追憶・二

 悪玉は人間が嫌いであった。

 伊勢に降り立ったとき、彼女を見つけた荒くれものたちは、こぞって彼女を掴み、茂みへと連れ込んでいったのだ。

 痛い、臭い、気持ち悪い、痛い。

 最初は苦痛で悲鳴を上げても、彼女の傷はすぐに消えてしまう。そのせいで、何度も何度も転がされ続けたが。

 堪忍袋の緒が切れたとき、男たちの刀を無理矢理引き抜いて、そのまま一気に突き刺した。トプリと血の臭いが辺りを充ち、荒くれものたちは、腹を立てて悪玉を殴ろうとする。しかし悪玉もまた荒くれものたちに憎悪を向けているのだ。

 彼女は刀を握り締め、男たちを滅多斬りにし、そのまま放置した。これがいけなかった。


──血で穢れたものは、もう高天原に還ってきてはならぬ

「どうして……! 悪いのはあいつらで……!」

──人を百殺し続けた我らが母は、そのまま黄泉に置き去りにされたのを忘れたか


 全ての母、伊弉冉尊いざなみのみことは、地上に住まう人を百殺し、全ての父、伊弉諾尊いざなぎのみことは、地上に百一の命を産み落とした。殺すということは、黄泉の国に置き去りにすることと同義であった。

 天照大神に拒絶され、置き去りにされた悪玉は、この地で生きる他なくなってしまったのである。

 彼女を見た途端に、男たちが襲ってきた。

 上物だ、上物だと叫ぶ声に苛立った彼女はそのたびに刀を振るったが、持っていた刀も、何度も振るい続けてとうとう脂でなまくらになり、斬れなくなってしまった。仕方がないから、彼女は自身に神通力を施した。

 悪玉が醜女しこめにしか見えなくなってしまう術であった。しかしたとえ醜女にしか見えずとも、この世は女ひとりで歩いていたらよろしくない。人買いに連れさらわれて、そのまま長者屋敷で下働きをすることとなったのだ。

 しかし醜女のままだと便利なもので、彼女を襲うものは誰もいなくなった。伊勢でさんざん男たちに奪われたことを思えば、働き続けることのほうが、まだましだったのだ。

 そんな中。長者屋敷がざわついていた。


「坂上様が来るんですって」

「あのおそろしい姿の?」

「北方の制圧に行っていたのが、都に戻る前にこちらのほうに立ち寄るとか」

「ここであのおそろしい人のお手付きになれと?」


 ここで売られた下働きの女性たちは、全員震えていた。

 荒くれものたちの中には、都で名を馳せる武士もののふも存在していた。長者屋敷に立ち寄った際に、女と酒を大量に用意させられ、女たちは好き勝手に弄ばれた挙げ句に、次の日痛い体を引きずって激務に追われるのだ。

 悪玉は長者屋敷に来てからというものの、武士のお手付きになったことはないが、男たちの下品な笑い声やあちこちを汚くされた後片付け、疲れ切って起きられない女たちが起きるまでの間の仕事を肩代わりするのかと思ったら、肝も冷えてくる。

 今晩はできる限り早く終わればいい。そう思いながら、彼女は仕事をするのだった。

 だからこそ、本当にやって来た人を見て、悪玉は黙って眺めていた。

 顔かたちこそ、たしかにこの国の者とは異なっているが、悪くはない。金色の髪は稲穂を思わせる美しさだし、蒼い瞳も空のようで、悪玉が天でお仕えしていた天照大神のような人物だと感心した。

 昼間に、川辺で馳走の準備のために出ていた際に見かけた武士は、長者の過剰な接待に顔をしかめていた。


「俺は、馬に餌と寝床さえ与えてくれれば、他はいらん」


 地上に落とされ、神の立場を踏みにじられ、この地を生きる者はろくでもないものしかいないと思っていた悪玉からしてみれば、彼のように必要なもの以外をよしとしない人間は好ましく見えたのだ。

 それでも長者はなんとか坂上の気を引こうと、女たちを並べて説得する。明らかにこの国の者ではない彼に、女たちは震えていたが。彼はよりによって、悪玉を見たのだ。

 彼は、どうにも悪玉の神通力は効いていないようだった。

 夜伽に彼女を選ぶと、そのまま彼女を組み敷くこともなく、寝息を立ててしまった。悪玉は地上に来て、初めて玩具でも道具でもない扱いを受けて、いったいどういう反応をするのが正しいのかわからず、困り果てて彼を見ていた。

 わからない男。わからない武士。人間は嫌いで、男は醜いし、女は浅ましい。そんな中でこんなに美しい人に初めて出会った。

 彼女は隣で横たわっている、坂上田村麻呂という名の彼を、忘れずにいようと決めた。


****


 田村麻呂が悪玉をお手付きにした。

 それは長者屋敷での彼女の対応を変えるには充分だった。彼は都で名を馳せる征夷大将軍であり、長者としても彼にこねをつくるのにちょうどよく、よって悪玉は下働き用の部屋から、個室をいただいてそこで生活するようになった。もう下働きとして酷使されることもないのだ。

 悪玉はすっかり薄くなってしまった直垂から、小袿姿に着替え直し、田村麻呂を待つようになった。

 元々神だった彼女は気が長く、各地を平定して回っていた彼は、馬で三日もかかる距離を平然とやってきては、彼女とたびたび話をするようになっていったのだ。

 不思議なことに、田村麻呂は一度も彼女を抱くことはなかった。ただの憐憫や同情だったのだろうかとも考えたが、どうもそうではないらしい。

 その日も、彼女の膝枕で寝ようとする田村麻呂に、彼女はとうとう尋ねた。


「あなたはどうして私を抱かないの? あの日、私を選んだのは何故?」

「……うーん、この辺りではどうだか知らないが。近頃は都では厄介なしきたりができてな。そのせいでお前さんを連れ帰る用意ができるまではお前さんを抱く訳にはいかんのだ」

「しきたり?」

「妻問婚だよ。三日渡ったら婚姻が成立するというやつだな。お前さんのところにはずいぶん通っているから、ここの長者も使用人連中も、俺たちのことを夫婦と認めているだろうがな」


 地上は面倒臭い。悪玉は田村麻呂の言葉に呆れ返ったが、田村麻呂は嬉しそうに彼女の膝の上から、彼女の丸みを帯びた頬を撫でる。初めて出会ったときは働きづめでまともな食事も食べることがなく頬がこけてしまっていたが、待遇が変わったおかげで丸みが戻ってきていた。

 田村麻呂は目を細めて笑う。


「それと、お前さんを選んだのは他でもない。俺はお前さんに惚れ込んだからなあ」

「……わたし、に?」

「お前さんは別嬪さんだ。他の誰も気付かずともなあ。そうでなくても、俺は初めてだった。俺のことを恐れずに目を合わせてきた女は。誰もお前さんのことをいらんと言うなら、俺がもらい受ける。それで答えになっているか?」


 悪玉は、初めて顔に熱が灯るのを感じた。玩具や道具のように扱わないばかりか、こうも真っ直ぐに口説かれたことは、天女だった頃からなかった。

 彼女は、震えた声で尋ねる。


「……私、人間じゃないけれど、いいの?」

「それのなにが問題がある」

「鬼よ。たくさん、殺してきた……」

「俺は戦場で大量に屍を積んでいる。おんなじだな」

「……本当に、あなたと夫婦にしてくれるの?」


 悪玉の言葉は、田村麻呂に軽く腕を取られて、唇を奪われたことで塞がれた。強引な口付けではなく、食むように動いたと思ったら、優しく唇の輪郭を舐められる。

 彼女が驚いた目で彼を見下ろしていたら、田村麻呂はにこりと笑った。


「もうしばらくしたら、蝦夷地の平定も終わる。そのときに、また迎えに来よう」


 そこで初めて悪玉は、涙を流した。

 人を愛しいと思ったことも、恋しいと思ったことも初めてであった。

 人間は嫌いで、憎くて、皆滅んでしまえばいいと思っていたのに、人である田村麻呂に心を奪われたのだ。

 鬼女の恋は濃い。

 彼女は彼が迎えに来るのを、待つことになったのだ。


──田村麻呂と悪玉の恋は、成就はしない。

──鬼女の恋は濃いのだから。


****


 二回に渡る大遠征の末、無事に蝦夷地の平定を成した。

 これで悪玉を迎えに行ける。しばしの休みを得ようとしたが、その前に帝に呼び出された。


「坂上田村麻呂、参りました」

「うむ、先日の蝦夷地平定、大義であった。これで都の世は盤石なものとなろう」

「ありがとうございます」

「しかし、田村麻呂が蝦夷地入りしてから、いささか困ったことが起こった」

「と、申されますのは?」


 帝は淡々と語る。


「鈴鹿山にて、魔鬼一族が縄張りをつくり、領土を増やしているのだ。鈴鹿峠を越えなくば伊勢国に出ることも叶わなく、伊勢詣を願う者たちの困難となろう。討伐を命じたい」

「魔鬼一族ですか……」


 鬼はあまり徒党を組まないが、その中でも魔鬼一族は珍しく徒党を組み、縄張りを荒らす者たちであった。魑魅魍魎を操り、人々をさらい、弄ぶ。そんなところにはおそろしくて民衆は近付くこともできないし、伊勢詣を諦めざるを得ないだろう。

 田村麻呂は、悪玉を思い、溜息をついた。彼女もまた、伊勢で襲われて鬼と化したのだ。


「わかりました。それでは、すぐに向かいましょう」


 田村麻呂は急いで直刀を持ち、甲冑を着ると、馬に乗って鈴鹿山へと向かっていった。

 都を出て三日、ときおり修験者たちに道を尋ねて突き進んだ先で、いきなり空が光ったことに気付いた。空から、剣という剣が降り注いできたのだ。

 田村麻呂は自身の直刀でなんとか防いだものの、全ての剣を捌き切ることはできず、剣をあしらいながら、木を遮蔽に取った。


「何者じゃ。わらわたちの住まう山に、なんの用じゃ」


 低いが凜とした声が響き渡った。

 田村麻呂はその気配に息を呑んだ……この気配は、悪玉とよく似た気配だったのだ。

 高貴さと禍々しさ、美しさと醜さ、希望と絶望。全てを混濁して飲み込んで形づくったのが、目の前の彼女のように思えた。

 豊満な体を白拍子の衣の閉じ込め、艶やかな黒髪を流して烏帽子を被る。紅を差した唇は、不快げに歪んでいた。

 彼女もまた、鬼なのだろうが。悪玉と同じく気配が澄んでいる。黒曜石を、誰も醜いとは言わない。彼女の気配はそれなのだ……彼女もまた、天女が湾曲化して、鬼となったように見える。

 彼女を殺さねばならないが、彼女は「わらわたち」と言ったのだ。つまりは魔鬼一族を知っている。彼女から問い質さねばならない。

 田村麻呂は意を決して、一歩踏み出した。


「すまなんだ。俺はこの山をならせと帝に仰せつかった」

「帝に? わらわたちは安寧に暮らしているというのに」

「安寧に、か。貴様らはそうかもしれぬが、この峠をどうにかしてもらわねば、民が伊勢詣に出られなんだ」

「そんなもの知らぬ」


 彼女はぷいっとそっぽを向いた。

 まさか、こんな態度まで悪玉と近いとは、田村麻呂も思ってもいなかった。

 田村麻呂は続ける。


「ああ、貴様らは困らぬだろうがな。俺が困るんだ……倒させてもらうぞ」

「なにを知れたことを」


 彼女は背中の刀を手に取った。長く美しい刀である。


「踊れ──大通連だいつうれん!」


 途端に、彼女の手にした刀は水と化し、雨粒となって田村麻呂を襲ったのである。

 田村麻呂も最初は自身の直刀で雨粒を弾いていたが、雨粒となった刃は、触れるだけで田村麻呂の頬の、指の、甲冑の表面を削り、血を吹き上げ、肉を抉ってくるのだ。

 直刀も、雨粒により削り取られ、とうとう折れてしまった。


「……くっ、いったいどうなっているんだ、それが、神通力という奴か?」

「たわけたことを……わらわの持つ三明さんみょうつるぎが、そこいらのなまくらと一緒な訳がなかろうぞ」

「なるほど……」


 田村麻呂は雨粒を木を遮蔽にして逃れつつ、先程から彼女が散らかした刀に視線を向ける。どれもこれも、彼女が振るっている大通連よりも無骨で、彼女の細い手首では持ち続けることすら困難であろう。

 そしてそれらの刀は、雨粒に当たっても刃が抉れることもなければ、削られて折れることもないことに気付く。

 彼女の持つ霊剣と、この辺りに散らばっている刀は同じようなものなんだろう。そう判断した田村麻呂は、その内の一本を抜き出した。

 反りのない直刀は、先程寿命の尽きた愛刀によく似ていた。田村麻呂がそのまま力を込めて振るった途端。

 直刀は炎を噴き出し、雨粒は蒸発した。


「なっ……!」


 彼女は大きく目を見開く。

 田村麻呂は「ほう……」と声を上げて、直刀を眺めた。


「いい得物だな……」

夫婦刀めおととう……」

「ん?」

「それは……わらわの大通連との、夫婦刀の、騒速丸そはやまる……を、選んだだと……?」


 先程まで、凜として冷たい印象だった鬼女が、途端に狼狽えた声を上げた。頬は、夕焼け色に染まっている。

 これはまずいものだ、と田村麻呂は直感で思った。


「……そなたが、わらわのぬし様か?」


 田村麻呂は帝の命を無視できていれば、悪玉を都に迎え入れ、そのまま仲睦まじく生涯を終えることができたかもしれないが。

 代々帝に仕える田村麻呂に、選択の余地はなかったのが、悲劇の発端であった。

 鬼女の恋は濃い。

 この出会いが、千年もの間の因縁となるとは、このときはまだ誰も気付いてなかった話だ。

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