六道・五

 六道。

 地獄道、餓鬼道、畜生道を持って、三悪趣とされている。

 そして修羅道、人道、天道を持って、三善趣とされ、みずほが戻ろうとしているのは人道である。

 あとひとつ。あとひとつ上がれば、彼女は朔夜の元に帰れる。

 だがみずほはこのとき、すこんと抜け落ちていた。

 最後の道、修羅道は、別名では四悪趣と呼ばれるほどに、たちの悪い場所だということを。


****


 蝶の羽ばたきを追いかけ、鱗粉の粉を纏わせながら、みずほは走っていた。途中崖をよじ登ったり、大きな谷を飛び越えたりしなければならなかったが、ここは六道、みずほの内の世界。ここでは彼女は人間に対して取り繕う必要はどこにもなく、このまま走っていけばよかった。

 もうすぐ朔夜に会える。

 あとひとり、天狗を斬らなければならないものの、彼女はようやく彼に会えるのだと思えば、我慢ができた。

 最後に助走しなければ飛び越えることのできないような深い谷に辿り着いたとき、みずほは大きく息を吸って、吐いて、一気に駆け抜けた。自分を取り繕う必要のない場所は、こんなに呼吸がしやすかったのかと、今更ながらに彼女が思った。

 ストン。と蝶の鱗粉を浴びながら到着したとき、途端に彼女を射貫くような気配が襲ったことで、彼女は身を大きく震わせた。

 今までは、ここは彼女の世界であり、魑魅魍魎との戦いのような気配は存在していなかったが。ここは違う。

 明らかにここは、戦場。彼女が普段魑魅魍魎や鬼と斬った張ったをしている場所と、そっくりそのまま同じ空気が辺り一面に張り巡らされていたのだ。


「な、に……これは……」


 みずほは獅子王を抜いた。ここは彼女の内なる世界。あれだけ何度も血を吸おうとも、その刃は刃こぼれせずに存在していた。

 彼女が刃を抜き払った途端、彼女は頭上に刀を掲げた。大きく火花が飛び散り、刃は痺れるような重みを味わった。

 みずほは頭上を見て、目を見開いた。

 束髪に赤いリボンを留め、それ以外は真っ黒な着物。烏の面で顔半分を隠し、背中には黒い羽根を生やしている……そして、今まで出会った天狗の得物は錫杖だったにもかかわらず、この女の天狗の持っている得物だけは、刀だった。

 その刃紋は何年も彼女の傍にあったのだから、見間違えるはずがない……女の天狗が構えているのは、顕明連であった。


「……あなたは」


 彼女はみずほの問いになにも答えない。ただ、彼女に刀を持って迫り、刃を掲げてくるという事実だけ。今までの天狗は、みずほに問答を持ち込んできたが、彼女だけは違う……本気で、みずほを殺しにかかっているのだ。

 修羅道。そこは鬼となった人間の住まう世界。地獄道、餓鬼道、畜生道では、理由のある悪意がそこに広がり、みずほを蝕んでいたが、この修羅道だけは三善趣の一画とされる場所だ。ここでは、悪意には明確な理由はなく、ただ破壊衝動という、鬼の本質のみが支配している。

 みずほは顕明連を獅子王で受け止め、どうにか力を込めて押し返そうとするが、その力は拮抗していた。

 彼女だけがなにも語らない、彼女だけはなにも言わない。その理由は、なにも語らずともみずほにははっきりと理解ができた。

 ……最愛の人に会いたくば、力を示せ。力のないものは、帰って鈴鹿と対峙しても、生きて生涯を終える保証はどこにもないのだから、ここで朽ち果てよ。そういうことだ。


「……私は、帰らねばならないんです」


 それは前世の夫だからではない。悪玉の伴侶だからではない。

 今代を生きる田村みずほが、朔夜を欲しているからに他ならない。

 今までの道で、さんざん天狗たちに問答をけしかけられた。本当だけで生きることを疎み、感情だけで行動することを戒め、憎悪だけを剥き出しにすることを拒絶された。

 それらは全て、みずほの中でしっかりと根を張っている。

 みずほは力を振り絞って、天狗を跳ね飛ばした。


「そこをどきなさい! 私は、あの人の元に帰るんです! 帰らなければならないんです!!」


 鬼女の恋は濃い。

 でもみずほは決して盲目ではない。

 かつて悪玉が、坂上田村麻呂に恋したように、みずほは朔夜に出会い、少しずつ想いを育んだ。彼を傷付け、彼を待たせ、それでも許して愛してくれた彼を、今度こそひとりにはしたくない。

 今度こそ、共に生きて、共に果て、共にあの世に向かうのだ。

 今はまだ、別れのときではない。


「どけぇぇぇぇぇぇ!!」


 みずほは大きく獅子王を突き出したが、彼女は否応なく羽根を羽ばたかせて跳び、彼女の突きを避けると、みずほに向かって再び一閃をぶつけてきた。

 みずほはそれを受けるが、顕明連は途端にぶわり、と形を変える。

 顕明連は水のように溶けたかと思いきや、ぶわりと薄膜のように広がったのだ。そしてその広がった薄膜は、雨のようにみずほに向かって降り注ごうとしてきた……先程の戦いで、鈴鹿がしてきたことそのものだ。

 みずほは獅子王を掲げる。


「させません!!」


 もうあの攻撃は全て捌き、全て避けた。そう何度も何度も同じ攻撃で遅れを取らない。

 みずほは吠え、目の前の女性は少しだけ口元を緩めた。その笑みはみずほには見覚えがあった。


****


 黒漆剣を手にした朔夜に、鈴鹿の得物が降り注いでいた。


「ぬし様。何故そこまで必死になるのですか。わらわと千年後を生きるのは、そんなに嫌?」

「ああ、嫌だね。俺は、貴様と千年生きることより、我が妻と残りの人生を共にし、共に死ぬことにしか興味はない」

「どうして……!!」


 鈴鹿の叫びに、朔夜は冷たい眼差しを向ける。みずほには決して見せない顔だ。

 そんなこと決まっている。


「俺は人間だ。そして我が妻も、人間として生きたいんだ。永遠なんぞには興味がない。貴様が邪魔をしないのならば、残りの人生好きに生きるがいいが、既に貴様も手遅れであろう」


 彼女のために、いったい何人の人間が犠牲になったのか。

 魑魅魍魎の餌にされた人々、それでもなお彼女を先祖と慕った朔夜と鈴鹿の子孫たち、なにも知らずわからないまま、夜に脅える人々……。

 とてもじゃないが、これ以上鈴鹿の犠牲者を出すつもりにはなれない。今日ここで、彼女に引導を渡すべきだ。

 朔夜がブン、と黒漆剣を一閃させると、降り注いできた得物を全て叩き落とす。いくら雷や氷、毒を含んでいたとしても、出す前に振り払ってしまえば、どうとでもなる。朔夜のでたらめな強さが、ただの剣すらも神刀や霊剣にも勝らずとも劣らない力を与えていた。

 ようやく、鈴鹿の懐にまで王手となった。鈴鹿は金色の瞳で、じっと朔夜の蒼い瞳を見つめていた。

 突き出せば、終わる。朔夜が黒漆剣で彼女の首を突こうと構えたとき。

 鈴鹿の口元は、ふっと綻んだ。


「ぬし様、観念なさいませ」


 彼女のひと言と共に、地響きが轟いたのだ。

 彼女の足下は捲れ上がっているとは言えど、本来は石で舗装された道だったはずだ。それが、急にポコポコとマグマのように沸騰しはじめたのだ。

 火山口のように沸き立つ地面からは、しゅるしゅると黒い手が伸びてくる。

 そうだ、彼女は大六天魔王の娘。みずほを六道に突き落としたのと同じく、朔夜をも六道へ突き落とそうとしているのだ。

 みずほはみずほの六道へと突き落とされたが、朔夜は違う。

 朔夜を鈴鹿の六道へと突き落とし、彼を全否定した上で壊し、未来永劫鈴鹿の手元に置くつもりなのだ。それは果たして、もう「ぬし様」と読んでいた伴侶にしたい男なのかどうかも、定かではないというのに。

 朔夜はどうにか黒漆剣で黒い手をはね除けるが、それでもなお、執拗に手は伸びてくる。


「き、さま……!! どこまで自分勝手なんだ……!!」

「勝手? 好きは全てより上でございましょう? もう、悪玉には決してわらわのぬし様には触れさせはせぬ。未来永劫、どこまでもわらわとぬし様は共に生きるのだからなあ……!! はは、ははははは、あははははははは……!!」


 どこまでいっても、鈴鹿は朔夜のことを理解しようとはしていなかった。彼女は愛を叫び愛を謳いながらも、どこまでも彼の顔を見ていなかったのだ。

 彼がどれだけ嫌悪と憎悪の眼差しで彼女の金色の瞳を射貫いていたとしても、彼女には届かない。だから彼女にはわからない。

 鈴鹿は第六天魔王の娘。六道の主の子。それは人道を生きる人間とは、どこまでいっても噛み合わず、認めず、わからない。ただ欲しいから欲する、愛しているから愛する、そこに相手の気持ちを汲み取る努力は、一切ない。

 それが彼女以外の全てを苦しめている事実を、彼女は未だに理解してはいなかった。


****


 みずほと天狗の激突は、続いていた。

 獅子王を大きく一閃させれば、顕明連がそれを捌いて受け止め、顕明連が適格に突きを打ち込んできたら、獅子王がそれをはたき落とす。

 それはまるで、鏡と戦っているようなもので、みずほが頭を張り巡らせて相手の動きを読み、先回りしても、彼女に先を越されて攻撃は相殺されてしまう。

 この堂々巡りで、少しずつ、本当に少しずつみずほは削れていっていた。いくら六道がみずほの内に潜む世界とはいえど、ここを支配しているのはみずほ本人だ。みずほがくたびれてしまい、全てを放棄したら、彼女は六道で命を落としてしまう。そうなってしまったら、二度と朔夜には会えまい。

 みずほは削れても疲れ果てても、それでもどうにか気力を振り絞っていたのは、朔夜に会いたいというその一心だけだった、

 彼の稲穂を思わせる金色の髪を眺めたい、空を思わせる澄み切った蒼い瞳に見つめられたい、彼の温度を、彼の分厚い手を、彼のかさりとした唇を、みずほはもう知ってしまっている。

 それだけで、彼女は充分力を出せた。

 そのとき。彼女は胸の中に一瞬、氷を放り込まれたような冷たさを覚えた。人道で、元の場所で、彼になにかあったのだろうか。

 途端に、みずほの中で膨大な熱量が爆発する。


「どけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ…………!!」


 みずほの中の悪玉の神通力が、彼女に熱をもたらし、その大きな熱で踏み出された一閃が、ようやく天狗の胸に届いたのだ。

 天狗は大きく血を流して倒れ、そして面は割れた。

 鏡のような戦いになるはずだ、倒れていたのは、みずほそのものの少女だった。

 彼女がなにも語らないのも決まっている。全てみずほの内なる声であり、なにを言ってもみずほが考えていることしか、言葉にならないからだ。

 彼女は笑いもしなければ、怒りもしない、ただ無表情のまま、みずほを見ていた。

 みずほは獅子王を大きく振り、血を振り払うと鞘に収めた。

 彼女はみずほの中のみずほ。もし自分が退魔師として、朔夜に会うことなく浄野に首を斬られるまで魑魅魍魎と戦っていたら、ありえたかもしれない姿。

 彼女はなにも語ることなく、そのまま朽ち果てて崩れ落ちてしまった。みずほは彼女に対して、かける言葉はなかった。

 きっと、自分自身になにを言われても、突っぱねて無視していたか、腹を立ててそっぽを向いていただけだから、これでいいのだ。


「これで、最後ですよね……どうやって帰ればいいんでしょうか」


 みずほの独り言と同時に、だんだん辺りが崩れてきたことに気付いた。


「え……?」


 落ちていく。地面が、崖が、山が、谷が。全てばらばらに落ちていってしまう。

 困る。自分は朔夜の元に帰るのだ。こんなところで、死にたくなんてない。


「朔夜さん、朔夜さん……!!」


 天狗を全て倒したのに。どうして、騙されたの。待って、待って……!!

 必死で崩れていく道から逃れようと、みずほが走り出したとき。


──このまま、落ち行く大地に飛び込んで


 悪玉の声を聞いた。

 みずほは驚いて辺りを覗うが、悪玉はみずほだ。見えるはずがない。みずほは崩れ落ちる大地を見た。本当にこんなところに飛び込んで、帰れるんだろうか。

 彼女は目を閉じ、そのまま大きく跳んだ。


──ぬし様が、大変だから。共にあの女を滅しましょう


 その声を耳にしながら、みずほは獅子王の柄に触れた。

 大丈夫、まだ戦える。そう思いながら、みずほは悪玉の声に頷いた。

 もうすぐ、彼の元に帰れる。出口はもうすぐだ。

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