付喪

 伊藤に案内され、みずほたちは彼の下宿先へと向かった。

 元号が大正に改められて数年経つが、路地裏は戦争景気に沸き立つ好景気も、入ってくる西洋文化も関係なく、昔ながらの暮らしが今でも残っているようだった。

 路地裏の端っこで子供たちが駒を回しているのを横目に、伊藤が「ここです」と指し示した先には、路地裏にあるにしては存外綺麗な建物が存在した。


「ここは元々は士族の別邸だったらしいんですが、売りに出されましてね。今の大家が買い取って下宿となっているんですよ」

「なるほど」


 士族がわざわざ別邸を持っているのなんて、めかけを囲っているときくらいだ。

 そういえば、父はどこで母を囲っていたのだろうとふと思ったが、みずほからしてみれば気付いたときには母がいなかったのだから、父がどこでどうやって母と知り合い、看取ったのかは知らないままだ。

 一瞬考えたことをそっと受け流しながら、伊藤に案内されて玄関を入っていった。

 どこもかしこも簡素な雰囲気で嫌みではなく、ときどき見られるなんでもかんでも西洋風にすればいいと、引き戸に薔薇窓なんてごたごたしたことをしたがる西洋かぶれと比べれば趣味がいいんだろうと思いながら進んでいると。

 かさかさ……となにかが這って出てきた。

 油虫ではない。魑魅魍魎だ。それを黙ってみずほは日傘で突き刺すと、魑魅魍魎は「ぴぎゃー」と声を上げて消えた。伊藤はいきなりみずほが日傘を突いたのに振り返り、不思議そうに首を傾げた。


「どうかなさいましたか?」

「ごめんなさい、油虫が出ていたもので……伊藤先生の資料が虫で食われてしまわないか心配になってしまいます」

「わあ、教えてくださりありがとうございます。虫除けは充分行っているつもりですが、資料が食われてしまったら、折角の歴史が失われてしまいますからね。このことはあとで大家にも報告しておきます」


 みずほの誤魔化しに生真面目に返す伊藤に、彼女は朔夜と顔を見合わせる。朔夜は蒼い瞳に怜悧な光を宿して、じっと廊下の奥を眺めていた。

 それに気付いて彼女は小さく声をかけてみる。


「あのう、なにか見つけたんですか?」

「いや。今はまだ」


 短い返しに、みずほは首を傾げながらも、伊藤に疑問をぶつけてみることにした。


「そういえば、歴史とひと口におっしゃっても、いろいろとございますね。伊藤先生は歴史のどこを専攻なさっているんですか?」

「ああ、自分は古代史を研究しているんですよ。千年ほど前の歴史ですね。この時代は本当に一部の貴族の日記以外に民衆の暮らしぶりがわかるものがなくて、特に都以外の民衆の生活は、定期的にその土地に出向いて発掘作業に参加する以外に研究する方法がないんですよ」


 それにみずほの心臓が跳ねるような気がした。

 もし伊藤に資料を見せてもらったら、朔夜の正体を割ることもできるかもしれない。

 みずほの心の逸る気持ちはさておいて、朔夜は朔夜で伊藤に質問を投げつける。


「なるほど。たしかに千年ほど前になりましたら、まだ文字の読み書きも民衆には広まっておらず、記述だけではなにもわからないでしょうから、貴重になりますね」

「おや、朔夜さんも勉強熱心ですね。それで、この間は民衆の生活がわかり得るかもしれないものが発掘されまして。まだ鑑定は出していないのですが」

「ほお……ですが、自分たちは学者ではありませんが……資料ならともかく、そんな貴重なものを見ても……?」

「大丈夫ですよ。むしろ、歴史を好きになってくれる人が増えたほうが嬉しいですから」


 伊藤が妙に浮かれている。思えば、【純喫茶やしろ】で必死に書いていた論文とは、その資料のことだろうか。

 やがて突き当たりの部屋に辿り着いた。


「ここは資料が多いですから、大家さんに頼んで鉄板を床に敷いているんですよ。資料で下宿先が傾いてもいけませんからね」

「そ、そこまで資料を積んでるんですか!?」

「そうしなかったら研究なんてできませんしね。それじゃあ開けます」


 そう言って開けた途端。みずほはガサガサガサガサッ……という音を耳にした。

 伊藤が開けた部屋は、見事なまでに真っ黒な魑魅魍魎で満ちていた。もし見える人間であったら「ひい…………っっ!」と悲鳴を上げていただろうし、霊剣の力で潰すことのできるみずほですら、口元を手で抑えなかったら声が漏れていただろう。

 朔夜は顔をしかめた。


「ずいぶんとまあ……学者先生も憑かれてしまったもんだなあ」

「あ、呆れている場合ではありませんよ!? 今はまだ、力を蓄えてはいませんが、こんなものが成長してしまったら、この下宿はひとたまりもありません! なによりも、伊藤先生の体に悪いじゃないですか……!」


 本来、気が穢れれば魑魅魍魎が現れ、より気を穢すという巡回が起こる。

 しかしこれだけ魑魅魍魎が多かったら、今は元気な伊藤もいずれは気を病む。気が病めば余計に魑魅魍魎に付け入る隙を与えてしまうだろう。

 これだけの魑魅魍魎、日傘ひとつでどうにかなるんだろうかと、ぎゅっとみずほは日傘の柄を持ち直すが、朔夜が「まあ待て」と肩を叩く。

 これだけ部屋を覆い尽くす魑魅魍魎の中でも、見えていない伊藤は元気に見せたいという資料の発掘をしていた。

 真っ黒な魑魅魍魎から目を逸らして部屋を確認すれば、窓は暗幕が張られて、外が見えないようになっていた。光で資料が焼けてしまわないようにする配慮だろう。部屋には大量に棚が設置され、その上に桐箱が並んでいるのが見える。そして虫除けに香が漂っている。おまけにこの部屋は角部屋なのか士族の別邸だった経緯なのか、風通りが驚くほどいいから、定期的に虫干しさえしておけば、貴重な資料が傷むこともなさそうだ。

 ……もっとも、人が住む部屋としては間違っているにも程があるが。

 松葉が彼を気にしているのは、恋慕だけでなく、普通に体に悪い生活を続けている影響だろう。

 朔夜は棚からひとつの桐箱を取り出した伊藤に声をかけた。


「ずいぶん管理が行き届いていますね」

「ええ。普段は日本各地を行ったり来たりしている上、論文も外で書いてしまいますから滅多に帰ってこないんですけど。本当は大学に置いておかなければいけないものもありますが、折角足を伸ばして手に入れたものを、早くに手放してしまうのがもったいなくって」


 学者というものは皆こうなんだろうか。遠い目になりそうながら、桐箱を床に降ろした。

 そしてふたりに手袋を渡す。


「それでは、手袋を嵌めてくださいね。見るときは上から見てください」


 伊藤も手袋を嵌めると、桐箱を開けた。

 途端に、みずほは目眩を起こした。中に入っていたのは鏡だが……明らかにこの鏡が原因だ、魑魅魍魎は。

 伊藤はにこにこと笑う。


「昔から鏡は身だしなみ用、嫁入り道具以外に、祭具として使用されてきました。そんな貴重な、青銅以外でできた鏡は初めて見つかったんですよ。唐からの輸入品の場合、神獣を鋳出したものが多いんですけれど、これはないでしょう?」


 みずほは困った顔で朔夜を見ると、朔夜は頭が痛そうな顔をしていた。貴重なものらしいが、この鏡は明らかに危険な雰囲気を醸し出している。そして朔夜が「みずほ」と彼女に耳打ちした。


「……はっきり言っていいか? たしかに、これは今のお前さんたちからしてみれば歴史価値が高いんだろうさ。だがこれは」

「はい」

「……呪具じゅぐだ。これが魑魅魍魎を吐き出している」

「……はあ……?」


 みずほは口をあんぐりと開けた。

 呪具なんてもの、耳にしたことはあっても、見たことはない。しかも千年前の呪具なんて、今初めて見たようなものだ。

 朔夜は苦々しく頷いた。


「どの時代も、人間が権力闘争で競争相手を呪殺しようとして、それを埋めていた。それは効かなくてもいいんだ。それが出てきて騒ぎになり、誰が埋めたのか、首謀者は誰だと大事おおごとにさえなれば、相手に付け入る隙ができるんだからな。まさかそれが……千年の時を経て掘り起こされるとは、首謀者だって思っていなかっただろうさ」

「どうするんですか……そもそもこれ、割ってしまっても大丈夫なもんなんですか?」

「別にこんなもの割ってもかまわん。それでこの部屋の魑魅魍魎だって力を失い、すぐに消滅するだろうさ。だが、まあ……」


 伊藤はにこにこしながら、ふたりが聞いているのを確認もせずにしゃべり続けている。


「発掘されたときは驚きました。こんなに綺麗な鏡が綺麗なまま残っているとは。しかも貴族邸とは関係ない場所ですよ。もしそうなったら、金属の鋳造技術の普及の年代がひっくり返るかもわかりません」

「あのう……」

「今までの慣例では、日本に金属の鋳造技術が伝わったとされているのは、紀元前とされてきて、それまでは祭具扱いでした。民衆の生活道具として鋳造技術が使われるようになるのはもう少し先で……」

「あ、あのう……!」


 とうとうみずほは悲鳴を上げた。ようやく伊藤はよく回る舌を止める。


「ああ、ごめんなさい。しゃべり過ぎましたね。なにか質問がありますか?」

「あのう、その鏡。もしかして昔の人が普段遣いしたものでは、ないんじゃないでしょうか……?」

「ええ……? ですが、この鏡は本当によくできていて、わざわざ飾りの鋳出もされていないので……」


 なおも言い募る伊藤と、彼の夢を鏡と一緒に叩き割るのを躊躇っているみずほの間に、朔夜が割り込んだ。


「すみません。この鏡。付喪神つくもがみになっていませんか?」

「……ええ?」

「自分、昔から日本文学を読み、古い書物も読んできたんですが、大事にしていたものに付喪が宿り、騒ぎを起こすというのを何度も目にしました」


 いきなりペラペラと語り出した朔夜の言葉に、みずほは目をぱちくりとさせていた。

 思えば。朔夜はなにかと浄野に与えられた本に目を通していた。書生という設定を通すために、わざわざ小説まで読んでいたとは思ってもみなかったが、それのおかげでかなり嘘をでっち上げている。

 最初は半信半疑だった伊藤も、だんだんと朔夜の語る大嘘に飲まれていった。


「そんな……千年も埋まっていたのに、ですか?」

「大事にされていたものが、大事にしてくれる人に呼び起こされてしまったのでしょう。ですが、付喪神は危険です。ほら」


 そう言って、朔夜はコン。と手袋越しで鏡を叩いた。

 途端に伊藤は「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」と悲鳴を上げて、尻餅を突いた。

 みずほは驚いて「伊藤先生!?」と彼に声をかけてから、朔夜に振り返る。


「な、なにをなさったんですか!?」

「論より証拠とは、この時代は言わないのか?」

「ま、まさか……伊藤先生は今、魑魅魍魎が見えているんですか?」

「鏡が吐き出している分だけだがな。鏡が悪いってことにしておかなかったら、また厄介なものを掘り起こしてしまうと思って研究が続けられなくなる。そうなったら折角これだけ苦労して集めただろう資料まで捨てかねないからな。それはいくらなんでも可哀想だろう」


 それにみずほは息を飲んだ。

 素養のない人間に、魑魅魍魎を見えるようにするなんていうのは、本当に強い力がなくてはできないものだ。朔夜は腕っ節だけが強い訳ではなく、異国の言葉を覚え、読んだ本の内容を咀嚼して自分のものにし、嘘も方便で都合のいい事実をでっち上げる……いったいこの男は本当に何物なんだと思ってしまうが。

 今は腰を抜かしてしまっている伊藤を宥めることのほうが先だ。


「伊藤先生、この鏡を割ってしまえば、全部おしまいですから。付喪神は、殺してしまいましょう。ねっ?」


 みずほは必死で宥めすかすと、伊藤は眼鏡越しに涙を溜めて、鏡を見た。


「……本当に、鏡を割ればおしまいでしょうか?」

「大丈夫です。もし駄目なら、私か朔夜さんで割り……」

「い、いえ……割ります。自分で起こしてしまったものですから、自分で割らせてください」


 涙目のまま、伊藤は鏡を床に叩き落とした。


****


 伊藤は鏡を割ったことで、相当落ち込んだが、立ち直りも早かった。


「……まあ、心霊体験は今回が初めてですが、はずれを引くのはよくあることなので。これくらいで研究を辞めるようなことはしませんよ。今まで千年前の馬糞やら、ゴミやらも発掘してきましたし、それに比べたらまだましです」

「は、はあ……」

「でもまさか、心霊体験に詳しいおふたりがいなかったらどうにもなりませんでしたね。ありがとうございます。また困ったことがありましたら、相談に乗らせてくださいね。自分、しょっちゅう純喫茶にいますから」


 そう言って笑う伊藤と別れ、みずほはなんとも言えない顔で首を傾げていた。


「ずいぶんと変わった方でしたね。折角掘り当てたものが、もし呪具だと知ったら、あの方どうしたんでしょうか?」

「そんなもの、民衆が呪詛を行っていたのかどうかの調査に乗り出していただろうから、割るのが大幅に遅れていたと思うぞ。それに、あれは貴族に命じられた下男が怖くって誤魔化すためによそに埋めたんだろうさ。そんなたいそうなものじゃない」

「……さっきから思ってましたけど、あなたはどうして千年前の貴族の事情に詳しいんですか?」

「人間なんざ、千年経ってもほとんど変わらないからなあ。お前さんの家みたいなもんさ」


 なにか、あからさまに誤魔化されたような気がする。

 みずほは少しだけ唇を尖らせたが、朔夜は機嫌良く歩くだけだ。


「しかし、この時代はいいもんだな。特に洋菓子はいいもんだ。みずほの知己に会いにがてら、また行こう」


 それにみずほは少しだけ顔を赤くする。

 千年前の男女は知らないが、今の時代、男女で出歩くことは不謹慎とされていた。

 どうしても彼といると調子が狂う。駄目だとされていることも問題ないような気がする。それでは駄目なのに。それはいけないことなのに。

 自分が田村みずほとして存在するためには、規律は守らないといけないのに。

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