潜入
基本的に海外との貿易をし、最近市井の人々が喜んで食べている洋菓子などを仕入れて売っているらしいが、このところ商売の幅を広げていた。
戦争景気に沸いたところで、なにかしらやましい商売をしているのではないか。
口さがない者たちが皆、そう囁いていた。
「女中の求人はしてないんですがねえ」
小福屋の現社長の
年相応に美しい肌をしてはいるし、ぬばだまの髪は美しいが。全体的に花のない娘であった。
「はい、働かねばならない身のため、こうして頭を下げています。家事全般はできますので、なにとぞ」
押しかけてきた少女は、
こんな小娘がわざわざ働きたいと言い出すほどに、困窮しているとは。荻原家は調べた上で、ゆすって身分だけでも物にできないかと考えたところで、「あの?」とみずほが声をかける。
福井は内心を面に出すことなく、「そうですねえ」と間延びした声を上げた。
「私邸の女中としてならば、仕事のひとつふたつくらいあるでしょう。女中頭に話でも聞いてください」
「あっ、ありがとうございます……!」
頭を大きく下げるみずほに、福井は内心溜息をついた。
まあ、どら息子も、さすがにこんな地味な娘に余計なちょっかいをかけることはあるまいと。
娘でもいたら、頭のいい婿を取らせて家を継がせるのだが、残念ながら福井には出来の悪い息子しかいなかった。
最近の悩みであった。
****
みずほは、再び高子に頭を下げて、母方の親戚筋の娘として、小福屋の私邸に侵入することができた。
おそらくあの見るからに神経質な男からは、華族の小娘と思われていることだろう。
福井に通された私邸を、みずほはぐるりと見回した。
商家として羽振りを利かせているせいだろう、洋館を思わせる家であった。庭は西洋風に植物が植えられて、庭師が神経質に庭木の世話をしているのが見える。
室内は全て靴を使って歩く、欧米式であった。
女中室に案内され、話を聞く。
「……旦那様の言いつけならば。最近、若い女中が辞める例が増えていましたしね」
「そうだったんですか?」
「ええ……旦那様の私室は、仕事部屋も兼任しておられますから、ここは専属の女中に掃除を任せておりますので、そちらは結構です」
女中頭は黒いワンピースに白いエプロン、頭にヘッドドレスを付け、神経質に黒髪をひっ詰めた女性であった。きびきびしているのは仕事柄だけでなく、元々持っている性分によるものらしかった。
女中頭からみずほも制服をいただくと、彼女から作業内容を確認する。
「いいですか、それ以外の部屋は掃除をお任せ致しますが、ここは福井様の私邸ですので、くれぐれも家財に傷付けることはありませんよう。あと」
女中頭は小さく短い言葉で言う。
「……福井様のご家族とは、あまり口を利きませぬように」
「……わかりました」
女中頭の有無を言わせぬ物言いに内心首を捻りながら、みずほは了承したのだ。
みずほは制服に着替え、長い髪をリボンでひとつに束ねると、掃除をしながら辺りを窺った。
女中や他の使用人たちも、きびきびと家事全般を行っていく様は、富裕層の家ではよく見られる光景だが、なにか違和感を覚えるのだ。
みずほはひとまず廊下の掃除をはじめながら、目を閉じる。
魑魅魍魎の気配を探るが、ここにはその気配がないのだ。
それにみずほは変だと思う。
澱んだ気配が魑魅魍魎を引き寄せ、この屋敷の当主は多かれ少なかれ金に関する悶着があるはずなのに、それが綺麗さっぱり見当たらない。
たしかに【純喫茶やしろ】のように、魑魅魍魎を全く寄せ付けない場所も存在しているが、それは店長も働いている女給たちもはつらつとした気を発していて、魑魅魍魎に寄せ付ける隙をつくっていないからだ。だが、ここは。
町の現状を思わせるものだった。
このところ大きな鬼などの、ちょっとやそっとでは手に負えない魑魅魍魎が起き上がることが続き、日傘で簡単に殺せる程度の魑魅魍魎たちは、それらをおそれて見えなくなってしまっていた。まるで福井邸のなにかに脅えて姿を現さないような。
元々、みずほがここに潜入したのだって、鬼の首の手がかりを探して、その首の確保もしくは破壊が目的であったが。
まだ鬼の首はここにあるのかもしれない。
問題の鬼の首が、酒呑童子のものか大獄丸のものかはわからないが。
掃除が終わったあとに、なにかしら理由を付けて探すしかない。それこそ、女中たちの目が届かない内に。
そう思いながら掃除をしている中。
「あれ、君は新入り? 見覚えがないなあ」
男の人から声をかけられ、みずほは少しだけ驚く。
栗色の髪を油で固めた男性であった。タキシードに身を包んだ男性は、目はくりくりとしていて、眉が太く、妙に愛嬌のある顔はしているが、その愛嬌と言動が、彼を軽薄に見せていた。
みずほは女中頭の言葉を思い出す。
福井邸の人間とは、できる限り話をするなと。
「申し訳ございません。まだ掃除が終わっておりませんので」
「あれえ、これだけ美しい手を荒らすなんてもったいないね」
そう言ってみずほの持っていた雑巾をひょいとバケツに投げ込むと、彼女の手を取る。それにみずほは半眼になる。
そもそもみずほの手は決して美しくはない。日頃から木刀や刀を振るい続けている掌は、ぼこぼこと豆が浮いている。
今はいない朔夜が、いかにみずほに気を遣っていたかがよくわかった。朔夜はさんざん「我が妻」と言って亭主面をしてくるが、決してみずほをむやみやたらと触ってくるようなことはしなかったのだ。
彼は軽薄に手をぐいぐいと引っ張ってくる。
「ここじゃ風情がないし、お茶でもしようよ。女中には俺が言っておいてあげるし、俺の部屋でさあ」
みずほの腕がぽつぽつと粟立つ。
……そういえば女中頭はこうも言っていた。このところ、女中が辞めてばかりいると。この目の前の男が原因ではないだろうか。
どうしたものかとみずほは思う。はっきり言って、剣も傘も簪だってなくっても、いくらでも彼を痛めつけることはできるが、暴力女中だとしてここを追い出されても、肝心の使命が果たせない。だからと言って、この訳のわからない男のお手付きになることだけは嫌だ。
みずほは彼に引きずられている中。
「あら、あなたどうしたの! 今日は旦那様に玄関の花を活け替えるように言われていたでしょう!」
女中のひとりに大声で叫ばれて、みずほはびくりとする。
くるりと耳隠しに髪をまとめた女中であった。彼女の姿を見た途端、彼は「げえ」と顔を歪めた。
「
「坊ちゃま、ただでさえ、最近女中が辞めて人手不足ですので。くれぐれも旦那様が心労で祟られぬよう考えねばなりませんね?」
そう言って、彼がぱっと手を離したところで、みずほの手を掴んで、女中は走り出した。みずほは「あ、あの、窓掃除……!」と素っ頓狂な声を上げると、杏奈と呼ばれた女中は悪戯っぽく笑った。
「ほとぼりが冷めたら、一緒に掃除しましょう」
杏奈に手を引かれて、みずほは息を吐いた。
たしかに玄関では花を活け直すようにと、長い花々が新聞紙を広げられた上に載せられ、集められていた。
杏奈に「花を切ってね」と言われるがまま、みずほが程よく切った花を、杏奈はてきぱきと活けていく。
「あの、さっきはありがとうございます。本当に助かりました」
「あのどら息子ねえ……既に女中を五人辞めさせているの。元々大学寮に入れてたんだけど、そこで悪い遊びを覚えてきたから、こんなの野放しにできないってことで、大学を辞めさせて家に連れ戻したの」
「まあ……」
厳格な家で育てられた人間は、外に出て親の目が離れた途端に、たがが外れて花街遊びを覚えたり、賭博に走ったりすることもあるという。
女遊びを覚えたここの息子が、このままでは見知らぬ女を妊娠させかねないということで連れ戻したはいいが、今度は性欲を持て余した男が女中に手を出して辞めさせているという。それにみずほは呆れ果てたが……しかし、年がみずほとほとんど変わらない杏奈には手を出してないようだった。
「あのう……杏奈さんは……?」
「私? 多分坊ちゃまも私には苦手意識持っているから、手を出さないんじゃないかしらねえ。私、女中頭の娘だから、私が全部女中頭に報告しているし、女中頭は全部旦那様に報告しているから」
どうも厳格に躾けられていたときから知っている人間は遠巻きにしているようだった。なるほど、と思いながら最後の花を切ると、杏奈はそれをてきぱきと活け終えた。
「終わりっ! まあ、坊ちゃまも旦那様に仕事の一部を任されるようになってからは、矯正されたのかと思っていたけど、またたがが外れて女遊びをするようになってねえ……」
「遊び足りなかったとか……ですか……?」
「うーん……そうねえ、なんて言うんだろう」
杏奈は首を捻っている。主人と使用人の立場の差はあれども、彼とは幼馴染だ。なにかしら思うところがあるのだろう。
「前は、もっと器量よしがいいとか、玄人がいいとか、好みがあったんだけれど。見境がなくなったのよね。それは締付け生活に戻ったせいなのかどうか、ちょーっとわからないんだけど」
それにみずほは押し黙った。
鬼。特に三大妖怪に数えられている酒呑童子も大獄丸も、共通項が存在している。
都から女をさらい、それが原因で朝廷から討伐令が下されたのだ。それを受理したのが、
出典にもよるが、女をさらっていたのは、文字通りの意味で食うためだった他に、囲うためだったというのがある。どちらも美醜については書かれていない。
まさか……ともみずほは思う。
鬼の首に、息子はなんらかの関与をしているのではないか、と思い至ったのだ。
鬼の首は首だけとはいえど、やはり鬼だ。退魔の力も持たない人間が御しきることはまずできない上に、なにかしらの影響を受けている可能性はある。
どうやって接触するべきか。みずほはそれを考えはじめた。
****
まだ昼間ではあるが、田村家の邸宅のある付近の者たちは夕方まで帰ってこない者たちも多く、通りは極端に人通りがない。
誰にも見られないことをいいことに、朔夜は邸宅の屋根の上に上がっていた。
目を閉じ、気配を探る。
大気が震えている。なにかの到来をひどくおそれているように。
朔夜の金色の髪が、風で揺れて散らばる。
風と共に流れ込むわずかな澱みに、朔夜は顔をしかめる。
「……宝蔵の鬼の首なんぞが抜け出したせいで、いよいよ厄介なことになった」
朔夜はみずほのことを思い、胸を痛めた。
あれがせめて、人間として生きることを諦めていたら。自分は退魔のための道具と思えていたら、絶望することもなかっただろうが。
あれは相変わらず、人間が好きで、人の営みが好きで、この世界を愛していた。彼女があの頃と同じくもっと擦れていたら、違っていただろうに。
しかし、朔夜は今も昔も、彼女のありのままを愛している。
きっとみずほの瞳を曇らせ、耳を塞いでしまい、彼女の持つ鮮やかさは消えてしまうと、真実を告げることを朔夜は避け続けていたが。
もう、そう言ってられなくなるのかもしれぬ。
「それでもなあ、──。俺は、お前さんのその美しさを奪いたくはないんだ」
魂から発するその美しさを、薄い皮膜で覆って、地味で目立たなくしてしまうのは、昔からの彼女の性分であった。
彼女は無意識的に、あれを刺激することをおそれている。
あれは嫉妬深く、恨みがましく、その上執念深い。だからこそ、彼女はずっと囚われ続けている。
その長い因縁を断ち切ることは、今代を除いてもうその機会は訪れないだろうことはわかっているが。
「……参ったなあ、俺も臆病風に吹かれているようだ」
朔夜はそれでもなお、みずほを失うことをおそれている。
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