朔夜

 男はじっとみずほを見る。上から下まで。

 寝間着姿の彼女は、思わず刀を持ったまま片手で胸を抑える。


「な、なんなんですか。本当にあなたは……!」

「ふむ。この時代もあまり代わり映えがしないなあと思っただけのことだ。そういえば、今の元号はなんだ?」

「……大正ですが」

「たいしょう。ふむ……ふむふむふむ……なるほど、そうかあ、そうかあ」


 男はずいぶんと間延びした声を上げて、納得したような、してないような顔をする。

 本当に気の抜ける。


弘仁こうにん時代の人間からしてみれば、ずいぶん来世の話だと思ってな」

「こうにん……」


 聞いたことのない元号で、みずほは眉を潜ませるが、男は暢気に「今の区分だといつなのかは知らんぞ」と答えた。

 この存在のことは本気でよくわからないが、大昔に封印されたことだけは理解した。

 そしてなによりも。


「……では、どうして私のことが妻なんですか」

「そりゃ、お前さんだからなあ」

「何故ですか」

「んー……? そういえば、お前さん。名はなんだ?」


 出会い頭に女を引っかけるのか。最低だ。ますますみずほの見る目が厳しくなる中。


「なんなんですか、さっきからうるさい……!!」


 女の甲高い声が響き、みずほはビクンと肩を跳ねさせた。

 母屋から寝間着に羽織りを羽織った、美しい女性がこちらに怒鳴り込んできたのだ。


「……お義母様かあさま


 義母の高子たかこであった。

 彼女は中庭を見るや否や、ぷらんと垂れ落ちた注連縄しめなわを見て、みずほの隣にさも普通に立っている時代錯誤な格好の異人の男を見て、とうとう悲鳴を上げた。


「ちょっと……! あなた……なんてことしてくれたの!?」

「え……?」

「これは……鬼じゃない! どうするというの!?」


 残念ながら、高子はみずほのように魑魅魍魎を見ることはできない。そもそも、現在の田村家で魑魅魍魎を認識できるのは、みずほだけだ。坂上田村麻呂の正式な血筋である父や兄たちもそうなのだから。

 だから彼女からしてみれば、みずほが幽鬼を斬ったことも、幽鬼を斬る際に注連縄が切れてしまったことも、当然ながらわからないのだ。

 高子の金切り声を聞いて、母屋から次から次へと人がやって来た。

 父の生野は苦虫を噛み潰したような顔で、みずほと男を見比べた。


「みずほ……なんということをしてくれたのだ」

「……お父様……申し訳ございません」


 みずほは、しゅんとしたが、皆から困惑の目で見られている鬼の男だけは、どこ吹く風でぐるりと母屋の住民を眺めていた。

 彼を封印した人間の子孫だからだろうか、その視線はどこまでも蒼い瞳の色と同じく怜悧であった。


****


 普段、家族会議の場にみずほはいない。

 彼女は普段からほとんど母屋に入ることがなく、離れで家族会議で決まったことを、一番優しい兄の浄野から聞かされる形で決定を知るのだから。

 しかし今回ばかりは当事者なので彼女を放置することもできず、鬼の彼と一緒に久々に母屋の広間に呼ばれ、正座ですることとなったのだ。


「あの祠の封印を、もう一度することはできないんですか?」


 高子は金切り声を上げる。

 異人のような顔立ちの鬼に怖がって、生野の隣から離れようとしない。高子の提案に、生野は首を振る。


「あれは陰陽師でなければ、封印することはできまいよ……残念ながら、みずほでは封印することもできまい」

「なら殺すというのは」

「やめなさい。それもみずほごときではできまいよ」


 夫婦の会話に、みずほは膝に視線を落とした。

 口を挟むことができない。

 この家で今代唯一の退魔師であるみずほだが、彼女は妾の子な上、発言権が極端にない。

 この家に新しい女が生まれれば用済みで、彼女はただの退魔師の繋ぎなのだから。

 目の前で鬼の処分について平然と意見が交わされていても、それに口を挟むことはできなかったが。

 男はあっさりと口を挟んだ。


「俺は妻に呼ばれて来たのだから、妻が俺を封印すると言わない限り、聞かぬぞ」

「妻ぁ……?」


 生野は口をあんぐりと開けた。高子は袖で口元を抑えている。

 兄たちも同じような顔をする中、浄野だけは「ちょっと待ってください」と男に声を上げた。


「それは、みずほは了承しているのですか!?」

「了承するもなにも」


 男は口元にゆるりと弧を描くが、瞳はちっとも笑ってはいなかった。

 まるでこの場にいる全てが、みずほ以外が敵とでも言わんばかりの顔をしてみせたのだ。


「妻に感謝するのだな。妻は貴様らを敵と認識していないから、こうして貴様らは生きていられるのだから。俺が刀を振るえば、ただでは済まぬと、そう思え」


 そう言って、腰に提げた直刀の柄をシャンと叩いたのだ。それに浄野は声を詰まらせる。

 高子は「あなた……!」と生野の袖を引っ張るが、生野は苦虫を潰した顔のままだ。


「……わかりました。みずほの所有者として認めましょう」

「話が早くて助かるな」


 みずほは困惑して、この会話を聞いていた。

 この男がなんなのかわからないのに、任せられても困るが、自分が彼を捨て置けば家族に危害を加えると言われてしまったのだから、放っておくこともできない。

 だからと言って、この男と離れで暮らすのも嫌過ぎる。

 みずほは助けを求めるように、浄野を見た。浄野も本気で困惑した顔で、男とみずほを交互に見て、意を決したように口を開く。


「大変申し訳ございません……異母妹いもうとが本気で困っていますので、彼女が決意を固めるまではあなたの世話役として、私が離れについていってもよろしいでしょうか……?」

「俺は正直、夫婦水入らずで過ごしたいから、外野は邪魔だが……妻はどうする?」


 その言葉に、みずほは少しだけ目を丸く見開いた。

 家族で自分の意見を求めるのは、せいぜい浄野くらいだったのだ。何故か自分を妻だと言い出す鬼が、自分の所有者だというのに、我関せずで離れで籠城を決め込む真似をせずに、きちんとみずほに意見を求めたことに驚いたのだ。

 鬼にとって、女は道具か食料だというのに。

 みずほは少し目を瞬かせたあと、ゆっくりと自分の意見を告げる。


「……妻じゃ、ないですが、あなたが私の家族を殺すとおっしゃるなら、放っておくこともできません。異母兄様にいさまが間に来てくださらない限り、あなたとは暮らせません」

「そうか。ではそれが来ることは差し許そう」

「ありがとうございます」


 浄野は深々と頭を下げるので、みずほはますます困惑していた。

 異人の姿を取った鬼には初めて出会ったが、何故父と兄たちがここまでこの鬼に脅えているのかがわからないし、何故かこの鬼は自分を優先する。

 いったい自分は、なんの封印を解いたのだろうか。

 一番困惑しているのは、この鬼から、魑魅魍魎と対峙したときの怖気おぞけを感じないということだ。

 家族会議の結果、この鬼の処遇は全てみずほに一任する。監視として浄野が間に入るということで決着が着いた。


****


 離れに戻る際、桜が未だに咲いていることに、困惑の顔でみずほは顔を上げた。

 浄野は自分の分の布団を抱えながら、みずほの隣で桜を眺める。


「すごいね、彼の封印が解かれた途端に、桜が咲くなんて」

「なにかの兆候でしょうか……私には気味が悪いです」

「いや、俺の封印が解かれたことで、一緒に時が動き出したんだろう。明日にでもなれば、桜は散るだろうさ」


 困惑の元凶である異人の男は、どこまでも暢気なものだった。

 みずほは少しだけ目を吊り上げて、彼を睨む。


「それで……あなたはいったい誰なんですか。名前のひとつも教えないで」

「知らせたところで、お前さんがこうじゃどうにもならんしなあ。あー、そうだなあ、お前さんが適当に名前を付けてくれや。騒速丸そはやまるでもなんでも」

「張り倒しますよ、そんな罰当たりな名前を付けられますかっ」


 ちなみに騒速丸とは、田村家の先祖、坂上田村麻呂の所有していたとされる剣の名前だ。彼に封印されたはずの男に付けるには、たしかに罰当たりな名である。

 しかしちっとも男は悪びれることもない。

 先程、家族たちの場では瞳はちっとも笑ってはいなかったが、この場において男の目は優しい。

 みずほはこの訳のわからない男に呆れつつ、狂い咲きの桜を見た。

 今晩は月のない夜で、桜が散らばっている。


「……朔夜さくや

「ほう?」

「あなたの名前は、今日から朔夜です。今晩は朔月ですし、桜が咲いていて音も合いますから」

「ほう……!」


 男は嬉しそうに目を細めたかと思ったら、みずほを抱き抱えた。


「そうか、お前からそう呼んでもらえるのか! じゃあ俺は今日から朔夜と名乗ろう! 我が妻!」

「ちょ、ちょっと……お止めなさい! 止めなさい……!」


 みずほは浄野の前で子供のように高い高いされて、恥ずかしさの余りに顔を赤面させる。浄野はというと、虚を突かれた顔をして、ポカンとしているものの、取りなすように「お止めください、みずほが嫌がっていますので」と助け船を出した。

 朔夜と名付けられた男は、満足げにみずほを下ろして、彼女と目を合わせた。


「そうか、我が妻は照れ屋だったな」

「……あの、ですね。そもそも私は何故あなたの妻なんですか。私の名前は我が妻ではございません」

「不満か? じゃあなんと呼べばいい?」

「……私はみずほという名前がございます。我が妻なんて恥ずかしい呼び方をするくらいならば、名前で呼んでくださったほうが何倍でもましです」

「そうか、じゃあみずほ」


 そう呼ばれ、みずほはじっとりと彼を睨んだ。

 みずほは初等学校までしか行っていない上に、家族以外からこうもなれなれしく名前を呼ばれたことがない。そもそもこのご時世、家族以外の男と女が距離を詰めて一緒にいるのがまずおかしいのだ。

 いくら間に浄野が入ってくれたとはいえど、こんな距離感のおかしい男とひとつ屋根の下にいなければいけないのかと思うと、みずほはげんなりとした。

 浄野は困った顔で、やんわりと朔夜に言う。


「みずほが困っていますので、その辺に」

「そうか」


 何故か朔夜は、浄野に対しては冷たいままだった。

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