大正

 彼女の中には、大量の少女の記憶があった。

 たかが十七年ほどしか生きていない自我であったら、押し流されても仕方がないほどに、何度も何度も彼女は生きて、そして首を刎ねられて死んだ。

 都で夜な夜な魑魅魍魎と戦っていた結果、魑魅魍魎の手先と勘違いされて検非違使に追われたこともあった。

 時の幕府に仕え、退魔師として朝敵と認定された敵を狩りに行ったこともあった。

 ただの少女として生きた記憶はごくわずかで、彼女は貴族の姫君や大名の姫君を、ときおり羨ましく見ながら、ぼこぼこに豆だらけになった手で刀を振るい続けていた。

 封印が解かれ、大量に流れ込んできた記憶の濁流の中、彼女はその中で静かに眠っていた。

 このまま目が覚めなければいい。

 このまま楽になりたい。

 自分が普通の少女として生きることは無理なのだから──だって自分は、そもそも人間ですらなかったではないか。ただの少女になりたいなどと、おこがましいにも程がある。

 そのまま忘却できてしまえばよかったが、それでも彼女は全てを捨て去ることができなかった。


──みずほ


 今の彼女の名前を呼ぶ、優しい声。

 千年も忘れていたというのに、それでも宝物のように名前を呼んでくれる、大切な人。

 自分はどうしようもなかったのに。

 大事な大事な我が子を奪われ、記憶を奪われ、自分自身の魂を陵辱の限りを尽くされたというのに。

 それでもこの人を再び忘れてしまうことだけは、できなかった。


──みずほ


 心配する、自身を案じる声。

 この人はずっと自分を騙し続けていたというのに。兄でもないのに、肉親ですらないのに。

 それでも、この人のおかげで、自分は寂しくなかった。

 ただの少女であり、妹になれたのは、この人のおかげだった。


──みずほ

 ──みずほさん

  ──みずほちゃん

 ──みずほさん

  ──みずほちゃん


 退魔師として戦い、様々な人に出会った。

 時には自身の力のなさを思い知ったこともあるし、全員を助けられた訳ではないけれど、時には感謝されることもあり、それが嬉しかった。

 純喫茶で洋菓子を食べ、珈琲を飲むのは、普通の少女になれる数少ない時間であった。

 この人たちを忘れたくない。この人たちと共に生きたい。

 でも。


「私は、人間ではありませんよ」


 怖くて、足が竦んだ。

 もし人間ではないと知られてしまったら、拒絶されるかもしれない。怖がられるかもしれない。もしかしたら、遠ざけられてしまうかもしれない。

 彼女はそれに脅えていたところで、いつものように稲穂のような豊かな金髪が揺れ、空の蒼を湛えた瞳が、こちらを見ていることに気が付いた。


「みずほ、帰ろう」

「……あのう、ひとつだけ聞いても、いいですか?」

「なんだ?」


 朔夜は……田村麻呂は、自分のことを悪玉だと知っていた。だからこそ、自分に対して優しかったのだろう。

 田村みずほに対しては、その情は向いていたのだろうか。


「私のことを我が妻と呼ぶのは、私が悪玉だからですか? それとも、田村みずほだからですか?」

「本当にお前さんは、考えても埒の明かないことばかりで悩むなあ」


 本当にいつもの調子で軽口を叩くので、彼女は脱力するが、それでも彼女にとっては重要なことだった。

 自分を必要としてくれる人のところに戻りたい──彼にとって、必要な人として。

 彼は真っ直ぐに彼女を見ると、いつもの調子で彼女の頭をかき混ぜた。リボンを留めた束髪が乱れる。


「そうさなあ……お前さんを妻と呼んだのは、悪玉だからだがなあ。俺はどちらのことも好いているが、今代のお前さんは殊の外臆病だからなあ。求婚しそびれたんだ」

「……それって」

「なあ、みずほ。あれを平らげたら、俺の妻になってくれないか?」


 それはあまりにも真っ直ぐで、飾り気のない求婚であった。

 彼女はどっと熱を持つ。

 これは自分が望んだことだったんだろうか。それとも、なにかしらの方法で彼が関与しているんだろうか。

 彼女は火照る頬に手を当てて、ただひと言告げた。


「……私が起きたら、もう一度言ってください。あなたのことを愛しています。千年前も、今も」


 彼が──朔夜が破顔したのを見て、彼女も──田村みずほも微笑んだ。

 これがうたかたの夢であろうとなかろうと、今度こそ共に生きて共に死ぬ。

 あの女──鈴鹿に、今度こそ勝って、何度も何度も繰り返された輪廻を断ち切る。みずほの意識は浮上した。

 覚醒しようとする意識の中で、かつての自分──悪玉を見つけた。

 悪玉は田村麻呂と千熊丸にだけ見せた、穏やかな笑みを浮かべていた。彼女の唇が、緩く動く。


──あの人によろしく伝えて。私の中のひとり


 みずほは頷いた。

 さよなら、かつての私。あなたの分も、私は生きて死ぬから。

 視界は徐々に白んできた。覚醒するのだ。


****


「ん……」


 喉から息が漏れたとき、痰が絡んでいることに気付いた。いったいどれだけ眠ってしまっていたのだろう。

 彼女がうっすらと目を開こうとしたとき、夢の中でまで見た、稲穂を思わせる金髪が飛び込んできて、ぎょっとして飛び起きた。

 朔夜がみずほに添い寝をしていたのである。

 普段から机越しとは言えど眠っているのだが、こうして添い寝をされた覚えがなく、彼女はパクパクと口を開く。


「なななななな……」

「……ああ、目が覚めたか」

「さ、朔夜さん……! どうして、こんなところで眠ってらっしゃるのですか!?」

「お前さんがうなされていたから、ちゃんと熟睡できるように子守歌を歌っていたんだが、途中で眠ってしまったみたいだなあ。ああ……お前さんは、みずほでかまわないな?」


 気遣わしげに蒼い瞳が揺れる。それに、みずほははっとした。

 喉に痰が絡むほどの眠っていたということは、数日間意識が目覚めなかったことに他ならない。

 そして彼が恐れたのは、千年分の記憶が流し込まれて、田村みずほの自我が消失するかもしれないということだろうか。

 みずほは、大きく頷いた。


「心配かけて申し訳ございません。私は田村みずほ。かつて、悪玉という名の鬼だった……今は人間が好きな、鬼です」


 彼女のひと言に朔夜は少しだけ目を瞬かせたあと、彼女を抱き寄せた。普段であったら羞恥が勝って抵抗していただろうが、今の彼女にとってこれは決して恥ずかしいことではなかった。

 みずほは彼の大きな背中に腕を回す。

 この温度を忘れていた。この匂いを忘れていた。この蒼い瞳を忘れていた。この金色の髪を忘れていた。

 忘れていることすら受け止めてくれたこの人のことを、自分は心から慕っている。


「……鈴鹿との戦いが終わったら、どこか遠くへ行きませんか?」

「うん?」


 みずほの問いかけに、朔夜は彼女の御髪に指を滑らせながら意味を尋ねる。みずほは言う。


「今度こそ、子供を失わず、誰かに利用されることもなく、誰かに迷惑をかけることもなく、生きてみたいんです」

「難しい相談だがなあ……誰かに迷惑かけずに生きるなんていうのは」

「そうでしょうか……」

「だが、俺とお前さんだったら、やってやれないこともないだろうさ。あの女を、狩らねばならんなあ」


 同じ人を好きになったにも関わらず、順番が逆だったがために、彼女は怒り狂って好きな男の家を乗っ取ってしまった。

 彼女の怒りは千年くらいでは治まることはなかったが、今度こそ治まってもらわなければ困る。

 みずほは鈴鹿のことを憎んではいるが──同時に彼女のことをもっとも理解していた。

 今度こそ、彼女を殺さなければいけない。

 みずほは朔夜の言葉に、わずかばかりの憐れみを込めて、小さく「はい」と答えたのだ。


****


──おのれ

 ──おのれ、おのれおのれ

  ──おのれおのれおのれおのれおのれ


 日ノ本全土に放たれた魑魅魍魎は、被害に遭った人間の肉塊を少し、また少しと彼女の元に運び込み、少しずつ、本当に少しずつ彼女の肉体を修復していっていた。

 大六天魔王の娘の肉体を貫いたのは、天照大神の使いの腕だ。肉は焼け、呪いとなり、焼けた部分が修復するのに苦労したが、彼女の宝蔵のひと振りを天照大神を祀る伊勢に奉納したことにより、わずかばかり呪いが和らぎ、千年かかってやっと完治しかかっているが。

 自分と感動の再会を果たすよう、千年経ったら封印が緩むように仕掛けていた彼女のつまの田村麻呂は、彼女の肉体が完成する前に、よりによって記憶を失った悪玉を見つけてしまい、彼女に自身の封印を解くように促してしまった。

 田村家の次期当主の浄野は、悪玉に惚れてしまい、鈴鹿が体を奪ってもなお、彼女を殺しきることができなかった。

 悪玉はふたりに守られ、今ものうのうと生きている。


──千年経ってもまだ、あの男を狂わす女は変わっておらぬということか


「御前様、どうなさいますか?」


 静かに生野が尋ねる。彼は自身の一族の繁栄以外になにも望んではおらず、正義感もなければ家族愛もなく、魑魅魍魎をばら撒くのになんの躊躇もしない男でなかなかに御しやすかったが。

 今の鈴鹿を怒らせるには充分だった。


──あと少しで、わらわは目覚める。この屋敷に火を放て

「……は?」


 鈴鹿の知る限り、数少ない人のような声を上げるので、わずかばかり鈴鹿の気は晴れた。


──この屋敷の住民は既に逃げおおせているだろう。浄野はお人好しが過ぎるからなあ

「ですが、ここには御前様を司るものが数多く残っております。ここを燃やすとなったら、御前様がこの時代で生きるにはなかなかに難しいのでは?」

──たわけ


 癇癪を起こした鈴鹿は、宝蔵から短刀を生野の首が落ちないぎりぎりのところで堕とした。声に続いて、表情まで人間らしくなったことに、鈴鹿は胸がすいた。


──田村家の管理をするのが貴様だろうが。貴様たちにわらわはどれだけ恩恵を与えたと思う。わらわの宝蔵のものをどれだけ金に換えた? わらわの貸し与えた魑魅魍魎で警察を牛耳っているのは誰か? そろそろわらわが目覚めるということで、なんとかわらわが目覚めぬよう、ぬし様の封印を緩めて倒してもらおうなんて画作したのを、わらわが知らぬと思うておったか? 祠から出られぬからなにも知らぬと、本気で思っていた訳ではあるまいなあ? その点、浄野は裏切り者ながらわらわの気質をよく存じておったし、わらわの怒りを買わぬ方法を模索しておったぞ? 貴様のようなうつけと違ってなあ……!!」

「うう……っっ」


 またも短刀がばらばらと降り注いできた。今度は生野の頬をわざと掠め、彼の頬からは血が噴き出た。

 鈴鹿はからからと笑う。


──どうせここにあるものはがらくたよ。わらわの宝蔵の中でも、そこそこ人が扱えるものしか出しておらぬでなあ。貴様が宝惜しさに命を捨てるのであれば、それはそれであっぱれだとわらわ自ら首を斬り堕としてくれてもかまわぬが、わらわに命乞いをしたくば、きちんとわらわの使命を果たせ。できたならば、いい子いい子してやるぞ

「……御前様。私は」

──ほれ、やるのか? やらぬのか?


 裏切り者なれど、鈴鹿の中ではまだ浄野のほうが見込みはあったが、生野は権力と野望に固執して、それを突かれたらたちまち駄目になると踏んでいた。

 そして、警察の人間であり暴力を振るう側の人間ほど、暴力に弱い──彼女の肉体のあった千年前ならいざ知らず、この時代の人間は特に暴力にめっぽう弱いのだから、生野ばかりが軟弱な訳ではない──。

 しばらく頬に手を当て、血を拭いながら呆然としていた生野であったが、やがて首を縦に振った。


「……御前様の、仰せのままに」

──わかればよい、わかれば。早う火を付けてまいれ


 ようやく蔵から生野が去って行ったのを見ながら、鈴鹿は鼻で笑った。

 火を放てば、その間に時間が稼げる。あと本当に少しで完全に復活できるのだから。

 鬼の恋は濃い。既に千年も経ってしまい、既に彼女の中の恋は執着へ、執着からおぞましい呪いへと変貌を遂げていたが、彼女はそれに気付く素振りも見せない。

 かつての思い人は既に伴侶と出会っていてもなお、彼女は諦めてはいなかった。

 諦められたら、千年もかけてはいない。

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