六道・三
みずほは掴んだ糸に引っ張り上げられる。
それで辿り着いたのは、赤い水の広がる池の畔だった。気が付いたら糸は消え、みずほはひとり取り残される。
みずほは人の気配のないこの場所を、ひとりで探索することにした。腰には獅子王。その重みが、ひとりで残された不安を溶かしてくれた。大丈夫、早く戻って、朔夜を安心させないと。
走ろうと足を踏みしめたとき、ブーツがわずかばかりぬかるんだ地面に埋まることに気が付き、走ることは諦めた。仕方がない、歩こう。足早にその地を歩きはじめた。
ぴちょんぴちょんという音を立て、みずほは池の畔を歩く。血のような色をした池には、まるで血を吸い取ったかのような、真っ赤な蓮が咲いている。ここまで禍々しい色をした蓮は見たことがなく、みずほは自分の中のいったいなにが、この蓮を見せているのだろうと目に留めた。
しばらく蓮を眺め、やがてもう一度歩き出そうとしたときだった。
くぅー……。
腹の音が響いた。みずほのものではない。
「……え?」
驚いてみずほは辺りを見回したとき、しくしくと泣き声が聞こえはじめた。
「誰……ですか?」
「……ほしい、ほしい……」
小さな子供の声だった。みずほは辺りを見回したとき、綺麗に切り揃えられた黒髪に、赤い着物を着た少女が、烏の面を被って両手で顔を覆っているのが見えた。
くぅーくぅーと腹の根を鳴らした童女の背中には、烏の黒い羽が生えていた。
なんとひどい、とみずほは唇を噛む。
今まで、みずほは魑魅魍魎を斬ったことはあれども、子供の姿を取ったものとは一度たりとも相対することはなかった。しかしここはみずほの中に生まれた六道。あれを斬らなければ次の道には進めないが。
子供は斬れない。そう躊躇っていたところで、ようやく童女はみずほのほうに顔を上げた。
「あなたが、天狗ですか?」
みずほは恐る恐る聞いた。赤鬼は見ればわかると言っていた以上、間違いはないだろうが。童女は少しだけ驚いた顔をしたあと、「うん」と頷いた。
「おなかがすいた」
童女に言われ、みずほは「えっ」と戸惑った。そうは言われても、渡せるだけのものはない。そう思ったとき、みずほは自身の懐が何故か盛り上がっていることに気付いた。童女に「失礼しますね」と言ってから、そっと懐をまさぐったとき。
そこには何故か笹の包みが入っていた。思わず包みを解くと、中には塩むすびが入っている。
みずほはそれを童女の前に差し出してみせた。
「こちらで……よろしいですか?」
「……っ!」
童女はなにも言わずにみずほの手からぱっと笹の包みごとそれを奪うと、ガツガツと大きな音を立てて食らいはじめた。
みずほは少しだけ驚いた顔で彼女を眺める。これでは獣と同じではないか。
「せめて……いただきますをしてから召し上がりましょう」
「どうして?」
「どうしてと言われましても……それが礼儀です。このおにぎりは誰からいただいたのかわかりませんが、感謝してからでなければ、失礼になりますよ?」
「感謝されたいの?」
そう童女に聞かれて、みずほは「ええっと?」と尋ねる。
「おまえは感謝されたいの?」
童女は米粒だらけの口で、じっとみずほを見た。
そこでようやく、みずほはここの道の名を思い至った。
地獄道の上には餓鬼道が存在している。地獄道は延々と生前の罪と罰と向き合う場所ならば、餓鬼道は延々と飢餓と向き合う場所だ。満たされない、欲しい、足りない、もっと欲しい……。それは食欲だけではない。飢えは際限なく、彼女を蝕むのだから。
みずほは、黙って童女を見た。
「感謝されたいって、誰に対してですか?」
「魑魅魍魎をたくさん殺した。人は平穏に生きている。でも、誰もおまえがずっと魑魅魍魎を斬り殺し続けていることを知らない。今代において、刀を平然と持って歩くことは許されない。刀を振り回していると知ったら、たちまち憲兵がやってきて、おまえを連れて行く」
「そんなこと……今まで一度もありませんでした」
「それはおまえが怖いから。おまえが刀を持っていることを、誰もなにも言わない。おまえの好きな者は、おまえが刀を振り回しているのを見たら、どう思うのか?」
童女に言われ、みずほは言葉に詰まった。
親友だと思っている松葉にも、みずほは自身が退魔師であることも、夜な夜な魑魅魍魎を狩っていることも、伝えてはいなかった。
もし松葉がみずほのことを知っても、彼女は怖がらずにいてくれるのだろうか。
それに。みずほは傷を負ってもすぐに治る。一日で傷は塞がるし、三日で完調して、次の日からはもう戦っている。
人間はそれを普通とは思わない。みずほ自身、それを人に知られるのを嫌がっていた。
それを知って、どうして人間は怖がらずにいられるのだろうか。
人間は、自分とは違う。たったそれだけで、簡単に敵だと思うのに。
怯むみずほをよそに、童女は淡々と続ける。
「欲しい、欲しい、感謝が欲しい。喉が渇き、情に飢え、それでもなお武士は食わねど高楊枝。そのまま虚無の表情で欲望を引っ込めて、ただ刀を振り回していたのだろう?」
童女の言葉に、反論ができなかった。
みずほはいつだって、飢えている。
人の幸せを見て、彼女はほっとしていた。自分はその中に入れないと、端から諦めていた。だって自分は退魔師であり、市井の人々の幸せを守るのが自分の役目だと、そう叩き込まれてきたから。
でも実際は、彼女は。田村みずほになったときから。いや、その前の退魔師、その前の前の退魔師、さらにその前の前の退魔師のときから、ずっと。
普通の少女としての幸せに飢えていた。魑魅魍魎は退魔師……いや、鬼や神の血が流れていれば見えたであろう……でなければ見えない。だから市井の人々はそもそも、魑魅魍魎の行った企みが見えないしわからない。それを欲するのは、ただのわがままというものであった。
しかし、彼女の奥底の欲求を、童女にぴたりと言い当てられてしまった。
いや、あの童女だって、みずほの中の一部のはずなのだ。彼女が自分を暴いたとしても、おかしくはないのだ。
……感謝されたくても、できるはずがないのに。自分が事件を解決したとしても、そのほとんどの人が、理解が及ばないというのに。
「……私は、本当に、ただ……市井の人々に幸せであって欲しい、本当にそれだけで」
「それだけで動ける訳がない。なら、おまえが欲していたものはなに?」
「……それは」
どうすればいいのだろう。どうしたら納得できるのだろう。
なにも考えずに、ただ童女を斬ればいい。そうどこかで思っても、みずほはそれを必死に否定する。
……なにも考えずに斬ったら、それは自分が嫌い抜いている魑魅魍魎となにが違うのか。ただ欲のままに行動すれば、それは鈴鹿や大嶽丸となにが違うのだろう。
この答えを考えなければいけない。
──きっと、鈴鹿はみずほが疲弊して、そのまま気力を失って朽ち果てるのを待っているのだろうが。何度も何度も繰り返し殺され、そのたびに新しく生きてきたのがみずほだ。繰り返すことに飽きたことは、一度たりともない。
****
──あはははは、あはは、あはははははははは…………!!
もぬけの殻の町に、鬼女の、鈴鹿の哄笑が響き渡っている。
彼女は、再び千年待つことに決めたのだから、大切な「ぬし様」に手をかけ、再び封じようと天に小通連を掲げている。
小通連の号令に反応して、彼女の宝蔵が開き、そこから次から次へと収納されている武器が降り注いでいる。
「……本当に、自分勝手な女だ」
朔夜は毒づきながらも、かろうじて避けていた。
坂上田村麻呂は武勇に優れた
ひと振りの刀が地面に突き刺されば、地面に雷が轟く……朔夜は必死に距離を置いて、雷をやり過ごすしかなかった。ひと振りの槍が地面を貫いたとき、途端に地面が変色する……ときおりひどく鼻につく錆び付いた鉄のにおいがするのだ、さながらそこには毒が盛られていたのだろう。
他にも、他にも。朔夜が得物として使えないものばかりを、宝蔵から降らせていく。前に大獄丸の宝蔵のものは、なんでもかんでも凍てつかせてしまう代物だった。あれも、自身の宝物を他人の手に委ねたくないという、大獄丸の矜持だったのだろう。
だが。朔夜は鈴鹿の宝蔵から逃げ回りながらも、必死で突破口を探っていた。
あの戦いの中でも、みずほは獅子王を見つけ出し、それを今の彼女の得物とした。あれは彼女が触れても辺りを凍らせることはなかった……いくら大獄丸がみずほ……悪玉を気に入っているとしても、彼女にだけ自身の宝蔵の特性に左右しないようにするのは不可能だろう。
それに。朔夜は降ってきた薙刀を走り抜け、共に降ってきた雷をやり過ごす。そして次々と降ってくる得物を必死で見極めていた。
この宝蔵の持ち主は、鈴鹿だ。彼女の宝蔵の中から、朔夜は騒速丸を見つけ出した。あれのせいで、鈴鹿と切っても切れぬ腐れ縁になってしまったが、それはさておいて。この宝蔵の中に、あれがある可能性が高い。
彼女の持つ宝蔵の中から、あれを見つけ出せたとき。まだ朔夜にも勝機の目がある。
「……あまり、逃げてばかりもしてられないがな」
それでも、朔夜はみずほと共に生きると決めたのだ。鈴鹿はあくまで、彼女と生きるための障害であり、彼女の悲しみの元凶そのものだ。
なにもかもを奪った鬼女から、まずは自身の命を守ることこそが、朔夜の役目だ。
****
しばらく考えてから、ようやくみずほは腰の獅子王に手をかけた。
烏の面の童女は、ぴくりと口元を動かした。
「斬る気か?」
「……何度も考えました。私がどうして、市中の安寧のために、刀を振るっていたのか。私はあの人たちに、『ありがとう』のひと言もなく、どうして戦えたのか……単純な答えでした」
みずほは鞘から刀を抜き取ると、刃に童女を映し込んだ。
「……理屈では、ありませんでした。私が普通の人間になりたい、普通の人間になれないのなら、せめて普通の人々の安寧を守りたい。そこに感謝なんてされなくてもいい」
「なら、どうしてそのまま刀を振るえた? 知られたら、怖がられてしまうから?」
「もちろん、それもあると思います……ですけど。魑魅魍魎は、悪夢でなければなりませんから」
みずほは、とうとう童女の首に、刃を押し当てた。
童女は逃げることもなく、ただ表情の読めない面のまま、みずほを見上げている。
「悪夢は眠っているときにしか見ません。悪夢は覚えていてはいけないんです」
「どうして……自分を、悪夢の中のものだと、そう言いたいの?」
「そうではありません。きっともうすぐ、闇夜は怖いものではなくなりますが、今は夜闇が濃い時代。私は夜闇が怖くなくなるまで、それを怖がる人たちを守りたい……」
「眠っていたら、誰も知らないのに……?」
とうとう、みずほは童女を力いっぱい斬りつけた。
綺麗なほど、首はころりと落ちてしまい、彼女の烏の面も割れた。
そこには、幼い頃、まだ自分が人間であり、退魔師として人々を守ること以外、生き道を知らなかった頃の、彼女が落ちていた。
みずほは憐れみを込めて、彼女を見下ろした。
……彼女は、幸せがわからなかった頃の自分なのだから。
「……決まっています。悪夢が終わらなかったら、私も眠れないんです。それが終わるまで、私は眠れませんから……」
きっとみずほは。親友の松葉になにも語らないままだろう。
だって、彼女は女給で、自分は退魔師だ。彼女の人生において、自分の退魔の力は、なんの意味もなければ役にも立たない。彼女の出す珈琲やお菓子はみずほの人生の上で欠かせないものだが、彼女はそうじゃない。
そうじゃないものを押しつけることの、なにが友情なものか。
ようやく童女は、納得したように目を細めた。
「うん……傍迷惑な欲はない。ようやく、お腹いっぱい……」
「はい」
童女は崩れ、そのまま粉々になり、やがてそこに、真っ赤な蓮の花だけが置き去りにされた。みずほはそれをどうしようかと手を伸ばした、そのとき。
蓮の花粉が急に立ち昇ったかと思ったら、金色のはしごをつくり出した。
みずほはそれを呆然と見る。先程の糸と同じく、真上へと伸びているということは、次の道へと進めるのだろう。
恐る恐るはしごに触れてみる。きちんと掴め、問題なく昇れる。みずほはするするとはしごを昇ると、次の道を目指したのだった。
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