六道・一
鈴鹿は天に向けて顕明連を掲げる。
彼女の持つ三振りの刀は、それぞれ神刀に連なるもの。第六天魔王の娘でなければ持つことどころか、触れることすら許されなかった刀。
だからこそただの鬼ではなく、神の眷属に値する存在でなければ、鞘から引き抜くことすらできなかった。
鈴鹿以外で抜けるとしたら、それこそみずほ……悪玉くらいしか抜く資格は持たなかったのだから。
鈴鹿は天に向かい、唸り声を上げる。
それは千年にも昇る、呪詛の声であった。
「第六天魔王が娘、鈴鹿。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を統べる天魔の娘の名において命じる。我が刀、顕明連の敷く衆生に仇なす全ての敵に、等しく裁きを与えんことを……六道全てにおいて、かのものに居場所を与えることはなく、滅するまで輪廻を繰り返さんことを──……!!」
顕明連はみずほに向けられた。
みずほは獅子王を構えるが、鈴鹿は鼻で笑う。
「紛い物でわらわの太刀筋を受け流すことはかなわんだろう。せいぜい滅するまで絶望し続けて果てるがいいわ。塵ひとつ残してはやらぬ」
そのまま顕明連は振り下ろされた。
本来、血が噴き出るところだが、みずほの体は切れてはいない。
みずほは目をぱちりと瞬かせて、気が付く。
「みずほ…………っ!!」
自分の体が二重に見えることを。いや、違う。朔夜が大きく目を見開いて、獅子王を構えたまま倒れこむみずほを抱き起している。
朔夜の腕の中のみずほは、目を見開いたまま、ピクリとも動かない。
顕明連が切ったのは、みずほの体そのものではない。みずほの体から無理矢理魂魄を切り離したのだ。
「貴様……いったい我が妻になにをした!?」
「ぬし様、もう大丈夫でございます。千年かかりましたが、もうじき邪魔な奴は消滅しますから……」
鈴鹿はたおやかに笑う。まるでみずほの魂魄を無理矢理体から切り離したことなど、詮無いことのように。朔夜は鈴鹿を睨みつつ、みずほの手首を軽く握ってから、口元をなぞる。
「……脈はまだあるが……呼吸が止まっている。なにをやった?」
「もうじき、奴の魂は消失します」
みずほは魂魄のまま、どうにか肉体に戻ろうとするものの、体の周りに薄皮一枚の邪魔が入り、戻ることができない。
肉体に触れると、ジュッと魂魄を焼き切ろうとするなにかに邪魔をされる。
みずほはじっと自身の肉体を見て、気が付いた。
ただ自分の肉体と魂魄を分断されただけじゃない。自分の魂魄を、今代から切り離されているのだ。
六道を司っている第六天魔王の命がなかったら、できることではない。
第六天魔王の娘というのは伊達ではないということだ。
帰りたくば、それこそ六道全てを回らなければ、元の場所に帰り着くことすらできない。それまで、鈴鹿も朔夜も待ってくれる保証はどこにもないけれど。
(朔夜さん……待っていてください。できる限り、早く戻りますから)
聞こえないはずの声を上げる。
田村みずほという少女が生きた時間は、たったの十七年だが、悪玉御前の生きた時間は違う。
悠久の時を人間と共に生きたいと思って、なにがいけないというのか。
ふいに、みずほの魂魄を掴めるものはいないはずなのに、足元をなにかに捉えられる。驚いて振り返ると、そこにいたのは地獄道に巣食う赤い鬼であった。
今代は人間道。そこから最も遠いのが地獄道である。鈴鹿によって無理矢理切り離されてしまった以上、一番遠くへと遠ざけられたということだろう。
みずほの肉体からは切り離されてもなお、彼女の腰には獅子王が存在している。おそらくそれは、顕明連の写しだという理由も存在しているだろう。
そのまま彼女は、地獄道へと
早く帰らないと。それだけは心に刻みながら。
****
彼女がまだ田村みずほではなく、悪玉という天照大神の眷属だった頃、あの世とこの世の境はもっと曖昧だった。
あの世とこの世は歩いていける距離に存在し、行って帰ることも難しかったが可能ではあった。
複雑になったのは、日ノ本が外つ国と交わり、外つ国の理と概念が織り交じったことにより、あの世とこの世の境はどんどん複雑怪奇になっていった。
第六天魔王の力が示されるようになったのも、悪玉が伊勢に降り立った頃よりも後のことのため、彼女もあの世がどれだけ複雑なことになっているのかは知らなかった。
ただわかるのは。
ここは今代から最も遠い場所だということだけ。
赤鬼に引きずり込まれた先を見て、みずほは目を細めた。
血の色の湖が広がり、枯れ草が地面を覆っている。
人が住む世よりも、かつて悪玉が住んでいたという世に見える。
天はなにもない場所であり、だからこそ地上を見守ることが全てであった。
やがてみずほは枯れ草の原っぱに落とされた。みずほはごろんと転がれば、自分を引きずり落とした赤鬼と目が合う。
みずほは腰に差した獅子王の柄に触れる。この刀はみずほを拒絶することなく、するりと鞘から刀身を見せてくれた。魂魄を切り離されてもなお、ついてきてくれた我が刀に、彼女は心底感謝した。
彼女はほっとしながらも、赤鬼に刃を向ける。赤鬼が「じっ……」と声を上げて、みずほを脅えて見上げた。ぎょろぎょろとした目は、この地でなければ愛嬌があるように見えたかもしれない。
「あなたに危害を加えるつもりはありませんが。私は今代に戻らなければなりません。どうしたら、今代に上がれますか?」
みずほは努めて冷静な声色で言った。赤鬼は逃げたそうに後ろ足で歩くので、彼女は枯れ草を軽く刀の切っ先で切る。それに赤鬼は「じっ!」と悲鳴を上げてから、ぎょろりとした目を見開いて、みずほを見た。
「……上がる? 六道全てを回らずに?」
「本当でしたら、今代に今すぐにでも戻りたいんです。あなたはいきなり私を引きずり落としたのはどういうことですか。私を地獄に落とせと、第六天魔王の娘にでも言われたのですか」
「せ、宣誓したから」
「宣誓……あの呪詛ですか」
彼女の吐き出したおどろおどろしい言葉を思い出し、みずほは顔をしかめると、赤鬼は小さく頷いた。
「宣誓に、逆らうと、魂魄が千切れて消失する。宣誓の通りに戻らないと、帰れない」
「……つまりは、あの女の言った順番で帰らなかったら、私は消失するということですね? 私が神だとしてもですか? 国つくりの神の眷属だとしても?」
悪玉の遣えた天照大神は、国つくりの神の一柱、伊邪那美の子に当たる。伊邪那美は黄泉の国……あの世に落ち、そのまま定着したはずだが、現在の地獄だとどう扱われるのかがわからない。
それに赤鬼は「あーうー……」と頭を抱えて考え込んだあと、ようやく口を開いた。
「第六天魔王の娘は、既に死んだら六道から外れている。死ねば輪廻転生はできない。既に宣誓に逆らっているから。それと同じ。たとえ古の女神であったとしても、今定めた決まりから逃げ切ることは無理。だから、宣誓の通りに動くべき」
「……そうですか。わかりました」
朔夜が千年前の通りに今代で行動すれば大問題だ。それと同じで、勝手に押し付けられた決まりであったとしても、落とされてしまった以上、自力で昇るしかできないらしい。
みずほはもう一度、赤鬼に尋ねる。
「今代まで上がるには、どうすればいいですか?」
「六道を統べる
「まえん?」
「魔界に住まう
「……わかりました。教えてくださり、ありがとうございます」
みずほは頭を下げ、ようやく獅子王を腰に差し直す。
天狗は魔界……天狗道に落ちた魔物とされている。みずほも退魔師として今代にいたときも、対峙したことはない。六道を外れるというのは、それだけ難しいという話だ。
それらを斬らなければ今代に上がれないと知った以上、斬るしかないだろう。
みずほは天狗を探そうとして、最後に赤鬼に尋ねる。
「何度も質問を重ねて申し訳ございません。最後の質問ですが……上の道へと上がる天狗は、どれなのかとわかるものなのですか?」
「……天狗は衆生を魔界へと誘うもの。会えばわかるし、会えないのならば一生ここから出ることはできない。無理に上の道へと進もうとすれば、魂は千切れる」
「わかりました、本当に何度も何度もありがとうございます」
みずほは礼をして立ち去ろうとすると、赤鬼はしばらくじっと彼女のリボンを留めた束髪を眺めたあと、小さくぽつんと言う。
「ご武運を。第六天魔王の娘は凶悪だけれど、第六天魔王ほどではないから」
それは素直に応援されていると取ればいいのか、揶揄されているのか、みずほにはわからなかった。
枯れ草を踏めば踏むほど、かさかさとした切ない匂いが漂ってくる。その匂いを嗅ぎながら、みずほは走りはじめた。
天狗を探して、斬らないといけない。
****
みずほが地獄道は枯れ草の原っぱで、天狗を探して疾走している頃。
朔夜は鈴鹿と対峙していた。
千年前、彼女に都を燃やされた挙句、力ずくで自分の全てを奪われた。
今はまだ、みずほは死んではいないが、生きているとは言い難い。
身動きが取れなくなっている中、悪玉に呪詛を吐いて、彼女を輪廻で雁字搦めにされたことは、昨日のことのようによく覚えている。
今代でまで同じ目に遭わされては叶わない。
手には弓矢。千年前の万全な体制とは程遠い。
対して鈴鹿には未だに神刀が三振り……ひと振りは駄目になったとはいえども、まだふた振りは健在なまま残っている。魑魅魍魎に運ばせた肉体のおかげで、彼女の体も完全に復活している。
勝てる勝てないではなく、勝つ以外の選択肢がないことに、朔夜はぺろりと唇を濡らした。
「ぬし様。わらわはぬし様と戦う真似はしとうございません。どうかその女を捨て置いてくだされば、わらわはあなたを襲う真似は致しませぬ」
「それを信じるとでも本気で思うのか?」
鈴鹿のすがる声にもなお、朔夜は拒否を示す。
自分を、妻を、子を、尊厳を、血縁を……なにもかもを奪っておきながら、それでもなお被害者面を隠そうともしないこの鬼女に、嫌悪こそすれども、憐憫の念をかけられるものではない。
残念ながら、朔夜はみずほとは考えが違う。
鈴鹿の答えを待たず、朔夜は未だに意識を取り戻さないみずほの瞼に触れると、それを閉じる。そしてそろりと自身の衣冠の着衣を剥いでかけると、そのまま道の端に横たえる。
そして彼女を背にして、鈴鹿に対して矢を番った。
「……俺は貴様に会ったとき、なにも答えるべきではなかった。直刀をもらうことも、声をかけることもなければ、俺と我が妻は共に年を重ねて果てることもできただろう。千年も、妻が死に続けることはなかった」
「あの女に対しての贖罪と憐憫を、情愛と勘違いしているのでは?」
「貴様と一緒にするな」
朔夜はひと言で切り捨てると、弓を大きく引いた。
鈴鹿からしてみれば、どうしてあの女ばかりが。そう呪っても仕方がないだろうが。
朔夜は……田村麻呂は出会ってしまったのだ。
ただ都の誰よりも強い
彼女は人間嫌いではあり、天に帰れないほどに人を傷付けて鬼と化してしまったが、もし彼女が鬼にならなかったら、あの美しい娘に出会うことはできなかった。
人として生きられなかった自分が、あの鬼女と共に、子を育んでいるときだけは、ただの男として生きることができた。
あのときのわずかな幸せだけが、千年かけてもなお、諦めることもなく魂を腐敗させるでもなく、田村麻呂を田村麻呂のまま留めていた礎だった。
あれとそっくりそのままの幸せが欲しい訳ではない。千年も経ち、趣も理もすっかりと変わってしまったのだから。ただ、人の心だけは千年経ってもそこまで変わらない。
田村麻呂……朔夜は、千年経ってもなお、妻を愛している。
弓は雨嵐と鈴鹿に降りしきるのを、鈴鹿は悲しげな顔で顕明連を手に持ち、それを手で解かして薄膜を広げる。水の被膜は矢を受け止め、鈍らせ、鈴鹿を射抜く前にぱたぱたと落ちていく。
それでもなお、朔夜は弓を引くことを止めなかった。
これを見た人間は、いったいどちらが鬼で、どちらが人かはわからない光景だろう。
数多の矢は、相手が鈴鹿でなければ、どんなに凶悪な魑魅魍魎や鬼ですら射抜くほどの重さ、速さ、流れ星のような量を、休むことなく引き続けることのできる腕力、的確な目、持久力。
しかし第六天魔王の娘の持つ神刀の前には、千年前の
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