寄宿
黄昏時は
既に空は金色の雲の筋だけをうっすらと残して、
その中、少女は必死に寄宿舎への道を小走りで帰っていた。
追いかけている小説の最新刊が出ると知り、こっそりと寄宿舎を抜け出して本屋へと走っていたのだ。そのまま公園で夢中で読みふけっていたら、こんな時間になってしまった。
早く帰らないと、門限になってしまう。また寄宿舎の寮母にこてんぱんに搾られると思って震えながら走っていたとき。
するりと影が伸びた。
「え……?」
次の瞬間、少女の姿は、影も形も消えていた。
彼女が大事に持っていた本だけが、ぱたりと地面に落ちたまま。
****
「女学生が行方不明になる事件が多発しているんだ」
朝餉の時間、浄野がみずほの用意したお膳を食べながら口を開いた。
厚揚げとねぎの味噌汁をすすり、味噌床に漬けた魚を割って食べる。香の物は瓜であった。
みずほはそれに「まあ……」と顔を潜ませる。
「先日の川姫の騒動以降は、あの川原では誰も行方不明にはなっていませんが」
「うん、場所が変わっている。そうでなくても、最近はこの辺りは治安が悪い。魑魅魍魎だけのせいではないのかもしれないね」
「力のない方から順番にかどわかすなんて、ひど過ぎます」
浄野とみずほが憤った声を上げながらお膳のものを次々と平らげるのを、朔夜は怜悧な瞳で眺め「ふむ」と顎を手にする。
「魑魅魍魎以外の行方不明事件というのは?」
「ああ……これは新聞にも上がったから言いますけれど。最近女学生の斬殺事件が相次いでいるんです。和製切り裂きジャックだと謳われてしまって、こちらも参っていますよ」
「わせいきりさきじゃっく……?」
朔夜は馴染みのない言葉に首を傾げて金髪を揺らすと、浄野は「ああ……」と言った。
「朔夜様は知らなくても仕方ないかと思います。数十年前に、
「外つ国の話がわざわざ流れてきてたのか……」
「ええ……娼婦が猟奇的に殺された話です。普通に気にくわないから殺すのだったら、痴情のもつれと察するのですけど……彼女たちはそれぞれ、内臓を切り裂かれて持って行かれていたんです」
今まで、連続殺人事件はそこまで珍しくなかったものの、事情が事情で世界的に有名な事件へと発展していったのであった。
当時の英吉利では、新聞で事件を追うというのが一種の流行だった。さらに新聞で連載が開始された「シャーロック・ホームズ」は陰惨な事件を華麗に解決するとして持て囃され、日本でも探偵小説の流行を生み出したのだった。
犯人の候補は挙がっていても、確証がなくて逮捕できない、未解決事件。
それらは探偵小説の流行と相まって、海を渡った日本でもあれやこれやと言われ続けている。本国でも未だに、解決していない。
浄野の話を黙って聞いていた朔夜は「じゃあ」と口を開く。
「近くで起こっている連続女学生殺人事件も、猟奇的なものなのか?」
「ああ……そう、なりますねえ……」
浄野はちらりとみずほを見た。学校に通っていないみずほと近い年頃の少女たちが殺されているのだから、口にするのも躊躇われるのだろうが、みずほは静かに「私のことはお気になさらず」と言いながら、味噌漬けを食べている。
それに観念したように、浄野は口を開いた。
「……被害者は全員、顔を潰されていたんです」
「顔、ねえ……」
朔夜はコリコリと瓜の香の物を食べていると、みずほが話に割って入る。
「こちらの事件は、お気の毒なんですが……まだ連続行方不明事件のほうは、なんとかならないんでしょうか?」
「そうだね……連続殺人事件のほうもまだ調査中で、魑魅魍魎の仕業と判断されていないのだけれど。行方不明事件のほうは共通項が見つかってね。そちらも調べたけれどなにも見つからなかったから、みずほのほうに話が回ってきたんだよ」
「共通項、ですか」
それらは新聞には書かれていなかったということは、警察からの情報規制がかかっているのだろう。みずほが背筋を伸ばすと、浄野は困った顔をする。
「女学生たちは全員、同じ女学校の寄宿舎の生徒たちなんだよ。なによりも高官のご令嬢たちの通う学校なために、警察も露骨に捜査ができなくってね……だから、みずほに調査依頼が来たんだ……正直、警察がこんなことを頼むのは情けない限りなんだけれど」
「んー……? それが困るのか?」
朔夜が飲み込めない顔をしているのに、浄野が説明を付け加える。
「基本的に、女学校は男子禁制です。教師まで女性で固めているので、警察の調査が進まないんです」
「押し入って調べれば済む話だろ」
「今は警察権限とはいえど、女性の中に無理に入れば問題になるんですよ」
「面倒な話だな……」
ふたりのやり取りを聞きながら、みずほは「ええっと……」と困った声を上げる。
「つまりは、これが魑魅魍魎の事件か否かすらも、わかってないということですか?」
「ああ、そうなるね。だから困っているけれど、これ以上事件を長引かせる訳にもいかないし……正直、こちらの事件に人手を割ける余裕がないんだ」
「まあ……そうなってしまいますよね」
片や連続殺人事件で犯人が捕まっていない。片や連続行方不明事件だが、今のところは死傷者が出ていない。どちらも人手を有するが、優先するのは明らかに前者だろう。
「わかりました。私はいったいどうすればよろしいんでしょうか?」
****
海兵の服を模した、セーラー服。黄色いタイはなかなか可愛らしいが、スカートから少しばかり日焼けしていない太股が見えて落ち着かない。
一応日傘は持たせてもらえたものの、肝心の
「あのう……
「この学校ではこれが制服だからね。女性にも教育を、自由をという校風を表すために、セーラー服を取り入れたんだそうだ。魑魅魍魎の案件か否かだけ連絡を入れておくれ。なお、みずほは今は便宜上、田村姓ではなくて、
「……荻原、ですか」
その姓は義母の高子の実家のものであった。田村家は金を出し、荻原家では華族として保ってきた人脈を出す。今でも両家の付き合いは存在しているため、今回の事件の調査に行き詰まった浄野が高子に頭を下げたのだろうと思うと、みずほもまた申し訳なく思う。
「お
「母上も、口ではああ言っているだけで、別にみずほが気に病むほどのことはなにもないからね。あまり気にしないように」
「はい……」
みずほは頷いた。
さんざん文句を言って、みずほから離れたがらなかった朔夜は、家の離れに置いていくことにした。そもそも朔夜はがたいがいいのだから、仮に女装して潜入しようとしてもどこからどう見ても男なのだし、なによりも金髪碧眼の姿なんて人目に付き過ぎる。
やがて、学校が見えてきた。
石造りの校舎は行ったこともない外国を思わせ、壁を蔦が這う様は美しい。
浄野は校長室まで行くと、みずほとふたりで頭を下げた。この学校の校長は、着物を着た上品な女性であった。
「今回は捜査協力、誠にありがとうございます。こちらが潜入捜査を務める」
「……荻原みずほと申します。どうぞよろしくお願いします」
「まあ、ご丁寧に。こちらこそ、表だって捜査協力ができずに申し訳ございません。行方不明になった子たちの中には、この学校に寄付をしてくださっている方もおられますので、大事になったらゴシップ記事を書かれてしまい、たとえ見つかったとしてもうちの子たちが記者に追いかけ回されてしまいますので……」
なるほど、とみずほは思った。
殺人事件も行方不明事件も、規模はどちらも大きいのだが、行方不明事件のほうはほとんど新聞にも書かれていない。大方スキャンダルをでっち上げられたくないこの学校に寄付をしている華族なり豪商なりが新聞社に根回しして、記事にするのを止めているのだろう。
なによりも、みずほのように魑魅魍魎退治以外は比較的自由に生活できる娘のほうが珍しく、基本的に女子は父の所有物だ。行方不明になった娘という触れ込みが出たら嫁のもらい手がなく、政略結婚もままならなくなるのを避けたいのだろう。
嫌な話。と少しだけげんなりするものの、校長は心底生徒たちを心配している様子なのだけが救いだった。
「……生徒の皆さんのこと、心中お察しいたします。それでは、寄宿舎に入り次第調査に移らせていただきますので、どうぞよろしくお願いします」
「はい、本当にどうぞよろしくお願いします」
申し訳ないくらいに何度も何度も頭を下げる校長に会釈した後、校長室を後にする。
浄野は心底申し訳ない顔でみずほを見た。
「お前だけにこんなに危ない橋を渡らせて本当に済まないね」
「いえ、まだ魑魅魍魎の仕業と決まった訳ではありませんから」
「むしろ俺は、今回はどうか魑魅魍魎のせいであってくれと思うよ。魑魅魍魎は倒せば終わるけれど、人の起こした事件なんて、みずほにだって危害が及ぶかもしれないじゃないか」
「
「ああ、そうかもしれないけど。とにかく、校長室からなら連絡ができるから。そこから毎日連絡をおくれ。危ないと判断したら、なんとしてでも迎えに行くから」
「
普段であったら物腰柔らかな浄野が、本当に珍しく取り乱しているのを宥めすかしてから、ようやくみずほは寄宿舎へと向かった。
校舎のほうは美しい洋風建築だったというのに、寄宿舎のほうは一転して昔ながらの和風建築であった。木造の長屋のような建物の玄関に向かい、みずほは寮母に挨拶を済ませる。
「ああ、あなたが新入りさんね。相部屋になるから、相部屋の子と仲良くしてね」
そう言われて中に入ると。みずほは肌が粟立つことに気付き、足を止めた。
寮母の使っている寮監室までだったらなにもなかったというのに、学生たちが使っている部屋に進もうとすればするほど、違和感を覚えるのだ。みずほは自然と日傘をぎゅっと手に持つ。
一歩一歩歩くごとに、目を閉じ、ときおり日傘を床に付けて気配を探る。しかし、何故か気配を捉えることができない。まるでカサカサと、油虫のように移動しているのだ。
魑魅魍魎は、場所や人に取り憑き、そこに巣くって餌となる人を招き入れることがある。前に尋ねた伊藤の部屋に巣くっていたそれは、まだ小さい
この気配の魑魅魍魎は、既に意志をもって、餌を探している。
比較的なんでもできる朔夜がいたら、さっさと魑魅魍魎の位置を特定して叩いていただろうに……と思ったところで、みずほは首を振る。
彼の封印が解ける前から、自分は退魔師だったのだから。彼に頼ることばかり覚えてどうする。そう思い、再び日傘に意識を集中させているとき。
「なにやっているの? 風水?」
集中が途切れた。
こちらを不思議そうな顔で眺めているのは、長い髪を耳隠しにまとめて花飾りで留めている、勝ち気な瞳の少女であった。みずほは慌てて日傘を手に掛ける。
「い、いえ……初めての寄宿生活に馴染めるよう、願掛けと言いますか……」
「ああ、あなたが相部屋になる子なのね。ようこそ、
そう言いながら彼女は部屋へと案内してくれた。
四畳ほどの部屋で、学習机と布団をふたり分出してしまったらもう手狭というありさまであった。
「私、
「お、荻原、みずほと申します……」
「ふうん。みずほね。珍しいわね。転校生なんて。最近物騒だから、新しい人が来るとほっとしちゃう。仲良くしましょうね」
彼女の快活な雰囲気は、今も元気に純喫茶で働いている松葉を思わせ、自然とみずほはほっとした。
「はい、よろしくお願いします」
そういえば。とみずほは気付く。
廊下ではあれだけ気配を出していた魑魅魍魎が、部屋に入った途端に気配を消したということに。
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