

 またか、とみずほは唇を噛む。

 あの刀は今までみずほが持っているときは、一度たりともそんな姿にはならなかったが、真の持ち主が持った途端に、簡単に姿を変える。

 みずほは獅子王を持ち、こちらへと迫りくる水しぶきを、次から次へと捌きはじめた。

 本来ならば、水しぶきなど捌くことなどできまいが、みずほは神通力の使い方こそ思い出せないものの、目は大分千年前のものを取り戻しつつあった。

 ひと粒ひと粒を地面にまで薙ぎ払うと、それが地面に突き刺さる。

 地面に突き刺さった途端に鋭利な正体を見せつけるのだ、こんなものを浴びたら最後、体中から血を噴き出していたことだろう。なによりも、顕明連は霊剣を通り越して神剣とすら呼べるもの。そんなものに突き刺さったらどんな副作用があるかわかったものじゃない。

 しかし鈴鹿の武器は、かつてのみずほの得物の顕明連だけではない。空が光り輝いたかと思ったら、大量の得物が降り注いできたのだ。

 槍、刀、薙刀……ただでさえ顕明連だけでも捌くのがせいぜいだというのに、あれだけの大量の得物を捌き切ることなんてできない。

 みずほが焦ったが、朔夜が静かに言う。


「みずほは目の前のことに集中しろ。空のものが俺がなんとかする」

「……朔夜さん、あなたの騒速丸そはやまるは鈴鹿のものならば……もう使えないはずでは……」

「いや。今代だとなかなか使う場面がなかったがなあ……俺は、弓矢のほうが得意だ」


 人並外れた力を持っていたが故に、人から遠ざけられていた坂上田村麻呂──朔夜。

 千年前、大嶽丸を射抜いた弓矢の腕は、封印が解かれたときに少しずつ取り戻していた。勘は千年経ってもなお、鈍ってはいない。

 きりきりと弓を引くと、素早く矢を射抜いていく。空が光り輝くほどに得物が降り注いでくるというのに、適格に矢を射抜いて降り注ぐ得物の軌道を変え、軌道の変わった得物を巻き込んでどんどんと撃ち落としていく。

 今代で、これだけの弓矢の腕前の人間などいまい。あまりにもの艶やかな腕前に、みずほは呆然とする。

 鈴鹿に至っては、自身の宝蔵の得物を撃ち落とされてもなお、恍惚の表情を浮かべている。


「ぬし様……素晴らしい腕前。やはり今代に腐らせておくには惜しい方」

「あまり好き勝手言うな。俺にしろ貴様にしろ、既に今代でのさばっていていいもんじゃない」


 朔夜はイラリとした表情をしたものの、次々と得物が撃ち落とされていく。

 その中で、みずほは必死で顕明連を振り払っていた。

 最後のひと粒を地面に叩き落としたところで、地面に突き刺さった水玉は水の姿のまま鈴鹿の手元へと飛び、元の刀の姿へと戻った。


「本当にぬし様は素晴らしい……だが、貴様は駄目だ」


 鈴鹿はみずほを睨む。彼女は自身の顕明連を腰に差し直すと、顕明連よりも長い刀を手にする。

 大通連だいつうれん──騒速丸の夫婦刀であり、本来ならば重いはずのそれを、軽々と空に突きつける。


「いつもいつも、わらわの邪魔をする。いつも貴様はぬし様を惑わせ、好き勝手にする。ぬし様を奪う──……千年前にには遅れを取り、今代でもまたぬし様を奪う。もう懲り懲りじゃ、貴様に好き勝手されるのは──……!!」


 その言葉は、朔夜からしてみれば、恋に溺れた鬼女の戯言にしか聞こえなかっただろう。

 彼が妻と定めたのは、愛したのは悪玉ただひとり。鈴鹿ではなかったのだから。

 だが、悪玉──みずほには、痛いほどに彼女の言葉の意味が、思惑が、憂いがわかった。

 男の身勝手で凌辱され、居場所を奪われ、故郷に帰ることすらできなくなった、天涯孤独の身の上。惚れた男以外に拠り所がなくなってしまった。

 どうして自分の男の元にお前がいる?

 どうして自分の居場所にお前がいる?

 お前の居場所はそこじゃない、そこは自分の居場所だ、どけ、邪魔だ、消え失せろ──……!!

 自分のたったひとつの居場所を奪った相手を、どうして憎まずにいられようか。

 そして惚れた男と平和な家庭を築いていたら……惚れた相手すら憎悪と嫌悪の目で見るだろう。

 自分たちは、ただ彼に出会う順番が違っただけで、素性は同じなのだ。みずほからしてみれば、鈴鹿は自分がなるかもしれなかった姿なのだから、余計に彼女が憐れに思えた。

 やがて、鈴鹿の大連通の呼びかけに応じて、朔夜の背中に差した騒速丸がカタカタと鳴りはじめた。

 そのまま鞘から勝手に抜け落ち、そのまま鈴鹿の手元へと飛んでいく。

 やがて鈴鹿は大通連の手を離すと、騒速丸と共に浮かび上がった。

 大通連と騒速丸は、くるくると共に回りはじめる。

 千年ぶりの再会を祝うかのように。

 やがてそれぞれの刀は姿を変えた。

 夫婦刀は、それぞれ水の鳥と火の鳥、それぞれ片方の羽がない、身を寄せ合って飛ぶ比翼の鳥に姿を変え、大きくいななきはじめたのである。


「これはわらわとぬし様の夫婦刀……愛の結晶ぞ……」

「勝手なことを言うな! 俺の刀が折れた際に拝借したときに、勝手に夫婦刀だと好き勝手言ったんだろうが! そろそろ我が妻が誤解を招くようなことを言うな……!」


 朔夜からしてみれば、鈴鹿は身勝手極まりない女にしか見えまい。

 彼が愛した女は、悪玉ただひとりなのだから、余計に彼女に対しての嫌悪と憎悪が募る。しかし鈴鹿にはなにもかもが通用しない。

 千年かけて恋と募らせた鬼女と、千年かけて憎悪を募らせた男が、交わる術はもうないというのに。

 鈴鹿は比翼の鳥に向かって、声高らかに告げる。


「さあ、あの女を啄め! 切り裂け! 突け! 血という血をすすり、肉という肉を食らい、生きながらに殺せ! 大丈夫、どうせ奴は鬼だ。すぐに傷は塞がるし血は止まるが、いったいどれだけ耐えられるかなぁ……!!」


 彼女が告げた途端に、比翼の鳥はいっせいにみずほ目掛けて飛んできた。

 朔夜は鳥を仕留めようと弓矢を番うが、比翼の鳥はおそろしく速い。朔夜の弓矢をもってしても、鳥を貫くことができなかった。

 みずほは咄嗟に獅子王を向けるが、それよりも速く、比翼の鳥は双方嘶き、鉤爪でみずほの肩を抉った。

 肩から血が噴き出て、みずほは悲鳴を上げる。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!」

「みずほ……!!」


 焼けるように熱く、痺れるように痛い。普段であったらどれほど深い傷を負っても、止血だけはすぐ終わるものの、今は血の出る速さが血が止まる速さより勝り、傷口がいっこうに塞がらない。

 朔夜が歯噛みする。


「……大通連と騒速丸を同時に使ったせいか」

「と……言いますと……?」


 体が冷たいのか熱いのか、痛いのか痺れるのかわからないまま、みずほはぜいぜいと息を切る。朔夜がみずほの肩をきゅっと掴む。


「騒速丸は火を起こす刀だ、そして鈴鹿の持つ大通連は水を呼ぶ刀だ……まあ、それは見ていたからわかるか。同時に使うことで、お前さんを内側から焼き、傷口が塞がらないように仕向けたのだろうさ。あの女らしいやり方だ」

「……焼く」


──ああ、やはりそうか


 みずほの中の悪玉の声が聞こえ、みずほはピクリと肩を跳ねさせる。


(私は神通力は使えませんが、あなたは使えますよね? 私は……鈴鹿を止めたい。殺すかどうかはまだわかりませんが、彼女は止めなければならないと思います)

──甘いな、あれは隙を見せれば、簡単になんでも奪っていく

(わかっています。それでも、私はこの町が好きですから)

──私は、もう故郷に帰れないが、今の私は、違うか……


 悪玉の故郷は高天原だ。もう帰ることもできまいが、みずほはそうじゃない。

 かつての彼女は、今の彼女に囁く。


──好きなだけ持っていけ。私はあれを許さないけど、あなたはそうじゃない

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る