六道・二

 みずほは乾いた草原を走っていた。走るたびに、枯れ草がかさかさと音を立てる。

 地獄道というと、自分を引きずり落とした赤鬼のように、もっと地獄の鬼が死人をいじめ抜いているのかと思ったが、死人の気配も鬼の気配もなかった。

 思えば。ふとみずほは気付く。

 自分が田村みずほとして生きているときから、魑魅魍魎の気配は当たり前のように感じていた。それは鈴鹿が自身を復活させるがために、日ノ本にばら撒いたものだとしても、弱々しくとも、それらの気配は当たり前にあるものだった。それがここにはない。

 魑魅魍魎のない、自身が精神をすり減らして戦わなくてもいい場所が地獄道とは、ずいぶんと滑稽な話だ。そう考えながら、再び走りはじめたとき。

 枯れ草の原っぱに、なにかの影が浮かんだ。


「ほう……死人かと思ったら、生者か。しかも……鬼とも神とも違う、訳のわからない娘ときたものだ」


 この枯れ草の原っぱと同じく、乾いた声が聞こえてきた。

 みずほは迷わず獅子王を引き抜き、その声の主にその切っ先を向けた。

 そこには烏の面を被り、黒い着物を着た男がいた。背中には、烏の羽が生えている。

 天狗だ。みずほは獅子王を手元に戻して、両手で構え直した。これを斬らなければ、上の道へと進めない。

 朔夜の元に帰ることが、できない。

 面で顔半分を隠した天狗は、口元だけを歪めた。


「……あなたに恨みはありませんが、私は先へと進まなければならないのです」

「ほおう、俺を斬るか」

「お覚悟を」


 そう言って、みずほは足を大きく踏み込んだ。獅子王で一閃叩き付ければ終わりだ。そう思ったが、天狗は錫杖をしゃらんと鳴らして、彼女の一閃を受け切った。


「ほう、いい太刀筋だ。当たれば俺の首は間違いなく胴と別れていただろうさ。だがなあ……その鬼だか神だかわからん娘よ」


 天狗は口元を歪めたまま、鼻先をみずほに向ける。あいにく、顔半分が隠れていると、どういう感情をみずほに向けているのか読み解くのが難しい。


「その腕があれば、なにも言わずともただ俺を斬ればよかった。迷っているのではないか?」

「……なにをですか」


 今まで、みずほのことを心底憐れみを込めて見てきた鬼も、魑魅魍魎もいた。

 当然だろう。鈴鹿に記憶も力も生き道も奪われ、ただ兵器として使われていたのだから。神が人間に鬼に堕とされ、兵器として酷使される。魑魅魍魎たちも鬼も、嘲りよりも先に、憐れみの目で彼女を見ていた。

 しかしこの天狗の声色はどうだろうか。

 憐れみもない。嘲りもない。乾いた口調には、ただ淡々と事実だけを拾い集めて伝える力があった。


「今まで、自分の意思でなにかを斬ったことがないのではないか?」

「……なにを、言っているんですか」

「鬼であったら、本性は凶悪で凶暴で、快楽で殺すことをよしとする。神はそもそもそれ以外は下だ。斬ることに罪悪感は覚えない。他の生き物はそもそも生きるために殺しをよしとする。殺すことに理由を付けねばやれないのは、人間だけさ。でもお前は人間ではない。しかし神や鬼とも違う。だとしたら、お前は理由もなしに殺せるのか?」


 その淡々とした言葉に、内心みずほはぎくりとした。

 今までは、誰かのため……それこそ、町の人のため、田村家の使命のため、市中の平和のためという大義名分が存在していたが、今回は訳が違う。

 自分のために誰かを斬るというのは、みずほは初めてだったのだ。

 天狗は淡々と続ける。


「俺を斬りたくば俺を斬れ。その代わり、ここは地獄道。ここで死ねば俺はもう生き返ることもなければ、輪廻転生することもなく、消滅する。それでよければ、俺を斬れ」


 天狗が両手を拡げて、みずほの構えた獅子王の刃を、ぐいと、自身の腕に押しつける。まだ肉の味を、刃は覚えていない。

 みずほはそれを思わず引いてしまった。


「……待ってください。あなたがそんなことを言うのはなんですか。まやかしですか? 問答ですか?」

「いや? 俺はお前に斬られなくてはならないと言ったのは、そういうことだろう?」


 淡々とした口調には、嘲りも憐れみもない。まるで自分の鏡を見ているような、歪な違和感だけが広がっている。みずほは躊躇った末に、そのまま刃を下げてしまった。

 なにも考えずに斬ってしまえば、それで次の道へ上がれる。でもそれでは、自分のことしか考えていない大嶽丸や鈴鹿と、なにが違うというのか。

 天狗はそのまま逃げればいいはずなのに、何故か飛ぶこともなければ、離れることもなかった。それどころか、彼女に攻撃することもなく、ただ彼女と距離を取ってたたずんでいる。


「考えろ。そして斬りたくなったら、俺を斬るといい」

「……待ってください。黙って。考えさせてください」


 どうして斬られるはずのものが堂々として、斬るはずのものが狼狽えているのか。

 変だ、なにかがおかしい。そう思いながらも、みずほは天狗を斬るべく、天狗の言い出した言葉を返すべく、自分の言葉を探りはじめたのだ。


****


 朔夜と鈴鹿の戦いは続いていた。

 矢筒に手を伸ばして、朔夜は歯噛みする。そろそろ矢が尽きそうなのだ。しかしこちらを憐憫の目で見てくる鈴鹿は未だに傷ひとつ負うことなく立ち尽くし、「ぬし様」と熱を帯びた声をかけてくる。

 それが心底朔夜の臓腑を冷やした。ぐらぐらと怒りで腸が煮えたぎり、彼女を殺せと自分の中のありとあらゆる部分が罵声を浴びせる。


「ぬし様。地獄道に墜ちたら、もう戻ってくることはできませぬ。あれは六道全てをかけて、全否定された末に死ぬのですから」

「……うるさい。貴様と話すことなど、なにもない」

「ぬし様……本当に可哀想なおひと」


 そう艶めいた声で囁く。


「ぬし様はなにも知らないだけです。あれはぬし様のことを忘れても平然と生きていけたでしょうに。ぬし様は千年かけて、あの女以外を知らぬから、あれを愛していると思い込んでいるだけ。千年かけて刷り込まれただけですもの」

「黙れと言っている。俺からまた奪う気か!?」

「あれを偽りだと言っているだけ。だって、千年かけてあの女は、一度たりとも記憶を思い出しましたか?」

「だから黙れと言っている。我が妻を愚弄してくれるなよ!?」


 みずほが……悪玉は、何度記憶を漂白されて、偽りの生を生きているとき、彼女は思い出しかけるたびに、田村家の当主に殺されていたのだ。

 力を取り戻しかけたら、彼女は首を落とされた。

 記憶の切れ端が頭に刻んだら、彼女は首を刎ねられた。

 そのたびに朔夜は呪った。自身の血筋を。人間のことを。鬼のように強い男が、憎悪の果てに鬼になってもおかしくはなかったが。

 それでも朔夜は、ぎりぎりのところで踏みとどまり、鬼にはならなかった。

 悪玉は人間を嫌っていた。憎悪と嫌悪の果てに、人を殺し続けて鬼になったのだから。しかし漂白された彼女は、嘘を刷り込まれて、人間を守るように命令されて、いいように使われてもなお、人間を恋しいと言ったのだ。

 それが、朔夜をかろうじて人間を嫌いにはさせなかった。

 記憶を漂白された彼女が、無自覚に人間を嫌い切れなかったのは、人間の中に田村麻呂の面影を見ていたからだ。

 鬼に堕とされた女神は、彼のことを好いていた。彼の子孫を好いていた。だからこそ、人間を嫌いにはなりきれなかったのだ。

 それを祠の中でずっと眺めていた朔夜は、本当に寸でのところで、彼女の意を汲んだ。

 朔夜は自身の子孫を憎悪していたが、その中でも幾許かの人間は好きになれた。みずほが友達をつくり、その友達を大事にするのを見守り続けた。

 朔夜は千年かけて、何度も何度も彼女に恋をし続けていたのだ。

 それの、いったいどこに嘘や誤魔化しがあるのか。

 朔夜は矢筒の矢を取った。もう残りがわずかしかないが、迷わず番い、鈴鹿に向ける。


「千年かけてもなにも変わらなかった貴様にはわからないだろうさ。俺が千年もの間、どれだけ我が妻を想ってきたのか」

「ぬし様。想っていたのはそなただけではない。わらわも……」

「それこそ、思い込みだろうさ」


 朔夜は矢に気迫を込める。町を壊してはならない。それは今は避難している町の人々が帰ってくる場所なのだから。

 みずほの言葉はいちいち面倒臭く、それを無視しても問題ないようには想うが。彼女は人間を愛しているのだ……人間の中に、田村麻呂の血が流れていなくとも、きっと彼女は首を振って、御髪を膨らませて怒っただろう。

 朔夜はその言葉を尊重しよう。

 矢には火が灯った。それを朔夜は鈴鹿に向け、放った。


「……貴様を生かしていたら、どれだけ死ぬかわからないからなあ」

「……ぬし様」


 彼女の周りに張り巡らされた、顕明連の薄膜が、炎の矢でわずかばかりにジュッと乾いた。その隙に、朔夜は最後の矢を放つ。その矢は、ようやく鈴鹿の胸を大きく貫いた。

 もう矢はない。残りは。

 朔夜は彼女から視線を逸らすことなく、次の戦いについて考えを張り巡らせている中。


「……ふふ」


 矢を胸に突き刺したまま、鈴鹿の口元が綻んだのだ。

 コプリと血が噴き出ても、彼女は気にすることなく、声高らかに笑い続ける。


「ふふふ……ふふふふ……あはは、ははははははははは…………!!」


 それは狂ったような笑い声だった。鬼女は涙を流しながら、血で白拍子の装束を染め上げながら、それでも声高らかに、笑っているのである。


「あははははは、ぬし様……わかっております、千年経って執着を恋だと言い切りたいこと、よぉくわかっております。わらわも自身の気持ちをそうだと確信しておりますから! つまりは、わらわとぬし様の気持ちは同じ! 大丈夫ですよ、ぬし様」


 血で染め上げられた鈴鹿は、黒い御髪を振り乱しながら、なおも言い募る。


「千年も待ったのです! それから更に千年かけて、そなたの気持ちを変えても、ちっとも遅くはない!」


 鈴鹿は高らかに笑い声を上げ、最後のひと振りの刀……小通連を空へと向けた。

 空はきらめき……鈴鹿の宝蔵にしまわれている、大量の得物が光りながら出てきた。


「ぬし様、千年後にまたお会いしましょう。大丈夫、わらわの気持ちは変わりませぬ」


 千年かけて憎まれ続けたのならば、千年かけて気持ちをねじ曲げればいい。それが、鈴鹿の出した結論だった。

 それに朔夜は舌打ちをした。


「……どこまでも自分本位な女だ」


 鬼女の恋は濃い。千年かけてもなお、鈴鹿の恋は独りよがりなままであった。


****


 みずほは天狗の言葉を頭の中で浮かべ、考え込んでいた。

 そもそもおかしいのは、地獄道に引きずり落とされてから、赤鬼以外だったら、天狗にしか会っていないということだ。

 そういえば。鈴鹿は自分を六道全てをかけて否定すると言っていた。

 赤鬼は、天狗を斬らなかったら上の道へは上がれないと言っていた。

 このふたつは、同じ意味ではないだろうか。


「……わかりました。あなたの正体が」


 みずほのぽつりと漏らした声で、天狗は面を彼女に向ける。


「そうか。して、答えは?」

「あなたは、私ですね?」


 天狗はなにも答えなかった。

 おかしいと思ったのだ。地獄道は六道の中でも最下層。そこに引きずり落とされた人は、宗教の上ではいくらでもいるし、それに関する創作だって存在するのに、ここにはみずほ以外の正者どころか、死者がいない。

 赤鬼の言った上の道に上がる方法も、鈴鹿の言っていた六道全て否定することも、同じことなのだ。

 みずほ自身の中に巣くっている天狗を殺すことで、みずほの心根の弱さと脆さを暴き出し、それで彼女を絶望させようというのが、鈴鹿の狙いだったのだ。

 ここは、みずほ……悪玉の心の中に生み出された六道であり、自分自身を全身全霊を持って肯定して乗り越えることでしか、彼女は次の道に進むことができない。

 みずほは真っ直ぐに、烏の面を付けた天狗に獅子王を向けた。


「……私は、あの人を愛しています。もう二度と、離れたくないほどには。たしかに私は今の今まで、自分の意思を持って他を斬ったことはありません。ですが」


 自分と鈴鹿。似た境遇でありながら、どこまでも道を違えたふたりの鬼女。

 みずほが退魔師として人間に使われ続けたことを、彼女は嘲笑っているのだろうが、それは違う。


「……私はあの人の誇りになれるように生きたい。ただの情の押しつけなんて、そんなもの私を無茶苦茶にした人たちとなにが違うというんですか」


 欲の吐き出し口ではない。ただの便利道具ではない。その人を尊重したいと願って、なにがいけないのか。

 みずほは、ようやく獅子王で天狗を斬った。

 天狗の面の向こうにあった顔は、ちょうど浄野と同じ顔をしていた。


「……忘れるな。お前は生きているのではなく、生かされているのだということを」


 天狗は血を噴き出し、そのまま崩れていった。

 その途端、天からなにかが降りてきた。それは一本の糸のようだった。みずほはそれをおずおずと掴むと、不思議なことにその糸はどんどんと上へと昇っていった。

 どうも、次の道へと進めるらしい。

 みずほは崩れた天狗のほうに視線を向け、浄野のことを思い出した。

 彼はどんなときもみずほの味方をしてくれていた……彼女にとって、彼は大事な家族そのものだった。


「……忘れられませんよ、ちっとも」


 次の道に進もう。きっと次も自身を暴かれるだろうが、ちっとも怖くはない。

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