炎上

 たらいに水を張り、真新しい手拭いを持って、浄野は離れに戻ってきた。彼女の寝所に入ろうと襖に手を伸ばしたとき。


「──……誰かに利用されることもなく、誰かに迷惑をかけることもなく、生きてみたいんです」


 少し前まではよく聞いていた、聞きたくてもちっとも聞こえなくなってしまっていた声が、襖の向こうから響いた。

 答える朔夜の声も、ひどく優しい。彼は妻と定めた彼女に対しては、ひどく優しい声を出す。実際のところ、田村家の人々以外には概ね優しい人間が彼なのだが、浄野が知るところではない。


「難しい相談だがなあ……誰かに迷惑かけずに生きるなんていうのは」

「そうでしょうか……」

「だが、俺とお前さんだったら、やってやれないこともないだろうさ。あの女を、狩らねばならんなあ」


 ふたりの会話が終わったところで、ようやく浄野は襖を開いた。なにも聞いてない素振りで。襖の向こうにいた彼女……みずほはしばらく食事を摂っていなかったものの、やつれることもなく、ただにこやかに襦袢姿で布団の中で座っていた。


「ああ異母兄様にいさま、おはようございます。本当に、心配をおかけして申し訳ありません」

「みずほ……」


 浄野は彼女を抱き寄せる。それを見て心底朔夜は嫌な顔をしたものの、どうせ彼女の伴侶になるのは朔夜と決まっているのだ。異性として見られずとも、兄として傍にいることくらいは許してほしい。

 みずほはにこやかに彼に抱き締められたところで、きゅるりと腹の音を鳴らした。


「あ……あのう、私はいったいどれくらい眠っていたんですか?」

「みずほ、お前は三日間眠っていたんだよ」

「み、三日も、ですか……? どうしましょう、そもそも朔夜さんも異母兄様にいさまもその間、なにを食べてらっしゃったんですか」

「そりゃ、お前さんがひつに残していた飯を握って食っていた」

「それだけですかあ……一応、糠床さえ漁れば、お新香くらいはありましたのに」


 みずほが起き上がろうとするので、慌てて浄野はみずほを押さえた。


「みずほ、僕が用意するから、まだ眠っていなさい」

「ですけど……」

「病み上がりが、無茶しないでおくれ。心配するから」


 そこでようやくみずほは、大人しく布団の中で待つことにした。

 浄野は櫃に残っていたご飯を全部拭うと、それを母屋にまで持っていって、瓦斯がすを使って水で煮ることにした。いい加減、離れにも瓦斯がすを引くべきだと思うが、父が黙っていないだろう。

 それにしても、と浄野は思う。

 三日。その間、鈴鹿の襲撃はなかった。彼女はみずほ……いや、悪玉を憎んでいる。しかし彼女は仮にも神から鬼に墜ちた存在だから、地獄を統べる大六天魔王の娘である鈴鹿であっても、彼女の魂を完全に滅することができなかった。しかし眠っているみずほであったら、襲撃する術などいくらでもあっただろうに。

 彼女が田村家の人々を使って、魑魅魍魎をこの国全土にばら撒き、肉体を取り戻そうとしていた。浄野は結果的に彼女の意に反したが……彼女はもうすぐ復活するからという理由だけで、万全じゃないみずほを襲撃しない理由などあるのだろうか。

 長らく鈴鹿の夢渡に付き合わされ、彼女に何度も体を奪われた覚えのある田村家次期当主の浄野は、彼女の粘着質な性格と、嫉妬深い性分を熟知している。

 彼女はきっと、ここで仕掛けてくる。

 そう考えて、ようやく出来上がったお粥に梅干しを載せ、起きたばかりのみずほに食べさせるために離れに戻る。

 みずほがそれを必死で食べているのを見て、彼女は相当腹を減らせていたのだろうと思う。

 そんな中、朔夜がすっと蒼い双眸を細めて、外を見ていることに気付いた。


「朔夜様?」

「……におわないか?」

「えっ?」


 みずほは真っ先に自分の体の匂いを嗅ぐので、朔夜は「違う」とあっさりと否定した。

 浄野はそう言われて、鼻を動かした。普通のお粥は、せいぜい梅干しの匂いくらいしかしない。だとしたら外かと思ったとき、耳がなにかを拾った。

 パチパチパチと、離れの厨に立っていたら普通に聞く音が響いてきたのである。

 浄野は驚いて外を見て、愕然とする。

 ──母屋が、燃えているのだ。

 ようやく食事を終えたみずほは、険しい顔をする。

 母屋と離れは廊下でのみ繋がっている。離れに炎と煙が回ってくるのは時間の問題だろう。みずほは食器を置くと、朔夜に「着替えさせてください」とだけ告げ、ひとりで浄野の持ってきてくれたたらいと手拭いを使う。

 体を急いで拭き清めると、着物に手を伸ばす。

 どうせ燃えてなくなってしまうのならと、余所行き用に取っていた銘仙を着て、袴を合わせる。降りた髪を手早く束髪に整え、赤いリボンを留めた。最後に腰に獅子王を差す。みずほはちらりと刀を見た。

 前までずっと握りしめ、大切に扱っていたはずの顕明連けんみょうれんは、自分のものではなかった。鈴鹿は田村家に関わる全ての女に嫉妬するのだから、顕明連をずっと振るい続けていたら、いずれ高子や春子に危害を加えていたかもしれないと思うとぞっとする。

 まだ火が回りきっていないのを確認してから、最後にぐるりと離れを見た。

 狭くて小さくて、自分はひとりだと思い込んでいた頃もあったけれど、一緒に住んでいた朔夜や浄野、遊びに来てくれる大馬のおかげで、この数ヶ月はずいぶんと楽しかったが、それももうおしまい。

 完全におしまいになってしまわない内に、決着を付けないといけない。

 みずほは離れに頭を下げると、中庭で待っている朔夜と浄野に合流した。


「炎は!?」

「ずいぶんなもんだなあ……もし顕明連でもありゃ、水を噴き出して消し去っていたかもわからんが。あの女は既に自身の刀を持って帰ったようだしな」

「そうですか……」


 洋風建築だった母屋はどんどん崩れていく。祠を巻き込んで、崩れていく中、どうにかみずほたちは田村家から脱出しようとしたとき。

 ヒュン、と風を切る音を拾った。

 見たら、母屋の柱と柱の隙間に、矢が刺さっている。こちらに弓矢を放ってきたのは、無表情な生野であった。


「お……父様……」

「貴様に父と呼ばれる覚えはない。御前様が目覚めるまで大人しくしていればよかったのに、余計なことをして」

「ふむ……今代では惜しい腕だなあ。まさか今代にも残っていたとは思わなんだ」

「楽しんでいる場合ですか!? お父様、まさかとは思いますが、我が家に火を放ったのは……」

「全ては御前様のため。ひいては田村家のため。田村家に仇なす鬼、ここで消し去ってくれよう」


 朔夜が姿を変えようとする中、みずほがぐいっと彼の袖を掴んだ。


「みずほ?」

「やめてください。お父様と戦わないで。お父様とは、私が決着をつけますから」

「あれは、お前さんを娘扱いどころか、人間扱いすらしてない男だぞ?」

「それでも、です」


 大嶽丸は朔夜と対峙し、彼に仇なしたというだけで、簡単に切り捨てて殺したのが鈴鹿だ。もしここで朔夜が積極的に生野と戦い、生野が一度でも朔夜を傷付けた場合は、彼女は簡単に子孫である父すら見捨てて殺しにかかるだろう。

 たしかに、彼は田村家の栄光以外に興味はなく、父としてどころか人間としてすら間違っていることは否定しようがない。それでも。

 みずほは人間が好きなのだ。親子とか家族とか、そういう関係にはちっともなれなかったが、それでも生野を見殺しにするような真似だけは、絶対にしたくはなかった。

 朔夜はじっとみずほを蒼い瞳で見下ろす。みずほもまたじっと彼を睨み付けた。やがて彼はふうと息を吐く。


「好きにしろ。頼むから、また俺のことを忘れてくれるなよ」

「朔夜さん、あなたは私のつまですから。もう忘れませんよ」


 そう言いながら、みずほは自身の刀を抜き、逆さに持ち直す。刃がなければ人を斬ることは叶わないが、矢を捌くことはそれでも造作もない。

 生野は鼻白む。


「舐められたものだな。鬼の娘に情けをかけられるとは」

「……あなたは私のことを娘とも、人間とも思っていないことはわかっております。私が父と呼んで、それが不快であろうことは謝ります。ですが」


 矢が飛んできた。矢はひどく遅く見え、みずほはそれを素早く斬り伏せる。矢尻が地面に転がる中、みずほは続ける。


「……それでも、あなたがいなければ、私はお義母様かあさまに会うことも、義母兄様にいさまたちに会うことも、お義姉様ねえさまに会うことも、大馬に会うことも叶いませんでした。私に家族をつくってくれたのは、あなたですから。ですから、あなたには感謝してもしきれないんです」

「……戯れ言を」

「それでも!」


 飛んできた矢を、みずほは手で受け止め、地面に投げつける。矢が地面を転がる様を、生野は驚いて見ていたが、みずほは吠えた。


「あなたが私を疎んでいるからと言って、私があなたを疎む理由になりましょうか!? 私はあなたを、こんなに愛しているのに! あなたが愛してくれないからと言って、私があなたを愛さない理由にはなりますまい! お父様を愛して、なにが悪いと言うんですか!?」


 冷遇され、愛情を与えられず、ただ人に好かれたいばかりに強くなろうとするようなこと、ただの人であったら異常な光景にしか見えなかっただろう。だが、みずほは田村家に繋がれた鬼だろうが、兵器扱いされようが、それ以前に退魔師だった。

 たとえ疎まれていたとて、人間が好きだった。幸せに生きる人々が好きだった。本当にときどき、その幸せをお裾分けしてもらえれば、それで充分だった。

 誰が彼女を愛していなくても、もう今は朔夜がいる。浄野がいる。松葉がいるし、伊藤がいるし、知り合った加奈子や杏奈、照彦がいる。これだけ友愛や親愛をもらえれば、父親の愛がなくっても充分なのだ。

 愛してもらえないからと言って、愛さない理由にはならない。だから、みずほは心の底から父への愛を叫べるのだ。

 それに冷徹な生野が言う。


「貴様……正気の沙汰とは思えぬな?」

「正気でなくて充分です! 正気でなくては、愛してはいけないんですか!?」


 弓矢が再び飛んでくるが、それもなおみずほが弾き飛ばしたのを見て、生野は「ふん」と鼻で笑う。


「本当に、気の狂った鬼の相手は、もう懲り懲りだ」


 そう吐き捨て、彼は弓矢を地面に放り投げた。そのくたびれた声に、みずほが違和感を覚えた中。彼が懐から取り出したものを見て、目を見開いた。

 その手にすっぽりと収まるそれは……拳銃である。それを自身のこみかみに押し当てたのだ。


「鬼に言いように使われるのは、もうごめんだ。どの鬼も好き勝手言い、好き勝手に生きる。どうせ今代はもうしばらくしたら厄介なことになるだろうさ。ひと足先に退散させてもらおう」


 そう言って引き金を引こうとする。みずほは叫ぶ。


「お父様……駄目……!」

「……本当に、あの女と言い、あの女の子孫と言い、好き勝手なことばかりする。我が妻を見習うといい」


 朔夜が動き、生野の手首が折れそうなほどに掴み、拳銃を空に向けた。パァンパァンと乾いた音が響いたと思ったら、生野はそのまま座り込んで、無念の顔で朔夜を見上げた。


「……あなたは、我々を憎んでいるのではなかったのですか?」

「そりゃあな。子供を奪い子種を奪い挙げ句の果てに妻まで奪ったもんが俺の子孫を名乗ってりゃ腹だって立つ。だがなあ」


 さんざん人生という人生を鈴鹿の手によって陵辱されたのは、悪玉も田村麻呂も同じだ。記憶を封印されて、起きるたびに殺されて消されていた悪玉と、伴侶が兵器として扱われるのを意識だけで黙って見ているしかできなかった田村麻呂。

 しかしそれでも、田村麻呂……朔夜とて、人間を嫌いにはなりきれなかった。


「俺のようなものを好ましいと思う時代になったんだ。千年経っても変わらんものもあるだろうが、変わるものもあるんだ。それどころか人間なんて、一日や二日で簡単に主義主張を変えることができる数少ない生き物だ」


 拳銃の中身がなくなったのを確認して、ようやく朔夜が生野から手を離した。折れるか折れないかの力加減であったが、幸い生野の手はまだ使えるようだ。


「おまけにどの時代も、平穏なんて簡単に崩れる。貴様には権力があり、力がある。今代が大変になるんだったら、なおのことイチ抜けたせずに生き残るべきだな」


 その言葉は、先祖としての言葉ではなく、この国を守る防人さきもりとして、武士もののふとして、各地を平定して回った、征夷大将軍のものだった。

 彼の豊かな金髪が、炎で照らされてきらめいた。

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