呪術
みずほが寄宿舎で、延々悪口の書かれた紙を破いているその頃。
朔夜はひとり、中庭に出ていた。格好は浄野が見繕った着物ではなく、みずほに封印を解かれたときと同じく衣冠であったが、背中に佩いていたはずの直刀はそこにはない。
中庭には、桜の木と祠が並んでいる。
朔夜が封印されていたものの他には、田村家の先祖が祀られているとされているものがふたつ。その内のひとつの前で、朔夜が大きく構えた。
中庭の空気が緊張を孕み、その大気で桜の梢がわずかばかりに震える。やがて、朔夜は腕を大きく振り上げた。
手刀は大きく祠に放たれた。その大きな音は地鳴りとなり、揺れる桜の梢を大きく騒がせる。
朔夜は顔をしかめた。
「……やはり、力がまだ戻ってはいないか」
彼の手からは血が流れていた。
祠はびくともせず、ただ供えられた花と食料が見えるだけだった。
やがて、母屋から食事を持ってきた浄野が、悲鳴を上げてお膳を廊下に置いて走ってやってきた。
「な、なにをやっているのですか、朔夜様……!」
浄野の悲鳴に、朔夜は蒼い目を振り返った。その怒気を孕んだ瞳は、決してみずほには見せないものであった。
一瞬ひるんだものの、浄野は大きく声を張る。
「困ります、あなたになにかありましたら、ご先祖様が……!」
「それを言うな」
朔夜は有無を言わさぬ声を上げる。
昼間、飄々と掴みどころのない朔夜はどこにも見当たらず、そこにいるのは、田村家に怒りを向けるなにかであった。
「……俺は先に言ったはずだが? 我が妻が貴様らを許しているから、手にかけていないだけだと。もし我が妻が貴様らを見限ったら、その時点で俺は貴様ら全員を血祭りに上げると。今、貴様らを野放しにいているのは、妻が現世を平穏に生きるための仮住まいを維持するために過ぎぬ」
浄野は彼の怒気に、ひるむ。
足は竦むし、はくはくと息ができなくなる。が、今は自分が朔夜と話をしなければいけなかった。
浄野は強張る声帯をなんとか動かす。
「……自分たちのことは、嫌っても仕方がないと思います。最悪の場合、自分たちのことはあなたの手にかかるだけのことはしました。ですが、母と義姉、甥だけは、見逃してはもらえないでしょうか? ……あの人たちは、本当になにも知らないのです」
「貴様らは、連帯責任というものを知らぬのか? 貴様らの先祖が我が妻にした仕打ち、俺は一度たりとも忘れたことはないぞ? まあ……」
中庭いっぱいに孕んだ怒気は、ふいに和らいだ。
朔夜はいつの間にやら衣冠から文士の着物に戻り、とん、と浄野の胸を突く。それ自体は力のないものだったが、浄野がギクリと肩を強張らせた。
「その胸の内のものがまろび出ない内は見逃そう。俺もみずほの宿り木を奪う気は毛頭ないからな」
暗に「その胸の内のものが外に出たら容赦はしない」と残して、朔夜はさっさと離れへと戻ってしまった。
残された浄野は、ふらふらとした足取りで、母屋から持ってきたお膳を手に取った。
みずほがいなかったら、そもそも朔夜が怒りを覚えることはなかっただろう。だがみずほになにかがあれば、それこそもう朔夜は容赦せず、田村家を滅ぼすだろう。
彼にはそれだけの力があることを、浄野はよくわかっている。
「……僕はどうしたらいいんですか……ご先祖様」
浄野の声に答えるものは、今はどこにもいない。
****
「昨日、厠に行って怖いものを見たんです」
「怖いものって? 幽霊とか言われたら困っちゃうわ」
「鏡の裏からなにかが落ちてきたと思ったら、悪口が紙いっぱいに書かれていたんです。いったいなんなんでしょうね、これは」
食堂に集まっている少女たちは、昨日は着物姿だったのが一転。今は全員セーラー服を纏っている。
今朝の朝餉は、カリカリに焼いたパンに目玉焼き。ホットサラダにスープであった。
みずほはスープを飲みながら、これも
まさか悪口がびっしり書かれた紙から魑魅魍魎が出ているなんて言える訳もなく、ただ紙が落ちたことだけを加奈子に聞いてみたら、彼女は「あらぁ……」と首を傾げた。
「こんな話、ここにいるのはほとんど華族のお嬢さんだっていうのにどこから流れてきたのかしらね? それって、花街発祥のおまじないよ?」
「え……おまじない……なんですか?」
「ええ。なんでも、好きな相手を思い浮かべながら、鏡の裏に悪口をいっぱい書いた紙を貼ると、想いが届くんですって。結構少女小説を取り扱っている出版社が、少女小説の読者用に出しているおまじないの本とかに書かれたりしているんだけどね。でもそんな本、読むのかしら」
「加奈子さんは、どうしてその話を……?」
「私? 私の場合は、店で働いている女の子から聞いたんだけど」
常日頃から、魑魅魍魎と戦っているみずほからしてみれば、わざわざ魑魅魍魎が出てくるようなおまじないをするというのがわからないが。
しかし、加奈子から説明を受けて疑問が生じた。
「あのう……それって恋のおまじないですよね? 誰に使うんですか?」
そもそもここに通う少女のほとんどは、箱入り娘のはずだ。その少女たちが恋のおまじないを使う相手というのが、ぴんと来なかった。
昨今はエスと呼ばれる、お姉様を想い慕うというものが流行っているらしいが、昨日加奈子に案内をされている中では、そんな光景は見かけなかった。
だからと言って、結婚を父親に管理されているような少女たちが、縁談がある程度まとまるまで相手のことを知っているとも思えなかったし、婚約者と文通を続けているような少女がわざわざおまじないに頼るとも考えられなかった。
加奈子が「そうねえ……最近は」と言いかけたとき。
「お姉様……!」
食事をしていた少女のひとりがガタリと立ち上がったと思ったら、いきなり食堂がどよめき出した。
颯爽と食堂に入ってきたのは、今時珍しいボブカットの少女であった。手足がすらりと伸び、凛々しく見える少女であった。
しかしあれだけ存在感があれば見覚えがあるだろうに、みずほは昨日見た覚えがなかった。
みずほがポカンとしながら、少女たちが一気に件の少女に群がっているのを眺めていたら、加奈子が「ああ」と言う。
「彼女じゃないかしら、おまじないを使う相手って。あの人は
「そうなんですねえ……」
「あら、ときめいた? 格好いいものね」
「そういう訳ではないんですけど」
みずほが苦笑していたら、雲子に集まった少女たちが次々と声をかけてくる。
「お姉様、舞台観ました。今回も本当に素晴らしくって……!」
「こら、駄目だよ寄宿舎を勝手に抜け出したら」
「お姉様、お手紙を書いたんですけど受け取っていただけますか?」
「抜け駆けは駄目だよ。でもこっそりとくれるんだったら嬉しいかな」
彼女の返しは嫌みがなく、むしろ中性的な受け答えが彼女の魅力とさえ思えた。
学ランを着ずとも、少女たちと同じセーラー服だとしても。彼女の颯爽とした雰囲気は人目を引きつける。
みずほは少しだけ感心していたものの、でも。と首を傾げる。
滅多に学校に来ない雲子への想いを拗らせた少女たちが、おまじないを使って想いを届けようとした。
言葉尻だけ取ったら納得できるものではあるが、どうにも据わりが悪い。
加奈子も言ったように、ここに通う少女たちのほとんどは令嬢であり、箱入り娘だ。そもそもこの寄宿舎に魑魅魍魎をばら撒いていた正体は、花街で流行っているおまじないだ。娯楽誌とかからでなかったら出回らないだろうおまじないを、いったいどこで知ったんだろうと思う。
なによりも、ここの少女たちは本当に口が堅いから、引っかけて聞き出すこともできない以上は、学校で行方不明になった少女たちの荷物から手掛かりを探すしかあるまい。
みずほが食事を終えると、加奈子に「先に教科書をいただきに職員室に向かいますから」と頭を下げて、校舎に向かった。
校長室で、浄野への託として、校内で流行っているおまじないの話を手紙にしたためて渡した。
放課後になり次第、捜査開始だ。
****
放課後になり、少女たちも寄宿舎へと帰っていく。
ほとんど勉強のわからなかったみずほは、授業が終わって心底ほっとしてから、加奈子に謝る。
「ごめんなさい、あまりに頭が悪過ぎて先生に呼び出しを受けちゃったから、ちょっと補習に行ってきます……」
「まあ、みずほさん。頭が良すぎてもよくないけれど、悪過ぎても問題あるわよ?」
「はい……行ってきますね」
加奈子に気を遣われながら、我ながら情けない嘘をついてしまったと思いながら、みずほは校舎へと戻る。
行方不明になった少女たちの教室は、あらかじめ聞いていた。
校庭では未だに残ってボール遊びに興じる少女たちを窓から横目で眺めながら、それぞれの教室へと向かった。みずほは髪に仕込んでいた
……やはりというべきか、教室の気が澱んでいるのがわかる。みずほは教室の背後にあるロッカーを見て回り、一番魑魅魍魎の気配を感じるロッカーを見つけた。
「……ごめんなさい。失礼しますね」
みずほは今はいないロッカーの持ち主に謝りながら、中へと手を伸ばした。ロッカーの中には手鏡があり、案の定後ろには紙が貼り付けてあった。【死ね】と書かれた紙をビリビリと引き裂いてから、紙片に簪を突き刺した。
それからみずほは、次から次へと教室を移り、魑魅魍魎の気配を探っては、おまじないの紙を破り捨てていった。
やはりというべきか、行方不明になった少女たちは全員おまじないをしていた。そうなったら次に浮かぶ疑問は、雲子の存在である。
全員とは思えないが、ほとんどの少女は滅多に学校に現れない雲子に想いを寄せていたとする。しかし、彼女宛のおまじないを広めたのは誰なのか。
おまじないのことを知っていた加奈子。とも考えたが、もし加奈子であったら、本当におまじないのことを知らなかったみずほに、おまじないの仕方を教えるとは思えなかった。そもそも恋のおまじないなんて、幾許か熱を上げている人がいなければしてみようなんて発想はないだろう。みずほは本当に知らなかったのだから、「知らない」と言って、みずほと一緒に気味悪がっていればよかっただけの話だ。
だとしたら、誰だったらこの閉じられた場所で、おまじないの存在を流布できるのだろう。どっちみち、行方不明の少女たちのことを聞き出すには、もう犯人を問い詰める以外できそうもないのだが。
みずほがそう思い悩み、再び校長室に向かって託を頼もうとしたときだった。
「どうして君はしてくれないの?」
高らかな声に、思わずみずほは角に隠れてしまった。それからそろりと廊下を覗いたとき。
そこには雲子と食堂で真っ先に黄色い声を上げていた少女がいた。
少女はすっかりと頬を紅潮させていた。これは、誰がどう見ても恋する乙女のそれであった。雲子は少女の髪に、形のいい指を絡める。
「君の気持ちをたしかめないのに」
「だって……お姉様。あのおまじないは気味が悪いわ。だってお姉さんに思ってもいないような汚い言葉をぶつけるのでしょう? 嫌よ。嘘だとわかっていながら、そんなお姉様にふさわしくない言葉を書くなんて」
「でもそれで君の想いは私に届くんだよ?」
みずほはギョッと肩を跳ねさせながら、簪を手に握り込んだ。
あのおまじないの中心人物だけれど、彼女にそれをする動機が見つからないとして、真っ先におまじないを流布した容疑者から外した存在だった。
雲子は少女の髪に絡めていた指を、彼女の紅潮する頬にまで下ろし、唇の輪郭を撫でる。
「君の想いを聞かせてよ」
そのときだった。
みずほはぶわりと肌が粟立つのを感じた……突然、魑魅魍魎が現れたのだ。
小さくて力のないはずの魑魅魍魎が、雲子の長い脚を伝って彼女の肩に乗る。雲子が魑魅魍魎に取り憑かれるのか。みずほは緊張の面持ちで彼女を見たが。
彼女は流し目で魑魅魍魎を「見た」のだ。
まさか……。
みずほが否定したことが、次から次へと肯定されていく。
魑魅魍魎が見えていない少女は、夢見心地で雲子に言った。
「……わかりました。お姉様が喜んでくださるのなら」
彼女は頭を下げると、そのまま寄宿舎へと戻っていった。彼女が完全にいなくなったのを確認してから、ようやく雲子が声を上げる。
「それで、君は私のファンかな? ずっと隠れていたけれど」
みずほはそれにビクリとする。
彼女は基本的に地味で目立たなく、逆に言ってしまえば影が薄いおかげで、彼女が捜査を行っていても滅多に声を掛けられることがないのだ。しかし、雲子はあっさりと彼女に気付いた。
みずほは、観念して簪を握りしめたまま、彼女の前に出た。
「……あなたは、校内におまじないを広めてどうするつもりですか?」
「どうって?」
「あのおまじないは危険です。校内に魑魅魍魎をばらまいて、なにが目的ですか」
「へえ……君には見えているんだ。私の
彼女は指先に魑魅魍魎を乗せた。
彼女はたた、魑魅魍魎を乗せているだけでなく、みずほですら聞こえない声を聞いて、使役している。
みずほは簪を短刀のように持ち直した。
それに雲子は、高らかに笑った。
「いい餌に、なりそうだ」
……人の皮を被っていて、気付くのが遅れた。
彼女は、雲子本人じゃない。魑魅魍魎だ。
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