友人
根菜で味噌汁をつくり、半分残した根菜は出汁と醤油と酒で炊く。剥いた根菜の皮を炒めてきんぴらのようにし、魚の干物を焼く。
いつものようにみずほが朝餉をつくっていたところで、母屋から浄野がやってきた。
「今日もお疲れ様、みずほ」
「
「いやいやとんでもないよ。みずほは料理上手だ。それに最近は奥方や母上は洋食に凝っていてね。悪くはないが、こうも馴染みのないものばかり食べさせられても辟易してね。役目とはいえども、みずほや朔夜様と食事が摂れるのは都合がいいんだよ」
「まあ……」
ちなみに奥方というのは、田村家長男の
大きな商家から嫁いできた彼女は華族出身の高子とは気が合うらしく、士族には馴染みのない料理や文化もなにかと持ち込んできていた。
母屋でのことはあまり知らないが、みずほ自身は洋食に興味はあるものの、義姉と仲良くしていいものかどうかもわからず、彼女は未だにまともに春子と会話をしたことがなかった。
そんなことを思いながら、最後に糠床から茄子を取り出して刻み、それぞれを器に盛ってお膳に載せた。
お膳を持って広間に向かいがてら、みずほは昨晩の話を浄野にしてみる。
「あのう……助けた皆さんは、もう大丈夫でしょうか?」
「うん。衰弱は見られたものの、誰ひとり死んではいない。多少引きずり回された人もいたけれど、しばらく病院で安静していたら家に帰れるだろうさ」
「そうですか……本当によかったです」
みずほは心底ほっとした。
彼女に回ってきた依頼は、このところずっと死傷者が出続けていたのだから、久しぶりに被害者全員が無事な事件だったのだ。
浄野はにこやかに続ける。
「うん、そうだね。みずほの活躍のおかげだ」
「いえ……今回、私は本当になにもしていません」
「ん?」
浄野が首を傾げる中、みずほは口をつぐむ。
朔夜はいったいなんなのか、わからないのだ。
「あのう……朔夜さん、ですけれど。あの方はどうして、うちの祠の中に封印されていたんですか? あの方が、助けてくれました。本当に、一瞬で決着がついてしまったんです」
川を割るような芸当も、一瞬で何閃も太刀筋を浴びせるような真似も、ただの鬼にしては規格外であった。
そもそも先祖と対峙したことがあるということ以外、彼の口からはなにも聞いていない。
浄野は少しだけ笑みを引っ込めて、口元に指を当てる。
「……ごめん、僕にもよくわからないんだ。ふたつの祠は、お前も知っているだろう? ご先祖様たちの祠だ」
「はい……」
坂上田村麻呂と鈴鹿御前。
征夷大将軍と天女の祠。
このふたりと戦った鬼となると、このふたりはとにかく鬼退治の逸話が多過ぎて、絞り切ることができない。
そもそもみずほを妻だと言い張るのは、みずほを先祖の鈴鹿御前と混同しているのかさえわからなかった。
浄野は少しだけ眉を下げて、ひっそりとした声で告げる。
「今はお前のことを妻だと言い張っているから、手綱を握っていられる。ただもしお前を妻じゃないと言い出したときには、そのときは僕に言いなさい。朔夜様を封印し直す方法を考えるから」
「……はい」
中庭を見た。
そこには三つの祠。
ふたつにはたしかに花と季節の野菜が供えられているが、残りのひとつにはなにも供えられてはいない。
いつの間にやら、朔夜の出てきた厳重に封印されていたはずの祠の注連縄は、修繕されて再び注連縄で管理されていた。
そういえば、いくらなんでも父の生野は最後のひとつの祠のことを知っているんじゃないだろうかと思ったものの、いつ聞けるのだろうと思い、その考えを却下した。
残念ながら、生野とみずほは、高子とみずほ以上にふたりの中に溝がある。一対一で会話ができないと、諦めるしかなかった。
そうこうしている内に広間に辿り着けば、朔夜はのんびりと本を読んでいた。その読んでいた本を見て、みずほは少しだけ目を見開いた。
「朝餉ができましたが……朔夜さん、あなたいったいなにを読んでいるんですか?」
「ふむ。世間体とやらのために、書生の勉強をしろと言われてな。英語の本を読ませてもらっている」
「英語の勉強って……」
みずほは思わず浄野を見ると、浄野が苦笑した。
「いくら元号が変わったからと言っても、未だに異人が帰化している例は少ないからね。だから留学してきた書生という風にしたほうがいいんじゃないかと思ったんだよ」
「書生って……それで、英語ですか?」
初等学校までしか行っていないみずほからしてみれば、とんと縁がない言語だ。
そう上手くいくんだろうかと思っていたが、朔夜はようやく教本を閉じて、お膳のほうへと向き直った。
「『これはペンです。』って言葉、どこで使えばいいんだ? 自己紹介はわかる、目的地の尋ね方もわかるが、これだけはちっともわからん。外つ国では筆を使わないからか?」
その言葉にみずほは脱力した。
英語を習ったことのある人間だったら、誰もが思うことだ。
****
朝餉を済ませたあと、みずほは町を散策していた。久しぶりに浄野から依頼も入らなかったのだから、今日くらいは羽を伸ばしたかった。もっとも、朝の鍛錬はとっくの昔に済ませていたが。
朔夜は首を捻ってみずほに着いてきた。
相変わらず通りを歩く女性、歩く女性が朔夜に視線を集めていくが、当の本人はその視線を全て受け流している。
「今日はいったい何の用だ? あれから依頼もなかっただろう」
「散策ですよ。警察が捜査をするほどの大事に発展していない魑魅魍魎の事件もありますから、見つけ次第潰しておくんです」
「ふむ……そもそもどうしてみずほ以外に、退魔師がいないんだ?」
「ひとつは、ご先祖様の使っていたような鬼斬りの刀は、ほとんどは国の所有物になってしまって自由に使えないからでしょうか」
坂上田村麻呂が使っていたと言われている
他に源氏の惣領が持っていたとされる鬼斬りの刀のほとんどは寺社で奉納されているし、一部は天皇家の所有物となっている。
ただでさえ、廃刀令が出て久しいのだ。霊剣と呼ばれる類の物は年々減っていっているため、その分だけ退魔師の数も減ったという実情がある。
朔夜はまだ納得できない顔をする。
「ふむ……陰陽師がいたら、退魔師の数が減っても問題ないとは思うが」
「陰陽師ですか? 陰陽師がいなくなって久しいですよ。拝み屋でしたら、本当に嘘か真かわからない方々があちこちに散らばってはいますが、私も退魔師や陰陽師相当の力を持つ方にはお会いしたことがありません」
陰陽師が魑魅魍魎と戦っていたという話はたびたび語られているが、明治の世になり、陰陽寮は廃止され、そこに所属していた陰陽師たちがどうなったのかはあまり知られていない。
辻占い師や怪しげなまじない道具を売っている者の中には、陰陽師の末裔もいるとか言われているが、魑魅魍魎の気配がわかり見ることもできるみずほからしてみれば、そのほとんどはインチキ占い師にインチキ商売人だ。
大正の世で、まともな退魔師はみずほ本人以外見たことがないというのが実情であった。
朔夜は「ふむふむ」と言いながら、顎を撫で上げた。
「難儀なものだな。この時代、どこもかしこも魑魅魍魎が湧き上がっているというのに、金目当てで騙るいんちき術者しかいないというのは」
「それ、あなたは喜ぶところではないんですか?」
「おやおや、どこに俺が喜ぶ要素があるというんだ?」
鬼は人の絶望を尊ぶものかと思っていたが、朔夜はどうも違うらしい。
意地の悪いみずほの意見もするりと躱してしまうのだから、本当に調子が抜ける。
でも朔夜の言う通りなのだ。
この半年、本当に空気が澱んでいる。人の負の感情が引き寄せたのか、それともそれが原因で人の感情に影が落ちたのか。とにかくあちこちで魑魅魍魎が目の端に映るのだ。
みずほが持っている日傘の先端をガンッと打ち付ければ、「ピギャッ」と声が響く。毛虫のような魑魅魍魎が、風に溶けて消えたのだ。あれが育てば、もっと厄介な魑魅魍魎へと変わっていたことだろう。
みずほが見回りをしてどれだけ防げるのかわからないが、なにもしないよりはずっといい。
田村家の離れでただ口を開けて浄野の依頼を待っているよりは、ずっと建設的なような気がするのだ。
朔夜はのんびりと言う。
「お前さん、そこまで自分を追い込む必要はあるのかい?」
「……私は、妾の子ですから」
「ん、妾の子がどうして嫌なんだ?」
「あなたの時代は知りませんが……今のご時世、妾の子の立場は低いんです。幸い私は家に置いてもらえていますけど、売り飛ばされたり捨てられたりする子というのは、いくらでもいますから……私だって、お
自分は運がよかった。追い出されないから。
退魔師として頑張れば、皆に見てもらえる。認めてもらえる。そう思い込もうとしても、心の端では、「そうだろうか」とも思ってしまう。
退魔師として人助けをしたら、助けた人たちからは感謝の言葉をかけられるときだってある。だが、いくら退魔師として頑張ったところで、それらは見える人間でなければ見えないし、わからない人間にはいつまで経ってもわからないことなのだ。
高子からはみずほは得体の知れない妾の娘にしか見えていないし、春子からしてみればよくわからない義妹にしか見えていないことだろう。
浄野は優しいが、他の兄たちからしても、皆同じようなものだ。
必死で刀を振るっているときは考える暇などないが、ふいに暇になったとき、するりと滑り込んでくる虚しいという感情。それがみずほを蝕んでいた。
それらを聞いて、ますますもって朔夜は首を捻った。そして蒼い瞳をひょうきんに動かす。
「ますます俺にはわからんのだが」
「……それは、あなたの時代と事情が変わりますから」
「俺はお前さんに惚れ込んでいるのは、別にお前さんが役に立つからではないんだが」
「……はあ?」
我が妻、我が妻と連呼はしていたが、その次がこれだ。そもそも今のご時世、結婚もしていない男女が道端で口説くようなはしたない真似はしない。
みずほは困った顔で朔夜を見上げると、朔夜はのんびりと言葉を続ける。
「お前さんは美しいし、うまい飯をつくる。しかし
「……だから、私はそもそもどうして、あなたにそこまで言われないといけないのか、本気でわからないんですが」
朔夜の言葉のひとつひとつは、みずほが憧れ、諦めたものだ。しかしみずほは、どうして朔夜がそこまで自分が欲しい言葉をくれるのか、訳がわからなかった。
訳がわからないと、嬉しいはずの言葉が途端に怖く思えてしまうのだ。
しかし、脅える彼女に対して、朔夜はただ目を細めて笑うのだ。
「祠に閉じ込められていたときから言っているだろ。お前を守ると。それは、お前を巣食うもの全てからだ」
「……あなたは、本当に」
あなたは、だれ。
そのひと言を伝えようとしたとき。
「だから! ここはミルクホールでもカフェーでもありません! 純喫茶ですから!」
「なに言ってんだ姉ちゃん。こんなヒラヒラした格好しやがって」
「仕事着です! なに助平なこと言っているんですか!?」
声を荒げて怒っているのは、みずほと同じ年頃の少女であった。栗色の髪を夜会巻きにし、前髪にリボンをあしらっている。着ている着物に袴と前掛けをあしらった姿は、どこをどう見ても女給のそれだった。
それに絡んでいるのは赤ら顔をした男性だ。どうもどこかで飲んでいたらしい。
このところ、喫茶店も難儀なもので、酒を取り扱い、女給に性的奉仕をさせる店も増えていた。だから紅茶や珈琲だけで商売し、酒も性的奉仕も取り扱わない店は「純喫茶」と称して営業をしていた。
ぷりぷりと怒っている女給には見覚えがあり、みずほは目を瞬かせた。
「……
ぽつんとしたみずほの言葉に、朔夜は彼女を見下ろす。
「なんだ、知り合いか?」
「私の初等学校時代の友達なんです。こんなところで会うとは思っていませんでしたけど。とにかく、助けないと。あなた! こんなところでなにをやっているんですか……!」
赤ら顔の男は、みずほのほうを見ると「おおん……?」と声を上げた。
「おうおう、えらい地味な姉ちゃんじゃねえか。客を取られそうになって嫌だったのかい?」
「だから、そちらの方も純喫茶の女給だとおっしゃっているでしょう!? 失礼じゃありませんか!」
「なんだぁ……?」
酔っぱらっているのか、会話しているようでしていない。
みずほがギリッと歯を噛み締めているが。
彼女の後ろにいた朔夜がにこやかに声を上げる。
「俺の妻が、なにか?」
「……ひぃ」
赤ら顔の男が、あっという間に酔いが醒め、顔が青くなった。そのまま、路地裏へとドタトタ走っていってしまった。
「酔いが醒めた! もう飲み直しだ!」
そんなことをのたまいながら。
みずほは怪訝な顔で、朔夜のほうに振り替える。
「……いったいなにをなさったんですか?」
「いや? 俺は注意しただけだが」
ときおり、田村家の人々に心底冷たい顔を見せるのだから、本当に彼は訳がわからない。
みずほは首を傾げつつ、松葉のほうへと駆け寄っていった。
「久しぶり松葉ちゃん。純喫茶で働いてたんですねえ」
「まあ、みずほちゃん。本当にお久しぶり。さっきの酔っぱらい本当にしつこかったのよ……! それにしても、まあ……」
松葉はまじまじと朔夜を見る。
金髪は今日も真昼の日差しを受けてさらさらと流れているし、蒼い瞳も今は優し気な色を帯びている。日本人とは違う通った鼻筋に、日に当たっているにもかかわらず白磁色のままの肌。文士のような着こなしの着物も、彼が着ていると一端の文豪のように見えるのだから不思議だ。
一通り彼を見終えてから、松葉はみずほに向き直った。
「いつの間に結婚していたの。まさか異人さんと結婚しているなんて思わなかったから、びっくりしちゃったわ」
「え、いや、違……」
「ああ、我が妻の知人か」
みずほが必死で否定しようとするより前に、朔夜はにこやかに笑みを浮かべながら、彼女の肩を抱く。
「朔夜という。妻とは結婚したばかりだ」
「まあ……!」
松葉が頬を赤らめる中、みずほが悲鳴を上げる。
「だから、違いますってば!!」
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