同居
離れは昔ながらの武家屋敷である。
洋式造りの母屋よりもがたついて、隙間風がピューピューと滑り込むありさまであった。
みずほが普段寝ている寝室も同じで、畳は毛羽だっているし、布団は何度干しても膨らまなくなってしまった煎餅布団であった。
彼女は寝る前に文机を横に倒し、朔夜に向かって告げる。
「いいですか、朔夜さん。寝るときはここから先に入ってはいけませんよ」
「夫婦が共寝をするのは当たり前だと思うんだがなあ」
「……そもそも、どうしてあなたが私の夫になるんですか。認めた訳ではありません」
「家族公認ではないか」
朔夜のあっけらかんとした言葉に、みずほは頭が痛くなった。
この男の封印が解けたのだって、元を辿ればみずほのせいだし、家族の身に危険が及ばぬように引き取っただけ。そもそも彼が何者なのかはちっともわかっていないのだから、手元でいつでも斬れるようにと思っただけだというのに。
顔をしかめているみずほと朔夜の間に、浄野が「まあまあ」と割って入る。
「みずほは年頃な上、同年代よりも大分と初心な娘です。まだ夫婦のなんたるかもわかってないのですから、どうか彼女の話を聞いてあげてください」
「……貴様に聞いた覚えはないが、まあいい。俺もみずほを困らせたい訳ではないのだから、今はその話に乗るとしよう」
「ありがとうございます……しかし、その格好では目立ってしまいますね?」
浄野の指摘に、みずほも押し黙る。
朔夜はどう見ても大昔の武士の出で立ちなのだ。ただでさえ顔かたちが異人のそれと同じく彫りが深いのだから、余計に目立ってしまうし、寝苦しいだろう。
しかし朔夜は平然としている。
「俺からしてみれば、お前たちがこんなさも下着のような薄い格好で寝るほうが困惑するんだがなあ」
そう言って、寝間着姿のみずほと浄野を見比べる朔夜。
朔夜の言葉に、みずほはばっと胸元を庇って彼を睨んだ。浄野は困り顔で「まあまあ」と言う。
「どこの時代でも、郷に入ったら郷に従えという言葉がございます。今の時代、この格好で眠るのが当たり前です。朔夜様には恥ずかしいかもしれませんが、こちらの寝間着を用意しますので、そちらに着替えて眠ってください」
「ふむ……時代が変われば珍妙なしきたりも増えるな。寝るときにわざわざ着替えるとは」
朔夜がしきりに首を傾げながら、浄野が用意した寝間着に着替えるために寝室を離れていった。
それにみずほはほっとしつつ、枕元に置いてある刀掛けにやっとのこと、自身の刀を掛けた。
今日はさんざんな一日だった。
夜から依頼で橋の鬼を退治に行ったと思ったら、中庭の訳のわからない祠の封印を解いてしまった。そもそも、本来だったら害がなく捨て置かれている幽鬼だって、祠の上で暴れなかったら斬ることだってなかったのに。
みずほは布団を敷きながら、今日一日のことを思い返し、溜息をついて、ふと疑問に思う。
幽鬼を斬ろうとさえしなければ、朔夜の封印だって解かれなかったのだ。
まるで幽鬼が祠の屋根で暴れ回ったのは、封印を故意に解かせようとしていたかのように思える。それにみずほは顔をしかめた。どう考えても、幽鬼を誘導したのは、朔夜なのだ。
やたらと耳障りのいい言葉ばかり使うが、やはり信用のおける存在ではない。
彼が何者かは知らないが、気を許しては駄目だ。そう心に誓ってから、彼女は布団に潜り込んだ。
みずほはいつだって、ほとんど夢を見ずに眠る。その日も夢を見ることなどまるでなく、朝を迎えた。
****
みずほの朝は早い。
まだ日が出ぬ前にそっと起きて、着替えを持って浴室まで移動する。姿見を確認しながら、胴着に着替えるのだ。
胴着に着替えたら、先に袖をたすき掛けして、台所に入る。
このところはどこの家庭でも台所に
母屋で数少なくみずほの出入りが許されている場所。それは道場であった。
田村家は武家の出なため、浄野以外の上の兄も警察で働いている。あとひとりの兄は大学に通っているが、卒業し次第警察に入ることだろう。そのために自主稽古に励むべく、朝の鍛錬は推奨されていたのだ。
みずほは刀の替わりに木刀を握る。本来、道場での稽古は竹刀でするものだが、みずほは今でも鬼を斬るための刀を握っている。軽くて簡単に振り回される竹刀での稽古よりも、重さも構え方もより実戦に近くなる木刀のほうが、彼女には向いていた。
みずほは木刀を構える。そして風を切るようにして振るう。
ブン、という、強い音。
そのままブン、ブン、と何度も何度も振るっていたら、だんだんと体も温まってきて、汗も噴き出てきた。
もうしばらくしたら、一度井戸で体を清めてから、朝餉をつくりに戻ろう。みずほがそう思っていると。
「ふむ……弓矢は今は使わんとは聞いていたが、実戦のための鍛錬とは程遠いな」
そうぼやき声を上げたのは、朔夜であった。
衣冠姿もまた麗しかったが、浄野の用意した寝間着姿もまた、独特の色香があった。衣冠では肩幅も首筋も隠されていたが、寝間着になればそれらが露わになる。首筋は存外に太く、寝間着からは鎖骨も胸板も覗いている。その胸板には存外に筋肉が乗っているのは、細く見えても鬼だからなんだろうか。
金色の髪が朝焼けの受けて光輪を浮かべ、こちらを見る蒼の瞳も輝いて見える。
もしそれを見ていたのがみずほでなければ、この朝焼けを受けている美丈夫に見とれていたのだろうが、残念ながら彼を見ていたのはみずほであった。
みずほは彼を睨み付けながら、木刀を振るう。
「いいえ、実戦向けだと思います。あなたの時代は存じませんが、今の時代、弓矢を射る場所なんてありませんから。それにあなたの差していたあの長い刀なんか、町中で振るうことなんてできないでしょう?」
「そうか? いや、そうか。俺のいた時代よりもまあ、ずいぶんと狭っこくなったしなあ、どこもかしこも」
そう素直に納得する朔夜に、みずほはほんの少しだけ拍子抜けした。
この男はどうにも掴み所がないのだから。そして、思ったことを口にしてみる。
「……あなたは、いったいなにをして祠の中にいたんですか」
「俺か? ここの先祖とやり合ったからなあ」
「ご先祖様と……ですか?」
その言葉に一瞬だけ朔夜の瞳が曇ったが、みずほは見ないことにした。
朔夜はぽつんぽつんと語る。
「ああ……ひどいもんだったさ。まさか、千年近く封印されているとは思いもしなかったが、まあ……いいこともあった。お前さんに出会えたしなあ」
朔夜はそう言って、目を細めた。それにみずほはますます冷たい目をする。
「それは、私があなたの封印を解いたからですか」
「いや? 俺とお前さんは、そんな封印ごときで邪魔される仲じゃないさ」
「訳がわかりません」
だんだん、みずほの振るう木刀の太刀筋が滅茶苦茶になってきた。
普段であったらもっとしっかりと振るうのに、どうもこの男といるときは気が乱れる。
最後に大きくブン、と振るって、ようやくみずほは息をついた。
「食事をつくらなければなりませんから、今日はこの辺で」
「ん、食事? そんなものまでお前さんがやっているのか?」
朔夜が少しだけ目を吊り上げたが、みずほは流すことにした。
「母屋で私は食事が摂れませんから、自分でつくる他ありません。食材は毎日届けられていますから、それでつくっています」
「そうか、そうかあ……」
「あの、私は千年前の食事というものは知らないのですが、朔夜さんはどうなさいますか?」
そのひと言に、朔夜は蒼い瞳を瞬かせた。
「なんだ、俺にもつくってくれるのか?」
「私は鬼の食事なんて知りませんが……食べないんですか? どうせ料理は重労働なんです、ひとり分つくるのもそれ以上つくるのも、手間は変わりませんから」
「そうかあ……なら、ありがたくいただこう」
少しだけ気が緩んだ朔夜の顔を見ながら、今日届けられた食材や糠床に漬け込んだ野菜のことを思い返した。
そういえば浄野は離れで食事を摂るのか母屋に戻るのか聞いていないから、聞かなければいけない。
みずほの気持ちは、知らず知らずの内に軽やかになっていた。
普段離れでひとりで食事をし、ひとりで風呂に入り、ひとりで眠っている。誰かと食事を摂るのは本当に久しぶりなため、どうしても気持ちが温かくなるというものだった。
****
井戸で一旦汗を流したみずほは、離れに戻るとさっさと着替えて食事の準備に取り掛かる。
かまどに火をつけ、釜を仕掛けて米を炊いた。
届けられた青菜を茹でて、すり鉢の中ですりおろしたごまと砂糖、醤油と和えて、青菜のごま和えをつくる。
残った青菜は鰹節で
干し魚を焼いて、醤油と一緒に添える。
糠床からは大根を取り出し、それを刻んで香の物にすることにした。
ご飯をよそい、それぞれを器に盛りつけてから、お膳の上に並べる。
ひとりで食べる分にはそこまで問題がない食事だが、人に出していいものなのかがわからない。特に、歴史に疎いみずほでは、千年前の食事なんてわかりようがなかった。
それらを広間にまで持っていくと、ちょうど浄野に出された服に袖を通した朔夜と鉢合った。
シャツを着て着物と袴と合わせた姿は、日本に帰化した異人の文士を思わせて、金髪碧眼という目立つ容姿も、衣冠よりはよっぽど目立たなくなってくれた。しかし朔夜はというと、袖を弄ったり首筋を弄ったりとどうにも落ち着かない。
「この時代は、こんな窮屈な服を着ているのか? 体にぴったりと纏わりついて落ち着かないんだが……」
「今は衣冠は専門職の人以外は滅多に着ませんから。似合っておりますよ」
「みずほが言うんだったらそうなんだろうが……それが、今の時代の食事かい?」
お膳の上に並べられたものを、不思議そうな顔で見る朔夜は、みずほからはほんの少しだけ面白く思えた。
みずほは自身のつくった朝餉の中身を見る。
「他の士族の方や華族の方が、どのようなものを食べているのかは知りませんが。これが私の食事です」
お膳を朔夜の前に出したら、まじまじと見てから、お膳の前で胡坐をかいて、食べはじめた。
存外綺麗な箸使いで魚から骨を外して食べ、味噌汁をすする。そしてご飯を心底美味そうに頬張る。
「あのう……千年前の食事がわからなかったので、私の普段食べているものを出しましたが……どうなんでしょうか……?」
「すごいな、温かい上に全て味が付いている。美味い」
そう言いながら、満足げに香の物をカリコリと齧るのに、みずほはなんとも言えない顔になった。
鬼は生肉しか食べなかったんだろうか。でも大昔に塩の奪い合いで戦をしていたという話もあるのだから、塩は貴重品だとしたら、食べたことがなくてもおかしくないのかと考え直す。
満足げに食べているのを眺め、みずほも自分の食事を摂りはじめた。
ふたりで静かに食事を摂っていると、母屋に戻っていた浄野がやってきた。
「お待たせ。食べても大丈夫かい?」
「はい、
用意はしているものの、これで高子の機嫌が悪くなって浄野に当たらないだろうかという心配がある。
みずほの言葉に、浄野はゆるりと笑う。
「一応俺は、みずほと朔夜様を見守らないといけないしね。それに警察からの依頼をみずほに届けやすくなったと思えばいい。先程俺の部署から伝令が来てね、早速みずほ宛の依頼が届いたんだよ……昨日の今日で、本当に悪いけどね」
その言葉に、みずほは姿勢をピンと正した。
それに朔夜は少しだけ瞳孔を細めて浄野を見やる。
「一応確認するが、みずほの行っている退魔の仕事とやらは、そう頻繁に入ってくるものなのか?」
「本来ならば、ひと月に一度入ってこれば多いほうです。そう毎晩仕事は来ないはずですが、このところ頻繁で……朔夜様は、どうぞみずほが出ている間、ゆるりとくつろいで……」
「どうして妻があくせく働いている中、俺ひとりがこんなところに治まっていなくちゃいけないんだ。みずほの仕事とやらに、俺も行けばいいだろ」
浄野は少しだけ困惑した顔をして、みずほを見る。みずほは姿勢を正し、硬い表情のままだ。
「……あなたが鬼なのかなんなのかわかりませんが、私の邪魔だけはしないでください。
朔夜は了承したように、目をぱちんと閉じたのを見てから、浄野はほんの少しだけ困惑したものの、口を開いた。
「……妙齢の女性の神隠し騒動が続いていてね。警察も捜査を続けているものの、追跡ができないでいる。みずほも年頃なのだから、依頼をどうにか誤魔化せないかと考えていたのだけれど、朔夜様がいるのだったら、まだ安心かもしれないね」
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