追憶・三
長者屋敷では、悪玉だけでなく、使用人たちの扱いも前よりもよくなっていた。
悪玉のように姫同然に扱われなくても、せめて部屋を分ける、二食与える、まともな服を与えるなど。それらは田村麻呂が悪玉の元に通うたびに、長者に苦言を呈しているからだった。
ひとりだけ扱いがよくなれば、その分当たりが厳しくなるものだが、田村麻呂の計らいにより、悪玉の処遇が厳しくなることはなかった。
悪玉ほど悪い扱いを受けた女はいないが、皆が皆、親兄弟に人買いに売られた身で、ほとんど道具や玩具のような扱いを受けていた。それが改まれば、皆他人に対しても優しくなるというものである。
「最近、鈴鹿峠のほうがひどいらしいわ」
「鈴鹿峠というと……伊勢の?」
長者を訪ねる者の中には、武士や中流貴族も多く、その者たちの世話を任された使用人は自然と情報通となっていた。
その日も悪玉の部屋に集まり、彼女が食後に出された芋粥を、ひとりでは食べきれないからと皆に振る舞って一緒に食べていたとき、そんな不穏な話へと移り変わっていた。
ちょうど武士から話を聞いた使用人が頷く。
「ええ。あちらに鬼が住み着いたのだと。あちらの鬼が強欲だから、夜な夜な女を攫いに来ると……」
「嫌な話ね」
悪玉からしてみれば、鈴鹿峠はあまりいい思い出がない。
田村麻呂に助けられなかったら、自分はもっと己を醜く思っていただろうし、されたことを許した覚えがなかった。
当然ながら、その話は長者の耳にも届いていた。
「最近は物騒だから、格子を降ろして寝るように」
皆にそう命じ、悪玉も自身の部屋に戻ったとき、格子を降ろした上に、簾も降ろして床につこうとした、そのときだった。
鼻が異臭を拾ったのだ。悪玉は格子を思わず上げたとき、愕然とした。
……火矢を射られ、屋敷が燃えているのである。
悪玉は意を決して、部屋にある
どの部屋も格子を降ろしていたせいで、逃げ出すこともできず、使用人たちは混乱に陥って右往左往している。悪玉は燈台の柄を使って、格子を叩き壊した。
「早く、外に!」
「は、はい……!」
使用人たちが次々と飛び出し、長者も逃げていく。
皆、本当に逃げられただろうか。悪玉は一枚衣を脱ぎ、襦袢姿となって辺りを走り回る。
「もう、逃げ遅れた者はいない!?」
今日は風が吹いているため、火が回るのが早く、あちこちからパラパラと火花が落ちてきて、焦げ臭いにおいも強くなってきた。幸い、肉の焦げるにおいがしないのだから、逃げ遅れたものはいないのだろう。
悪玉もそろそろ自分も逃げ出そうと、格子を叩き壊そうと燈台を大きく振りかぶったときだった。
燈台を、太い赤銅色の腕が受け止めたのだ。腕を殴ったにもかかわらず、驚くほどに相手は無反応であった。
この気配を感じて、悪玉は顔をしかめる。
「なにや……」
格子を手でいとも簡単に砕き、こうして悪玉の振り回している燈台を受け止めたのは、腕と同じく赤銅色の肌に金色の鋭い瞳を持った大男であった。
この禍々しい気配に、悪玉はますますもって顔をしかめる。
──この男、鬼だ。
神の因果を捻れて鬼と化す場合は存在するが、この男の濃い気配はそうじゃないと悪玉に告げている。
力を見せつけたくて、欲しいものを奪いたい、強欲の塊。
先程使用人たちと芋粥を食べながら話していた、鈴鹿峠の鬼の話を思い出す。
鈴鹿峠から長者屋敷までは距離があるというのに、それをものともせずに押しかけてきたというのか。
金色の目と悪玉はかち合った。悪玉を見つけるや否や、ニタリと笑ったのだ。
「おお……愛い娘だ。まさか本当にこんな上物の娘がいるとはなあ……! しかも……なんだ、こんなところに鬼女を隠していたのか、長者は」
赤銅色の男は、悪玉を見つけると、金色の瞳を綻ばせ、喉を鳴らして笑う。
悪玉は燈台を握りしめて、赤銅色の男を睨み付ける。
「……何者だ。私は既に
「ほう……貴様も鈴鹿とおんなじ、墜ちた女神、鬼女か」
「……鈴鹿?」
乱暴に顎を掴まれ、検分される。田村麻呂以外の男は、本当に乱暴が過ぎて彼女は気持ち悪くなったが、ただ目を釣り上げて睨む。それにますます男は口元を歪ませた。
「
この男は、と悪玉はイラリとする。
外つ国の魔王の姫君も、大方こちらでさんざん人を殺したがために、罰として還ることを諦めさせられたのだろう。その弱っているところを付け狙って攫うとか、人か鬼かの違いがあれども、この男も他の男と変わらない。
殺そう。
悪玉は燈台で男の脳天をかち割ろうとしたが、それよりも速くに空から刀が降ってきた。悪玉はそれを燈台で弾く。が、燈台が凍り付き、霜がどんどん燈台を通して彼女を覆ってきたのである。
「……なにをした」
「いい女を傷物にはできんからなあ。俺は蒐集が趣味なんだ。このまま鈴鹿山まで来てもらうぞ」
「殺す……殺す……!!」
「ああ、いい声で啼くなあ、まるで鈴鹿のようだ」
男は悪玉を担ぐと、そのまま走り出してしまったのである。
悪玉は男の肩に歯を立てて抵抗するが、この男の肩は赤銅色の肌にそぐわぬ硬さで、噛みついた悪玉の歯が見たとおり立たない。
鈴鹿とか呼ばれた鬼女と同じような目に遭うんだろうか。
田村麻呂がもうすぐ、迎えに来るというのに。
嫌だ、こんな男の玩具になんかなりたくない。悪玉は神通力を使おうとしたが、男は嘲笑った。
「止めておけ。外にいる連中も巻き添えを食らうぞ。あの女共はまだ生きてるだろうが、男共はどうだろうなあ」
「……き、さま……!!」
人間は嫌いだった。道具扱いするか、玩具扱いするかの違いだったから。だが、この数ヶ月はどうだったろうか。共に食事を摂るのも楽しかった。話をしたら華やいだ。
人間は嫌いだが、それでも悪いものではないのかもしれないと、そう思っていたというのに。彼女たちは鬼に捕まって、回されないだろうか。それだけが、彼女の不安として渦巻いていた。
****
鈴鹿と名乗る鬼女は、この辺りに住まう魔鬼一族に囲われているという話であった。
田村麻呂は直刀をもらった上に、彼女がなにかしらと話す内容を聞きながら、顎を撫でる。
「この辺りを治める鬼の首領は大嶽丸。それを倒すとなれば、弓矢かわらわの差し出した得物でなければ、首を落とすことすら叶わぬだろうな」
「ふむ……他の鬼は?」
「大嶽丸さえ始末すれば、あとは散るであろう。あれらは強いから甘い汁を吸いに群がっている虫ぞ」
鈴鹿の言葉は辛辣だ。田村麻呂は、長者屋敷で待っている悪玉を思い、少しだけ口元を綻ばせたあと、引き結んで尋ねる。
「待ち伏せは可能か?」
「できるだろう、が。あれは正攻法よりも邪法のほうがよほど強い。正々堂々挑んだほうが、返って早く決着がつくだろう。あれはわらわと同じく宝蔵に大量に得物を抱え込んでおる上に、あれの得物は霜柱で凍てつく。一度でも当たれば、凍死は免れんだろうて」
「なるほど……だとしたら、本当にお前さんからもらった刀と、弓矢頼みになるか」
鈴鹿は少しだけ頬を染めたが、田村麻呂は見ない振りをした。
自分は全てが終わったら、妻を迎えに行かなければならないのだから。そう思って、鈴鹿に誘われて、一歩。また一歩と大嶽丸のいる根城へと向かっていったとき。
魔鬼一族のものが、金色の髪の田村麻呂を見つけて、叫んだ。
「何奴!? 鈴鹿、大嶽丸様の情婦でありながら、なんてものを連れてきているんだ!?」
「うるさい。わらわがいつ、誰の情婦となった」
普段であれば、暴力で支配され、あの大男に好きに蹂躙されている身ではあるが、今はその男もいない。鈴鹿は初めて、魔鬼一族に逆らったのだ。
それに男は怯むものの、男はすぐに指笛で仲間たちを呼んだ。棒や石、刀を抱えた者たちが集まってきて、田村麻呂は目を細める。
「……直刀をくれた、そのことだけは感謝している。が、俺はお前さんを妻として迎え入れることはできんぞ」
「え……?」
鈴鹿は少しだけ目尻を下げて、黒真珠の瞳で田村麻呂を見た。が、田村麻呂は首を振った。
既に都では多妻一夫のしきたりが普及しつつあったが、田村麻呂は
「ここの鬼は屠ろう。が、そのあとのお前さんの天命に、俺は責任を取れまいよ」
「……はい、わかりました。ぬし様」
鈴鹿は袖で目元を覆って泣き濡れているが、田村麻呂はそれを見て見ぬふりをした。
男たちが一斉に襲ってくる。
田村麻呂が直刀を振るえばそれで散らばり、弓矢を射抜いてきた物は、避けて自身も弓矢で応戦し、石つぶてをぶつけてくるものに対しては、直刀の柄で打ち返して、相手の脳天に石をぶつけてやった。
大勢が、負けじと弓矢を射貫いてくるが、やはり田村麻呂はそれを物ともせず、直刀で捌き、首を刎ねていく。
その一騎当千の様を、鈴鹿は袖で目元を抑えたふりをしながら、紅潮した頬で眺めていた。
「……やはり、あのいけ好かぬ男よりも、美しい戦いっぷりの男のほうが好ましい……」
そもそも鈴鹿は大六天魔王の娘なのだ。戦闘を好み、強い男を好み、そして女を物としか思わぬ男を忌み嫌う。
大嶽丸に自身の誇りを穢された身としては、田村麻呂を手放すのは惜しい逸材であった。
しかし。彼女は自身の持つ刀をうっとりと撫でる。
普通の女は、背中に三振りも刀を差していては重くて動けぬが、鈴鹿はそれでも難なく動いて見せた。
一番短い
田村麻呂に差し出した
「……やらぬよ。誰とは知らぬ女には」
粘りを帯びた目で、刀を振るう田村麻呂を見つめていた。
鈴鹿自身も男たちから隙あらば裏切り者と狙われたが、彼女はうっとりしながらも、自身の宝蔵の刀で射貫き殺し、自身に近付けさせなかった。
やがて、静まり返ったところで「なんだ、ずいぶんとやってくれたじゃないか」と高笑いを上げながら、野太い男の声が轟いた。
山の反対側から、赤銅色の男が現れたのだ。先程まで戦っていた細っこい鬼よりも明らかに筋肉が乗った男は、女を背中に担いでいた。そして、その女の姿を見て、田村麻呂は愕然とした。
彼女の口には、布が突っ込まれて、彼女はよだれ混じりの口を必死で開けて、赤銅色の男の背中を蹴り続けていたが、男はびくともせず、せせら笑っている。
「悪玉……!」
「なんだ、亭主様が留守の間に、男を連れ込んだか」
その男を、憎々しげに鈴鹿は睨む。
「誰が亭主様だ。わらわは、貴様を亭主と思ったことは一度たりともない」
「で、この鬼のような男は誰だ? 金色の髪に、空色の瞳……こんな醜い男、この辺りじゃ見かけねえなあ」
赤銅色の男が、挑発するように田村麻呂に言い放つが、田村麻呂は「はんっ」と鼻で笑い飛ばす。
「妻を返してもらおう。俺は妻に褒められたのなら、それで充分だ」
「貴様にこの上玉はふさわしくねえ!」
「……貴様のような、外道にもふさわしくはなかろうよ」
田村麻呂は直刀を抜くと、赤銅色の男……大嶽丸は嘲笑って天上に刀を掲げた。途端に、宝蔵から大量に得物が出てくる。
それが次から次へと射出され、田村麻呂を殺さんとばかりに降り注いでくる。が、田村麻呂は全力で走り、ときおり直刀で降り注ぐ刀を振るっていた。本来なら、霜柱が立つというのに、霜柱すら起きない。
「……ん、貴様、その直刀は?」
大嶽丸の宝蔵から出た刀は、山肌を凍らせ、辺りに霧を起こし、視界を濁らせていた。しかし、それでもなお、田村麻呂が足下を凍らされて身動きを封じられることも、直刀が凍ることもなかったのだ。
「いい刀だな、騒速丸。貴様、解けるか?」
田村麻呂が褒めた途端に、どろりと姿を変えた。
悪玉は、ぽかんと大嶽丸の背中で、それを見ていた。火の鳥が、大嶽丸を焼かんと、迫ってくるのである。
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