天照
みずほは内なる悪玉と話を付けると、自身の中にふつふつと沸き上がる力を指に込める。
神通力の使い方をようやく思い出したのだから、まだ勝機はある。
みずほはじっと鈴鹿を睨んだ。
憐れな女であり──自分がなったかもしれない女の姿だ。殺す殺さないはともかく、彼女を止めないことには、またいらぬ犠牲が出るだろう。
みずほは自身の傷口にその手を当てる。
血が滴り、すっかりと銘仙の袖を真っ赤に染め上げ、ずしりと重みが増している。
傷口に手を触れると、みずほは一瞬だけ目を閉じてから、手に力を込めた。
みずほは──悪玉は、手先に炎をともらせると、それで一気に自身の傷口を焼いた。
騒速丸と大通連が付けた傷口が、徐々に塞がっていく。みずほ自身の熱くて水分が抜け落ちそうな錯覚に陥るが、血が出続けるよりはよっぽどいい。
彼女は息を切らして、眼前の敵を見た。
鈴鹿は鼻で笑う。
「ふん、とうとう神通力を思い出したか。抵抗せず大人しく殺されていれば、これ以上苦しまなくともよかったというのに」
「いい加減なことを……おっしゃらないでください……っ!」
みずほは吠える。それに短く朔夜は「落ち着け」とだけ言う。
「あれはお前さんを煽っているんだ。煽りに乗るな。足元をすくわれるぞ」
「……わかっております」
みずほは一瞬目を閉じ、自身の提げる獅子王に力を込める。やがて獅子王の刀身に、炎が点った。
鈴鹿は手を広げると、再び比翼の鳥は飛んできた。
鉤爪が再び、みずほの肩を抉らんと迫る中、みずほは刀身の炎で牽制をする。
朔夜も弓矢で牽制し、比翼の鳥を寄せ付けないが、それでもなお、比翼の鳥は嘶いて、肉を寄越せと襲ってくる。
「……みずほ、あの鳥は厄介だ。片方を引き剥がせば、おそらくは羽根は比翼。飛ぶことができずに落ちるだろうが。同時に攻撃しなければ意味があるまい」
朔夜は低い声でそう告げる。それにみずほはじっと比翼の鳥を見た。
互いに身を寄せ合って飛んでいるため、両方の鉤爪で肩の身を抉られたものの、羽根はたしかにどちらも片方しか存在していない。どちらも同時に攻撃しなければいけないのならば骨が折れるが、片方だけならば、まだなんとか対処できそうだ。
「片方だけならば、攻撃を当てることも可能かと思います。朔夜さんはどうなさるおつもりですか?」
「比翼の鳥を引き剥がす。俺の刀を襲うのは気が進まないが、あれにやられたことを思えば、仕方があるまい」
「そうですか」
みずほはなにも答えなかった。
朔夜のほうが、みずほよりもよっぽど怒っているように思える。みずほは何度も記憶を漂白されて眠らされていたが、彼は千年間も封印され身動きが取れないまま、妻が殺され続けるのを何度も見せつけられていたのだから、怒りが持続してもしょうがないのだろう。怒りを蓄え続けなかった分だけ、彼女のほうがまだマシなのかもしれない。
……どちらがよかった悪かったの問題でもないが、みずほは口を開く。
「私が騒速丸を狙います。朔夜さんは、大通連のほうを」
「……すまんな、お前さんは天照大神の眷属だ。本来なら大通連のほうが分がいいだろうに」
「かまいません。自分の刀と戦うのは、やりにくいでしょうから」
「元、だがな」
ようやくいつもの調子に戻った朔夜にほっとしてから、みずほは獅子王を握りしめた。
炎が点り、空から飛んでくる比翼の鳥の嘶きを耳にする。
「行くぞ」
「はい」
夫婦の会話は短く、ふたり揃って地面を蹴った。
朔夜は再び弓に矢を番うと、素早く射抜く。クエェェェェと嘶く水鳥は、姿を何度も透かして矢を体に通してしまうが、何度も何度も体を透かしてしまえば、比翼で飛び続けることは叶うまい。
朔夜の腕力で放たれる矢は、やがて大通連の水鳥に当たり、一本矢が刺さるたびに「クギャア!」「クギャア!」と耳をつんざくような悲鳴を上げた。
朔夜がその嘶きを無視して矢を放ち続ける中、隣でみずほは獅子王を振るって騒速丸と力比べを続けていた。
一度はみずほの肩の身を食いちぎったのだ、もうひとたび抉らんとばかりに鉤爪を光らせるのを、みずほは紙一重で獅子王の炎を使って追い払っていた。
「……いい加減に、なさい!」
「クギャア!!」
火の粉を散らして、騒速丸の火の鳥はみずほを抉ろうとするが、それでもなお、みずほはせき止めていた。
せき止めながら、自身の神通力を流し込む。みずほのぬばだまの髪が、ぶわりと広がる。
みずほは元は悪玉だ。悪玉は天照大神の使いであり、眷属であり、元は
彼女は高天原から鏡を渡しに来た話は、色を交えて語られている。
鏡を見て、自分を映し出し、自分自身を省みよ
欲望のまま民を苦しめるような【我】が映ったならば、その【我】を除け
鏡から【我】を除いた姿こそが、神だ。
みずほは歯を食いしばって、獅子王を振りかぶった。獅子王の刃に、騒速丸の姿を映し出し、その姿を炎を持って焼き払う。
たとえ動きが速くとも、動作が過激だろうとも、刀身に映り込んだ姿だけは、嘘偽りはない。刀身を鏡に見立てて、みずほは騒速丸に向かって炎を放ったのである。
火の鳥は、最初こそ抵抗したものの、炎と日。厄災と神秘。どちらの力が強いかは、似て非なる力を持ってして証明された。
火の鳥はプスプスと音を立てて焦げ付いていく。
それを見ていた鈴鹿は、やっと鳥の姿を解き、刀に戻して手元に戻した。そこには焦げ付いた刀身に、刃こぼれがし、ぼろぼろとなった刀身の刀が姿を見せた。
「ぬし様……なんということを……!」
「だから何度も言っただろう、貴様にぬし様と呼ばれる筋合いはないと」
鈴鹿の甘い声に、朔夜はどこまでいっても冷たかったが。ここでようやく比翼を使えなくなったのだから、一対一で戦うことができよう。
みずほは、ぐいっと朔夜の裾を掴んで、彼を自身の背後に戻す。
「……みずほ?」
「ここから先は、私と鈴鹿の話し合いです。どうか、朔夜さんは手を出さないでください」
「……あれは、お前さんの話を聞くようなたまではないぞ?」
「そうかもしれません。ですが、そうじゃないかもしれません。私とあのひとの違いなんて、あなたに先に出会えたか否かしかありませんから」
そう言って、みずほは獅子王に炎を点す。それは朔夜がかつての得物、騒速丸のように。
それをしばらく朔夜は見たあと、小さく息を吐いた。
「……俺はこれ以上、お前さんが死ぬところは見たくないぞ」
「大丈夫です。もう、あなたより先に死ぬことはありませんから」
「……そう言ってくれるな」
「あなたと生きると、決めたのですから」
みずほはそう言って艶やかに微笑んだ。
その笑みを見て、朔夜は少しばかり苦いものが込み上げた。
たしかに彼女は悪玉であり、みずほなのだと。千年もの間の、繰り返し殺され続けた記憶を引き受けながらも、田村みずほという少女の人格は消え失せることはなかった。
悪玉は人間を嫌い抜いていたが、みずほはどこまでいっても人間が恋しくて、それが第一なのだ……少しばかりは自己保身に走って欲しいが、彼女はなかなかままならない。
彼女が戦場に行く前に「みずほ」と呼ぶ。
「はい?」
一瞬振り返った彼女の顎を持ち上げると、朔夜は軽く口付けた。彼女が意識あるときに彼女の唇を奪うのは、今代では初めてだった。
一瞬なにが起こっているのかわからないという顔をしたあと、みずほは途端に顔を真っ赤にして、髪の毛を猫のように逆立てる。
「なに考えているんですか! ここは戦場ですよ!?」
「いや、お前さんが俺のことを忘れんようにな。お前さんは本当にしょっちゅう無茶をするのだから、くれぐれもお前さんの体はお前さんだけのものだと思ってくれるなよ」
そう軽い口調で言われて、みずほはぎくりとする。
彼の前で、無茶な戦いをした覚えはないが、彼女自身無茶苦茶な戦い方をしている覚えはものすごくある。見てもいないのに知っていたのかという表情を浮かべるみずほに、朔夜はしたり顔をする。
「お前さんはわかりやすいからな……鈴鹿は、お前さんが本当に無茶をしなければ勝てない相手だろうからこそ、お前さんが自分を大事にしないだろうと思ってな。本当に……お前さん自身を惜しんでくれ」
軽い口調から一転、顔を引き締めてそう告げる朔夜に、みずほは重々しく頷く。
「……わかりました。どうか、私を見守っていてください。でも、手だけは決して出さないでください」
「わかっているよ。お前さんはそういうところ、本当に頑固だからな」
軽く手を振られ、ようやくみずほは背を向けた。
鈴鹿は今にも殺さんばかりの顔で、金色の瞳でみずほを射殺さんとばかりに睨みつけている。
「……そうやって、何度も何度もぬし様をたぶらかしてきたのか」
「私は、あの方をたぶらかした覚えはございません。あの方が大事なだけです」
「戯言を……っ!!」
鈴鹿は手に顕明連を構えた。そこからは水が滴り、みずほの獅子王と対になる。
顕明連と獅子王。本科と写し。鈴鹿と悪玉。水と炎。
全てが対比するふたりが並ぶ。
ただぬばだまの髪のみが同じ、ふたりの鬼女。
道に敷き詰められていた石はひっくり返り、割れ、あちこちがすっかりと傷んでしまっている。
ふたりを割るかのように、ひゅるりらと冷たい風が吹き抜けたところで、互いに地面を踏んで、刀を振るった。
顕明連と獅子王の刃と刃が打ち合い、火花が散る。炎を水が打ち消そうと跳ね上がり、水を炎が蒸発させようと燃え上がる。
ギリギリと組み合ったまま、さらに打ち込みがかけられる。みずほの太刀筋は、既に本来の型通りのものからは外れ、力任せ神通力任せな鈴鹿に合わせるべく、力でごり押しの、刀がへしゃげても仕方がない打ち方に切り替わっている。それは悪玉の記憶を取り戻したゆえだろう。
その力任せな打ち合いは、何度も何度も交わされた。
街路樹を力任せに踏んづけて場所を移動し、上からみずほの首をへし折らんとばかりに顕明連を振り回す鈴鹿。対してみずほは、あくまで踏むのは地面のみ。鈴鹿が力任せに踏み台にした街路樹は、みしみしと音を立てて折れていく。このまま何度も何度も街路樹を踏み台にして飛び回られたら、町の街路樹は全て鈴鹿により折られてしまうだろう。
ただでさえどんどん町並が変わってきているというのに、彼女はそんなことを気にもしない。みずほが力任せな鈴鹿の太刀筋を捌きながら吠える。
「あなたは……本当に朔夜さん以外、どうでもいいのですか!?」
「逆に聞こう。貴様はぬし様以外で大切なものがあるというのか? まさか、自分を騙し続けていた身内が大事だというのではあるまいなあ?」
鈴鹿の嘲りを、みずほは心底憐れに思った。
彼女は本当に、千年もの間なにも変わらず、なにもわからなかったのだと。
「……ええ、
田村家の当主である生野も次期当主である浄野も、鈴鹿を出し抜くことなんてできなかったが。
高子に洋食を出してもらったことを覚えている。春子がこっそりとみずほに食事を出してくれることを、大馬が離れに遊びに来ることを、知っている。
初等学校で出会った松葉には、【喫茶やしろ】で出会った伊藤には、潜入捜査で出会った照彦や杏奈には。騙された覚えなんてない。皆、自分の力で見つけた、大切な人たちだ。
「それに、だからどうしたっていうんですか!?」
みずほは叫ぶ。力の限り。
「私があの人たちのことを愛していることと、あの人たちに騙されていることと、どうして関係があるんですか!? 私は騙されているから愛しているんじゃありません! 私が愛していたいから愛している、それだけなんですから! 騙されたってかまわないんです! 嘘をつかれても結構です! それは私の気持ちを否定することではありませんから!」
悪玉のとき、悪玉には田村麻呂以外に信頼できるものはいなかったし、千熊丸以上に愛情を注げる相手などいなかった。周りは敵か自分を利用することしか知らない人間しかいなかったのだから、余計に人間が嫌いになっていた。
でも今はそうではない。
今代に、大切なものがたくさんできたのだ。
避難して、今はいない皆が帰ってくる場所を守るのが、今のみずほの役目のはずだ。
彼女の言葉を、鈴鹿は鼻で笑う。
「ふん、小賢しい。ただの弱者の馴れ合いではないか」
「それのなにがいけないというのですか!? あなたは……朔夜さん以外のものは、子孫ですらどうでもいいじゃないですか!」
「ああ、どうでもいいさ。わらわが自由になるために利用しただけ……ぬし様以外にも欲する貴様のような強欲なものに、ぬし様はやらぬわ!」
鈴鹿は冷たくみずほの叫びを一蹴すると、文字通り顕明連で水を大きくかけたのだ。それにみずほは「くぅっ!」と悲鳴を上げる。
「ぬし様以外、わらわはいらぬ。他は嫌いじゃ、疎ましい。貴様は心底おめでたい奴じゃのう……よかろう、死んでもまだ懲りぬというのなら、貴様が絶望するまで繰り返すまでのことよ」
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