執着
中庭には、桜の木と祠が三つ並んでいる。
ここには田村家の使用人もほとんど来ることはなく、母屋と離れを繋げる廊下からのみ、ここを眺めることができる。
中庭に人が降りることは、朝と夕、計二回祠に花と供物が入れ替えられるときくらいだろうか。
それを行っているのは、父の生野と次男の浄野であった。
ときおり隙を見計らって朔夜が破壊しようとしている祠もまた、中庭に並んでいる。
生野は花を入れ替え、枯れたものを新聞紙で包みながら、浄野に尋ねる。
「いつになったら目覚められる?」
硬い口調で尋ねる。この人は、母ほどの情はなく、警察上層部に食い込んでいる人間とはいえど、市井のものを守るほどの正義感も持ち合わせてはいなかった。
彼が持ち合わせているのは、一族の繁栄だけである。
浄野は硬い口調で答える。普段、みずほの前では柔らかい口調で話しているが、それは彼女に嫌われたくないからで、他の兄弟はこちらが素であることを知っている。嘘などほとんど通用しない朔夜には、おそらくは見抜かれてしまっている。
「もうじきです」
「そうか。あれは? 力を取り戻しつつあるが」
「……完全に戻ってはいません。まだ」
「そうか。力が戻る前に、記憶が戻ってくれたほうがまだいいか。もし記憶が戻った場合、もしくは力が完全に取り戻さぬ内に……わかっているな?」
御前の前で、嘘はつけない。そして御前を祀っている父の前でも、言葉で了承すればそれは肯定と取られる。
浄野は黙秘した。それに生野は短く言う。
「あれにあまり絆されるな。あれは人ではない……化け物だ」
「……わかっています」
一族繁栄のために、脈々と受け継がれたしきたりであった。
田村家の表の次期当主は大野だが、裏の次期当主は浄野であった。
二歳違いの兄弟を分けたのは、なんてことはない。大野は田村家の血が薄くなり過ぎた結果、霊感がほとんどなかった。故に魑魅魍魎を見ることも触ることもおろか、夢渡で枕元に立った御前に気付くことも、会話を成立させることもできなかった。でもそのおかげで難を逃れ、妻を娶って子を成すことができた。大馬は田村家の呪縛から逃れている。
しかし浄野は、御前の声が聞こえたがために、逃れることができなかった。
彼は一生を父と同じく、表では警察で働きながら、裏では祠の守り人をすることとなったのである。御前の話し相手になること。御前の命ずるままに行動すること……そして、祠で飼い慣らしている鬼の管理をすること。
鬼が御しきれなくなったと判断したら、当主がその手で殺す。
なかなか死なないのが鬼ではあるが、幸いにも千年前から続く家系には、鬼殺しの剣などいくらでも存在している。
いくら人じみていたとしても、親しみやすくても、人は人で、鬼は鬼だ。そこには大河より深い溝が刻まれている。
浄野は苦痛を堪えて、母屋に戻った父と別れると、蔵へと向かった。
蔵の中の刀掛けの前に座り、報告する。
「……まだ、力は戻っておりません」
──そうか。なにやらこそこそと動いているようだな? 貴様も
女の、低くけざやかな声が響いた。
それに、浄野はぎくりとする。
この町がいつ戦場になるともわからないので、家族を……少なくとも呪縛から逃れている大野たち兄夫妻と、母、大学に泊まり込んでいる広野だけでも、逃がしたいと思うのは間違いなのか。
声は狡猾な笑い声を上げる。
──まあ、よい。先程、わらわの手持ちの刀を四振りほどばら撒いてきた
「え……?」
──藤原のはずいぶんとご立腹だったからなあ。あのがらくたにご執心だからなあ
「また……事件が起こるということですか」
──藤原のが起こしたければ起こすがよかろう。それに乗じてあれが死ねばなおよし。そろそろ力が戻るのであろう?
「まだ、力も記憶も完全には戻っておりません」
──どうせ生野にも言われただろうが
御前は嘲笑のような声から一転、低く温度のない声色を奏でる。
──せいぜい、わらわを裏切るようなことはしてくれるなよ。わらわは子孫思いなのだからなあ
それに、浄野はなんの返事もすることはできなかった。
御前は女学生が何人死のうが、この町の住民が何人死のうが、興味がないのだ。彼女がご執心なのは、田村家の人々と、彼女の夫だけなのだから。
彼は蔵から出たあと、どっと力が抜け落ちたのを感じた。御前としゃべれば、それだけ精神力を削られる。くたびれた顔をどうにか袖で拭って整える。既に、優しい匂いが離れから漂ってきていた。
その匂いを漂わせ、たすき掛けをしたみずほが出てきた。
「浄野異母兄様。あの……大馬たちがお義姉様の実家のほうにしばらく滞在すると伺ったのですが……」
みずほは困り果てた顔をしている。
ああ……と浄野は思う。大方、実家に荷物を取りに帰ってきていた広野あたりとしゃべったのだろう。元々広野とみずほは仲がよかったし、今でこそあまり口を利かなくなったものの、心配しているのは昔から変わってないのだから。
浄野はできる限り、柔和な笑みをつくる。上手く笑えているかは、自信がない。
「心配いらないよ。ちょっとした里帰りだろうしね。母上も最近はずっとぴりぴりしていたのだから、羽を休めたほうがいいだろうと、父上からの話が来たのさ。別に離縁でもなんでもない」
「ですが……」
「大丈夫だよ、みずほ」
浄野はいつものように、みずほの形のいい頭を撫でた。
彼女が生野に連れられて田村家に入ったときから、彼女を撫でるのは浄野の癖であった。
昔から自己肯定ができない彼女の頭を、よく撫でて慰めていた。なにも、変わってないのだ。
だからこそ、浄野は気持ちが揺らぐ。
家のためには鬼を殺さないといけない。だが、彼女は自己肯定できるなにもかもを奪われている彼女から、これ以上のものを奪いたくはない。それと同時に、胸の中で渦巻いている。
彼女は、今までどんなに泣いても悲しんでも、虚無の顔で打ちひしがれた顔をしたことはなかった。彼女から最後の最後のものを奪ったら、今度こそ虚無の顔を見せるのではないかと。美しいかんばせを夜まで隠した、地味で目立たない彼女の、美しいまでに虚ろな顔を、この目で拝みたい。
そこまで考えて、浄野は自分自身に絶望する。
そこまで愛するものの矜持を踏みにじるのは、御前となにが違うというのか。あのおそろしい物の血が流れているという実感が伴い、彼の胸は冷たくなるのだ。
「異母兄様?」
みずほに声をかけられ、浄野は彼女の頭を掴んでいたことに気付き、慌てて手を離す。
「ご、ごめん……」
「いえ……異母兄様、疲れてらっしゃるんでしたら、食事は止めにして、もう寝ますか?」
「いや、いただくよ。せっかくみずほがつくってくれたんだからね」
みずほは困惑のまま、台所へと帰っていった。
それにほっと浄野が息を吐いたとき、そろりと朔夜が歩いてきたことに気付いた。彼の眼光は鋭く、蒼い瞳は炎のように揺らめいていた。
「そろそろ化けの皮が剥がれてきたか?」
朔夜は冷たい声を上げた。それに浄野は背中に冷たい汗が流れることに気付く。
彼は、なにもかもを見抜いているのだから。
「僕は、あなたのようには生きられません」
「そうか」
朔夜はじっと冷たい目で浄野を見たあと、言う。
「……あれの気配が濃くなったということは、いよいよあれが目覚めるのか。いや、その前にまた騒ぎを起こす気か」
朔夜の言葉に、浄野はなにも答えられなかった。
先祖がおそろしい。田村家から逃げ出したい。でも逃げられない。あれはどこまでもどこまでも追いかけてこられるのだから、逃げ出したところで、すぐ見つかるのだ……夢渡は、距離を稼いだところで、意味をなさないのだから。
田村家に縛られて身動きの取れないみずほがいるから、浄野はぎりぎり己を保っていられたが、それすらも朔夜の出現がぐらついてきている。
霊感があったがために、一生を祠の番として生きることとなった浄野。
彼女はこの家で唯一、霊刀、
彼女のほうが不幸だから、大丈夫。大丈夫。可哀想な彼女がいるから、大丈夫……。
憐憫は執着に、執着はいつしか、恋慕へと変わっていた。
自己肯定のできない彼女は、繰り返し自己否定を続けてきた。故に人からの好意を素直に受け取ることができない。だからこそ、浄野の重い執着に気付くこともなく、恋慕にも無頓着でいられた。
それに気が付いている朔夜が、浄野に対して淡泊なはずである。
冷ややかな目で見たあと、唸るような声を上げた。
「また俺から妻を奪うようなことをしてみろ……次こそ容赦はせぬぞ」
その声に、浄野は震える。
自分の気持ちは、とてもじゃないが認められないものだ。こんな感情は呪いで、誰からも祝福されるべきものではない。
その中で、みずほはひょっこりと台所から現れた。既にたすきは解かれた後だった。
「あの……既にお膳を並べてしまいましたが……異母兄様も朔夜さんも、食事は……?」
「ああ、すまんすまん。いただこう」
「もう、朔夜さん。また異母兄様に対しておかしなことをおっしゃってませんよね?」
「さあな、どうだろう」
「もう……! おかしなことをおっしゃって異母兄様を困らせないでください! さあ、参りましょう」
ふたりのやり取りが、浄野には堪えた。
あれだけ自己否定を繰り返し、刀を振るっているとき以外は背中を丸めていた娘が、いつの間にか背中をぴんとさせて、感情を露わにしている。それをさせたのは朔夜であり、彼女が自己肯定できるようになったのも彼のおかげである。
あの可哀想な子が、憐れな子が、どんどん普通の女になっていく。
自分は御前に囚われたままだというのに。
浄野が抑え込んでいた、胸中の黒い染みが広がっていく。
いつか、朔夜に小突かれた、胸の内が。
──粘りを帯びた感情は、誰に祝福されなくてもかまわない。この感情だけは、自分のものだ
浄野は、みずほに対して、重い想いを抱いている。それは既に恋慕からは程遠い、汚泥に埋もれたなにかに成り果てていることを、浄野自身が一番よくわかっている。
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