珈琲
松葉はみずほと朔夜を伴い、彼女の働く店へと進んだ。
【純喫茶やしろ】と看板が出て、酒を嗜まない人々で賑わっていた。店内はふくよかな珈琲の香りが漂っている。
「ふうん、みずほの家に住み込みの書生さんだったのぉ。で、みずほにぞっこんなのねえ」
「ぞ、ぞっこんんはともかく、そうです。日本文学を勉強しているらしくって」
「へえ……で、筆名が朔夜さん。と」
浄野が設定を考えてくれてよかったと、心底みずほは思った。直情型の性格のみずほに、細かい嘘はつけない。
ふたりが本当に久し振りに出会った女同士で話を弾ませている間、朔夜は純喫茶の中を物珍しそうに眺めていた。
普段であったら、朔夜のような美丈夫が現れたら、目立つ金髪も相まって視線を独占してしまうのだが、ここでの主役は珈琲であり、洋菓子だ。通りを歩いているときよりも注目を集めることはない。
「それじゃ、今回は助けてくれたお礼に、私がおごっちゃう。珈琲とお菓子だけれど、お菓子はなにがいい? ワッフル? カステーラ? シベリアもあるけど」
「そうですねえ、じゃあワッフルをお願いしますね。ええっと、朔夜さんは……」
みずほはちらりと朔夜を見る。千年前の菓子事情はみずほもわからないが、少なくとも洋菓子がないことくらいは察しがつく。朔夜からしてみれば馴染みのないお菓子の名前ばかり聞かされて困っているだろうと思っていたら、彼は近くの席で女学生たちがおいしそうに食べているものを眺めていた。
ワッフルにはリンゴの甘露煮が挟んであり、それを女学生たちが珈琲と一緒においしくいただいていた。それにみずほはくすりと笑うと、松葉に「彼にも同じものをお願いしますね」と頼んだ。
松葉は元気よく注文を頼みに行ったのに、みずほがにこにこと手を振っていたら、朔夜は腕を組みながら彼女に声をかけてきた。
「珍しいな。お前さん、てっきり退魔以外に興味はないのかと思っていたが。ちゃんと親しい人間もいるようでよかった」
「……松葉ちゃんくらいですから。私と仲良くしてくれるような人は。彼女と私、境遇が似ているんですよ」
「ほう?」
視界に入る、笑顔の女学生たち。
「昨日ね、お姉様からお手紙をいただいたの。どう返事しようか迷ってて」
「それだったら、一緒に文房具屋に行きましょう。綺麗な便箋と封筒じゃなかったら嫌われてしまうわ」
仕方がないとはいえど、みずほにしろ松葉にしろ、女学生をしている時間は本当に短かった。
ふたりとも、女学校に上がる選択肢は存在していなかった。
みずほは初等学校卒業と同時に退魔師としての修行をはじめたし、松葉も初等学校卒業と同時に職業婦人になるしかなかったのだから。
「松葉ちゃんも、妾の子なんです。初等学校まではお父様から支援を受けていたようですが、それ以降は難しかったらしくて」
松葉は元々華族の出だったが、大正の世で商才に長けぬ華族はどんどんと没落していった。もっと手広く商売をしているような家系であったら、彼女は妾の娘とはいえども結婚の道具にされる道もあったらしいが、よくも悪くも落ちぶれたせいで、生活の支援も彼女が初等学校を卒業と同時に打ち切られ、同時に縁が切れてしまったのだという。
朔夜はそれに首を捻った。
「彼女はお前さんと違って、そこまで悩んでいるようには見えないんだが」
「私の友達になんてこと言うんですか。単純に松葉ちゃんは、泣いたところでどうしようもないから笑っているだけです」
みずほからしてみれば、不遇な生い立ちでもはつらつとしている松葉が羨ましかった。
やがて、松葉がにこやかに「お待たせしました、珈琲ふたつに、ワッフルふたつでございます!」とお盆に珈琲とワッフルを載せて運んできた。
珈琲の匂いに、さっくりとしたワッフルに間に挟まったりんごの甘露煮が艶めいている。
朔夜は怪訝な顔をしながら、ナイフとフォークを使ってワッフルをひと口大に切ると、それを頬張った。
蒼い瞳が、優しく丸まる。
「うん、うまいなこれは」
「ありがとうございます。【純喫茶やしろ】の名物菓子ですから。珈琲も冷めないうちに飲んでくださいね」
松葉がにこにこしていたら「すみません、注文を」と手を振っている客の声を受け、彼女は「少々お待ちくださいませ」と返す。
「じゃあみずほ。帰るときに私を呼んでね。私のおごりだから」
「こんなにごちそうになっちゃって……本当にありがとうございます、松葉ちゃん」
「いいのいいの。朔夜さんと逢引してらっしゃいな」
「だ、だから、本当に違うんだってば……!」
みずほの抗議の声に笑いながら松葉が去っていく中、朔夜は珈琲カップを凝視していた。
カップの中には黒い珈琲。珈琲の匂いに若干抵抗しているようだ。ワッフルはもちろんのこと、珈琲だって千年前にある訳があるまい。
「……こんなに真っ黒な飲み物は薬湯でも滅多に見ないんだが、本当に毒ではないんだろうな?」
「ええっと……結構前から飲まれているものです。難しいんでしたら、牛乳と砂糖を入れて飲みますか? それとも、松葉ちゃんに頼んで他のものでも……」
「いや、飲む」
意を決した朔夜は、がばりと珈琲カップを手に取ると、一気にそれを呷った。途端に、目を白黒とさせる。
「苦い……やっぱりこれは薬湯みたいなものじゃないか」
「えっと、大丈夫ですか? これは苦いので、甘いものと一緒に飲むんです。ワッフル食べてください」
「う、うむ……」
朔夜がワッフルをもう一度食べると、さっき見せた渋い顔が一転、穏やかなものに切り替わる。
みずほは彼が落ち着いたのに心底ほっとしながら、自分自身も珈琲を飲みつつ、ワッフルを食べはじめた。
さっくりとした生地もさることながら、間に挟んだりんごの甘露煮が絶品だ。
滅多に行かないところで、こうしておいしいものが食べられるのは嬉しい。
みずほがにこにこしていたら、ふと朔夜が店内を眺めているのに気付いた。
「あの……? なにかありましたか?」
「いや。ここはずいぶんと居心地のいい場所なのだなと思って」
「まあ、そうですね」
朔夜の指摘で、みずほは店内に気付く。
人が多くなれば多くなるほど、気が澱む。澱んだ気が魑魅魍魎を引き寄せてしまうのだが、ここは商売繁盛していて賑やかだというのに、魑魅魍魎が欠片も見当たらない。
それに松葉も、先程酔っぱらいに絡まれていたというにもかかわらず、はつらつとした空気を保ったままだ。
奥で珈琲を淹れている店主や、他の女給も元気に働いている。
その光景に、自然とみずほの口元も緩む。
「はい、本当に」
「お前さんもあんな親しい者は大切にしろ。あれはお前さんの気も決して穢すことはないだろうから」
その言葉に、みずほはきょとんとして朔夜を見上げた。
朔夜は相変わらず田村家の人間に対しては冷淡だが、本当に市井の人々には親切なのだ。たしかに酔っぱらいに対しては変な気迫を醸し出してで追い返してしまってはいたが、それ以外の人には危害を加えていない。
どうしてこんなにこの男は、鬼らしくないのだろう。
何度目かの疑問がみずほの中に浮上したとき、誰かが店内に駆け込んできた。
「しゅみませんっ、今は席が空いてますか!?」
「ああ、いらっしゃいませ。
松葉が駆け込んできた男性を見て、あからさまに頬を赤らめた。それにみずほは少しだけ驚く。
男性は身長はそこそこあるが、明らかに肩幅の足りないひょろひょろとした体躯の人だった。髪は癖毛で丸まっているし、ずいぶんと分厚い丸眼鏡をかけているし、着流しに羽織を合わせた姿も、どことなくみっともない。しかし。
手元には分厚い本をたくさん抱えているし、紙束もたくさん持っている。
松葉はいったいこの人のどこがいいのだろうかと首を捻っていたところで、彼女がみずほたちの席までやってきた。
「ごめんね、みずほ……他の席は空いてなさそうなんだけど、ここを相席にしたら、なんとかお客様が入れるんだけれど……」
「まあ……」
みずほと朔夜が通された席は丸テーブルで、たしかに詰めて座れば三人は座れる。みずほは朔夜が機嫌悪くならないかと思って彼の顔色を窺ったら、朔夜は蒼い瞳を瞬かせる。
「みずほの知己が困っているのなら、助けるのが礼儀だろう。俺は問題ないぞ」
「ああ、朔夜さん本当にありがとうございます! またお礼させてくださいね」
「ここに問題がないのならかまわんが」
松葉は何度も朔夜とみずほに頭を下げてから、伊藤と呼んでいた客をみずほたちの席に通した。
彼は申し訳なさそうに、持っていた本と紙束を積む。
「す、すみません……ここで少しだけ仕事をしてもいいでしょうか? 少し、広さが欲しいんですが」
「それはかまいませんが」
「ああ、ありがとうございます!」
そう言ってテーブルに紙と本を広げると、持ってきていた万年筆でカリカリと書きはじめた。どうも書いているものは論文のようだ。
そこへ松葉はなんの注文も取らずに珈琲を置く。そしてそっとみずほに囁いた。
「ごめんね、みずほ。伊藤様。学者さんなの」
「あの……学者さん、ですか?」
「全然そう見えないでしょう? 歴史学者さんで、いっつも日本中を飛び回っていると思ったら、帰ってきてずっと論文を書いてるの」
「そうだったんですか……」
みずほは学者という人種にはあまり馴染みがないが、すごい勢いで論文の文字が埋まっていくのは心地いい。
すごい人なんだなと納得したときだった。論文の上にガサガサとなにかが這っていることに気が付いた。
そうためらっていたときだった。
「ぶあっくしょん……っ!」
朔夜が大きくくしゃみをしたと思ったら、魑魅魍魎ごと論文の隣に積んでいた紙束を吹き飛ばしたのだ。
伊藤は顔を青褪めさせると、彼は「ああ、すまんすまん」と言いながら紙を拾い集めはじめた。紙魚のような魑魅魍魎が慌てふためいて逃げ出そうとするのを無理矢理掴んで、ブチンと叩き潰した。
みずほもまた、朔夜の隣で紙束を拾い集めながら、小さく彼に「ありがとうございます」とお礼を言ったら、朔夜は少しだけ顔をしかめた。
「学者先生、どこに行ってきたのか知らんが。ずいぶんともらってきてないか、魑魅魍魎を」
そう言って、テーブルの反対側で紙束を集めているおろおろした伊藤の背中を見た。
みずほも目を凝らしてみると、たしかに小さな虫みたいなものが見える。
あまりに小さくて紙魚と見間違えそうな魑魅魍魎が集まっている。一匹一匹はあまり力がないが、数が多い。こんなものが育ってしまったら……。また事件が起こる。
せっかくこの純喫茶は居心地がいい上に、彼は松葉の想い人なのだ。こんなところを魑魅魍魎の巣窟にされてしまったらたまったものじゃない。
どうしようかと考えあぐねていたみずほの肩を、朔夜はポンと叩いてにこやかに伊藤に声をかけた。
「すみません、自分も日本の怪奇現象について勉強しているんです。先生も勉強なさっているんですね」
朔夜の言葉に、みずほは首を傾げてしまい、拾い集めた紙束に視線を落として「あ」と呟く。
【東北怪奇現象】【関東怪奇現象】【神隠しの噂】……。
どれもこれも地方紙の片隅に書かれている怪奇現象だ。新聞を取っている人間の関心を集めて、すぐに忘れられてしまう代物だ。それらを切り抜いて、紙に貼り付けていたのだ。
伊藤は朔夜の言葉に、にこりと笑い返す。
うだつが上がらない人かと思っていたが、笑顔だけは本当に素晴らしく見える。
「おお、書生さんも怪奇現象に興味がおありで?」
「そのために日本にやってきたようなものですから」
みずほは朔夜をうろんげな顔で眺めていた。
ただでさえ異人は日本人よりも顔の彫りが深いので、実年齢がわかりづらい。朔夜はそれをいいことに、そのまま日本の怪奇現象について勉強する書生で通す気らしい。
朔夜と伊藤は互いにしゃべり、すっかりと意気投合してしまったようだ。論文をまとめ終えた朔夜は、さらに言った。
「もしよろしかったら、先生の資料を読みに邸宅まで遊びに行ってもよろしいでしょうか?」
「あー……自分は邸宅を持っているような大金持ちではありませんので、汚い下宿先になりますが。それでもよろしかったら」
「かまいませんよ。ああ、ついでに自分の世話になっている家のお嬢さんもよろしいですか?」
そう言って朔夜は目配せをしてきた。
要は伊藤が魑魅魍魎を集めてきた元凶を特定して、大本を叩けと言っているのだ。今はまだ紙魚ほどだが、ちょうどいい。
「私も初等学校から学校には行けていませんので、大学はどんな場所か興味があります。もし、伊藤先生がよろしかったら、ですが」
「ああ。いいですよ。喜んで」
にこやかに笑っている伊藤の顔を見ながら、みずほはさっさと自分の珈琲カップを空にした。
松葉の想い人なんだから、彼には無事でいてほしい。数は多いものの、小さい今の内だったら全部叩けるはずだ。
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