川姫

 黄昏時である。

 空はすっかりと金色へと変わり、やがて夜闇がやってくる。

 この時間になると影が色濃くなり、舗装された道に長く伸びて不安感を煽り立てていく。

 みずほは一旦家に帰ると、刀掛けに掛けていた刀を腰に差した。その刀に視線を向け、朔夜は顔をしかめる。


「それはお前さんには重くないかい? 昼間の仕込み剣で十分だと思うが」

「いつもこの刀を使っていますので問題ありません。それに魑魅魍魎を斬るのに、他の刀では太刀筋が鈍りますから」

「そうか」


 それ以上は朔夜はなにも言わなかった。それにしても、とみずほは思う。

 昨日はたしかに背に佩いていたはずの直刀はどこに行ったのだろう。朔夜が文士のような着物を着ているときには、直刀はどこにも差していなかった……もっとも、今のご時世、刀剣の類を持っていたら警察沙汰だからこそ、みずほだって夜間でない限りは仕込み剣しか持ち歩けないのだが。


「あのう……あなたの持っていた直刀はどこに行ったんですか? 昨日たしかに背中に佩いていましたよね? 着替えて以降持ってないようですが」

「ああ、あいつか」


 朔夜はゆるりと笑う。


「あれは特殊なもんだからな。普段はないが……俺が呼べば来る」

「そうなんですか?」


 鬼が刀を振るっていたという話は聞いたことがないが、この男は本当になんなんだろう。

 みずほはそう思いつつも、朝餉に炊いたご飯を少しだけ握り固めておむすびにし、それとお新香を食べて腹を満たしてから、外へと出かけて行った。

 地味で大人しく、昼間に歩いていても目立たない控えめな少女。雑踏に紛れてしまったら、もうどこにいるのか見失ってしまうような少女。

 しかし黄昏時の彼女はどうだろうか。

 瓦斯灯がすとうはまだ点いてないというのに、彼女は爛々と輝いている。

 射干玉ぬばたまの髪はつるりと光り、長い睫毛で縁取られた瞳が凛とした強い光を放つ。

 まるで真昼の光が、彼女の美しさを薄膜で覆い隠していたかのように。闇こそが彼女を美しく飾り立てている。

 朔夜はそれに目を細めていた。

 彼女の美しさに、人は気付かない。いや、気付けない。みずほすらそれに気付いてはいないのだから。

 朔夜の視線に気付いたのか、みずほは怪訝な顔をして彼を見上げる。


「なにか?」

「いや」


 朔夜はみずほの美しさに触れることなく、ただ笑う。

 それはギラギラした危うい光を帯びていた。


「この時代の狩りとはどんなものかと思っただけだ」


 その光にみずほは少しだけ顔をしかめた。


****


 すっかりと夜になり、わずかばかりの瓦斯灯が点る川の近く。

 日が落ちたせいか、ひどく川のせせらぎの音が強く響いていた。みずほが浄野を通じて頼んだおかげで、辺りは人払いが済んでいる。

 もしそれでも押し入ってくるものがいたら、警察を無視するようなならず者か……人のことわりを無視する魑魅魍魎の類で間違いない。

 みずほは昼間に探った気配を辿り、川の畔に来ていた。

 気配を探る際に嗅いだ匂いが強くなってくるのがわかり、みずほは顔をしかめた。

 水草の絡まる匂い、魚のにおい……そして、わずかばかりの少女の放つ甘い体臭。

 みずほは腰に差した顕明連けんめいれんを抜くと、畔に伸びた草に向けてブン、と振るった。

 少女たちが草に絡まって倒れている。少女たちは胸が上下しているところからして、まだ生きているらしいが、顔色はすこぶる悪い。


「これは……」

「ふむ。ここに住む魑魅魍魎に精気を吸われたらしいなあ。どっちみちこんなに草木に絡まれていたら、逃げ出すこともできないだろうし」


 少女たちの足首、手首は草に縛り付けられて拘束されている。おまけに口に水草を突っ込まれているせいで、しゃべることすらできないでいた。

 みずほは慌てて草木を切り、少女たちの拘束を解いて、彼女たちの口に手を突っ込んで水草を引き抜いた。


「ゲホ……ゲホッ……あなたは……?」


 ひとりの少女はかろうじて口が利けるようだが、残りの少女たちは憔悴し過ぎて虚ろな瞳でみずほたちを見上げるだけだった。

 みずほはできる限り優しく彼女に話しかける。


「退魔師です。あなた方を探していました。なにがあったんですか?」

「……わかりません。夕餉の材料を買った帰り、急に力が抜けたんです。最初はぎっくり腰にでもなったんじゃないかと思ったんですが……そのままずるずるとここまで引きずり込まれて、草木に縛られていました……このまま死ぬんじゃないかと思ってましたけど、死ぬこともなく、生かされることもなく……一度警察の人が来たときも、川の中まで引きずり回されて、捜査に引っかからなかったんです……」


 みずほが起こした少女の背中は、せっかく綺麗な着物だというのに、明らかに引きずり回された土の跡が付いてしまっていた。おまけに石があるのも無視されて引きずり回されたのだろう。頭や首筋からは血が流れていた。

 みずほは「よく頑張りました、さあ警察の元に」と彼女たちを起こそうとしたものの。

 コポリ……と川から泡が噴き出た。

 それにみずほは刀を向ける。


「あ……あああ……」


 少女が喉を引きつらせる。

 あれが、彼女たちをさらった犯人だろう。

 朔夜は目を細めた。


「ふむ。川姫かわひめか」


 泡がどんどん細かくなったかと思ったら、それは姿を現わせた。

 白い着物を纏い、肌には細かい鱗が見える。

 川姫はこの国全土に存在が伝わっているが、あまり表立って活動内容が知られていない。

 川に住まう魑魅魍魎で、河童や川男などとも混同されているが、特徴としては縄張りにしている川に近付いた人間の精気を奪うということ。

 ……もっとも、人間を生かさず殺さず、わざわざ縛り付けて飼い殺しにしていた例なんて、聞いたことがない。

 川姫はみずほを見ると、にたりと笑う。


「……餌。いい……餌」

「誰が誰の餌なんですか。これだけ迷惑をかけて……!」


 川姫は長い水草のような髪を向けると、それをみずほ目掛けて大きく伸ばしはじめた。

 そして刀を持つ手を縛り上げようとする。なるほど、少女たちを逃げられないようにしていたのはそういうことなのだろう。

 伸ばしてみずほの腕を縛ろうとするより速く、彼女は刀を振るう。髪は切り落とされ、地面へと転がる。

 少女たちは怖がって座り込んだままだったが、やがてみずほから話を聞いていた少女が声を上げる。


「駄目! そいつの髪を切っても……!」


 川姫はくすくすと笑う。

 やがてみずほが切り落とした髪が、さも意思を持っているかのように襲い掛かって伸びてきた。

 それもまた、みずほが両断する。しかし切っても切っても意思を持って、伸びて彼女を捕えようと襲い掛かってくる。


「なんて……面倒な……!」


 一本が二本。

 二本が四本。

 四本が八本……。

 そして川姫もまた、長く水草のような髪を伸ばして、みずほに襲い掛かってくるのだ。

 おまけに少女たちが背後にいるものだから、全部を避けることなどできず、全部を切るしかできない。

 力を込めて、青い燐光を纏わせても、斬ることはできても完全に消すことができない。

 それらを黙って見ていた朔夜が尋ねる。


「手伝うかい?」

「あなたは……!」


 自分を守るとか昨日言っていたような気がするが、口だけだったのだろうか。これだから鬼は信用することができない。

 苛立ちながらも、みずほは伸びる水草を断ち切る。

 すっかりと増えたそれらを、みずほひとりで始末するのが難しくなってきた。

 おまけに川姫本体には傷ひとつ負わせることができないのだから、忌々しい限りだ。

 朔夜は肩を竦める。


「いや? 我が妻の見せ場を奪いたくなかっただけだが。苦戦しているようだからなあ。それにお前さんとあれの相性は、いささか悪いと見た」

「解説は……結構です……!」


 増えに増えた水草は、だんだんひとつひとつと絡まり、網と化していた。

 その網を一刀両断できなければ、みずほは捕まるだろう。

 それを見上げながら、朔夜はゆるりと笑う。


「そうだなあ。困っている妻を助けてこそ、夫を語れるというものか」


 そうひとりごちると、朔夜は右手を挙げた。


「来い──……」


 途端に、なにかが彼の手に治まった。

 昨日たしかに見たはずの、大きな直刀だ。

 しかし彼が直刀を手にした途端にどうだろうか。

 袖はぶわりと広がり、いつの間にやら着ていた着物は衣冠へと切り替わり、頭には烏帽子が乗っていた。最初に現れたときに見せた、金髪碧眼にありえない格好へと変わったのだ。

 ありえないものを見せられて、みずほが一瞬ポカンと口を開いた途端。

 水草の網が、みずほに襲い掛かってきた。

 が、朔夜が直刀を引き抜いて一閃させた途端に、それはばっと粉々に散らばってしまったのだ。粉々に散らばったそれからは、少しだけ焦げ臭いにおいが飛んだ。


「なにをしたんですか……あの川姫の水草はそもそも、斬ってもただ分裂するだけだというのに……」

「いや? あれは川姫と通じていると見た。川姫と通じぬよう、焼き殺せばいいと思ったんだが。実際に増えてはいないしなあ」


 そう難なく返され、みずほはぞっとして朔夜を見た。

 今たしかに見えたのは一閃だった。

 だが、あれが一閃ではなかったとしたら? 斬ったのではなく、熱が籠もるまで擦ったのだとしたら?

 何度も何度も熱が籠もるまで擦り付ければ、木は燃えるし、火だっておこせる。

 傍から見たら、刀身を焼いて水草を焼いたかのように見えるかもしれないが、直刀だって朔夜が呼ぶまで手元になかったし、みずほも昨晩まで彼の直刀の行方を知らなかった。


「おのれ……髪を……焼いて……」

「お前さんが俺の妻に危害を加えようとしたのが悪い」


 朔夜は直刀を川姫に向ける。

 川姫はチャプンと川へと身を投げ入れた。このまま逃げる気だろう。

 それに朔夜が直刀を振るう。


「逃がさん」


 途端に、ビリビリとした殺気が川辺を支配した。

 それは曇天の下、雷が唸る前の大地のような様相。

 恐怖のあまりに気を失ったほうが幸せというものであった。

 せっかく起きた少女たちは、そのまま失神してしまうほどの気迫だったが、不思議とみずほには心地いい。

 朔夜の放った気迫は、そのまま川を割ったのだ。

 逃げたはずの川姫は、急に川が割れ、わずかばかりの小魚や水草と一緒に川底に残され、驚いたように辺りを見渡す。

 割れた川にそのまま朔夜は躍りかかると、川姫を直刀で薙ぎ払った。

 一閃。

 あっという間に川姫の体は崩れ、さらさらと夜風に流れて消えてしまった。

 絶命した声を上げる暇さえ、与えることはなく。

 朔夜がさっさと直刀を鞘に戻して畔へと跳ぶのと同時に、割れた川は元に戻り、消えたせせらぎも元に戻ってしまった。

 みずほはそのありえない一部始終を、ただポカンと口を開けて見ていた。

 朔夜の戦いぶりは、あまりにも桁外れなのだ。

 自分の先祖はどうしてこんな男を封印できたんだとか、この男は本当になんなんだとか、いろいろ思うことはあるが。

 一番言いたいのは、何故この男がみずほを妻呼ばわりしているのかということだ。

 いつの間にやら朔夜は、浄野の用意した文士風の出で立ちに姿を変える。彼の相棒であった直刀も、忽然と姿を消してしまった。

 朔夜は着ている羽織を脱ぎながら、気絶してしまった少女たちのほうに視線を向ける。


「一応あれは退治したのだから、倒れている娘たちを運んだほうがよくないか? これ以上飲まず食わずでいたら、本気で死ぬぞ?」

「……わかっています。すぐに警察の皆さんをお呼びいたしますから」


 そう言ってみずほは、自身の刀も収めると、人払いをしてくれている警察官の元へと走っていった。

 おかしな男。訳のわからない男。

 みずほは走りながら思う。

 あれだけ強い上に、田村家の人間にひどく冷たいのに、何故か家族に危害を加えない。

 自分が田村家の人間だという、それだけの理由で。

 みずほには訳がわからなかった。

 家族に危害を加えないで欲しい。異母兄の浄野としかまともな会話すらできていないが、父も義母も、兄たちも、兄の家族も……本当に嫌いではないのだから。

 そして朔夜は、何故か田村家に関係のない人々に対しては優しい。彼は羽織を脱ぐと、なんの迷いもなく気絶した少女たちにかけてあげているのだから。

 変な男。捉えどころのない男。

 あまりにも鬼らしくない男に混乱しながらも、明かりが見えてきたことに気付く。


「行方不明になっていた子たちを発見いたしました。衰弱して、一部の方は怪我もしていますが、全員生きています。至急手当てと彼女たちの移動をお願いします!」


 後のことは、警察に任せられそうだ。

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